第19話

文字数 6,765文字

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 一時間前にときおり強い風が吹き、雨が降った。いまは雨は上がっている。風も気にするほどではない。天気に関係なく、まだ遊び足りない若者や、飲み足りないサラリーマンで、この街は人で溢れていた。
 人でごった返すスクランブル交差点を渡った。すれ違う人にぶつからないように注意をしながら歩いた。
 109を左にみながら文化村通りに入った。この通りは、いつから文化村通りと呼ばれるようになったのか。古い人間は、東急本店通りの呼び名のほうがわかりやすい。そんなことを考えながら、緩やかな上り坂を早足で歩く。結構きつい。約束の時間を少しすぎていた。
 約束のコーヒーショップはビルの二階だった。ビルはすぐにわかった。エレベーターを使うまでもない。若いカップルのあとに続いて階段をのぼった。
 店内は意外に広かった。ゆったりとしたソファーがあり、天井にはシャンデリアが輝いていた。ジジイが気後れするほど若いカップルと女性客で店内は占められていた。小田愛子は奥まった窓側の席で、遠くからでもわかるほどしょんぼりと座っていた。
「遅れて申し訳ない」
 小田愛子の前に座り、ハンカチで額の汗をぬぐった。冷房が気持ちよかった。
「私もいまきたばかりです」
 彼女の前にはコーヒーが置かれていた。注文を聞きにきた小田愛子と同年代のウエートレスに、私もコーヒーを注文した。
「心配だね」
 小田愛子は悲しそうにうなずいた。
「居留守ということはないだろうか」
「名前を呼んだので私だとわかるはずです。それでも居留守をするんだったら悲しいです」
「ところで涼平君のお母さんを知っているかい」
「お母さんですか……いいえ、知らないです」
「そうか……ではお母さんは涼平君がいなくなったことは知らないんだね」
「知らせたほうがいいんでしょうか」
 ウエートレスがコーヒーを持ってきた。私の前に置いて去る。小田愛子が思い出したようにコーヒーカップに手を伸ばした。私もひとくち飲む。少しぬるいが味は悪くない。
「いや、その必要はないだろう。もっとも連絡がつかなくなってから今日でまだ三日だ。遊び歩いていてアパートに帰らないのかも知れない。若い男だったらよくあることだ」
「電話をしても電源が切られているみたいだし、メールも返信がないんですよ。そもそも携帯の電源を切っているなんてあり得ません」
「君たちの年代ではそうなの?」
「絶対にありません。電池がなくなればどうにかして充電します」
「それだけ遊びに夢中になっているとか」
「そうだといいんですけど……」
「それとも別の理由を知っているのかい」
「……いいえ」
 少ししてかぶりを振った。とたんに表情が硬くなった。まだ直球は早いか。少し変化球を投げてみる。
「君は涼平君の友達だといったよね」
「はい」
「どこで知り合ったの」
「涼平さんは私の兄の友達なんです。そこで私も自然と知り合うようになったんです」
「なるほど。お兄さんはなにをやっているのかな」
「兄は……」
 言いにくそうだ。質問を変える。
「お兄さんは学生なのかな」
「違います」
「すると会社員かな」
「会社員と呼べるのかどうか……」
「どういうこと」
「いわないといけないんですか」
「隠すことなの」
「そういうわけでは……」
「じゃあ教えてよ」
「どうしてもいわないといけないんですか」
「涼平君をさがす手掛かりになるかも知れないからね」
 ちょっと強引だったかも知れない。だが隠すと知りたくなる。
「実はホストなんです。新宿のホストクラブに勤めています」
 声には不快感が出ていた。
「ああ、ホストね。でも隠さなければいけない職業でもないよ」
「そうなんですけど……私、嫌いなんです。ちゃらちゃらしてて」
 今度は表情に不快感が出た。若い娘の特徴なのか、感情が声や表情にすぐ出る。
「お兄さんと涼平君は同じ年代なの」
「兄のほうがちょっと上です」
「というと二十五か六?」
「二十八です」
 涼平は直人よりふたつ上と片桐道子から聞いている。
「すると、お兄さんは涼平君とは四つ違いか」
「そうなりますね」
「ちなみに、君とお兄さんはいくつ違うの」
「六つです」
 二十二歳にしては幼くみえる。黒目がちの大きな眼のせいか。
「そうそう、お兄さんの名前は?」
「英明です。小田英明です」
「涼平君と英明兄さんはどういう友達なのかな」
「むかし一緒に遊んでいたんです」
「なるほどね。やんちゃをしていたんだね」
「そうです。言いにくいんですけど、暴走族仲間です」
 またもや声には不快感が出た。
「英明兄さんはリーダーだったんだね」
「そうなんです。いまでも当時の仲間はつるんで遊んでいます」
「君は嫌いなんだね、連中を」
「嫌いです」
「でも涼平君は別なんだね」
「涼平さんは仲間といっても、一番下で、弟みたいな存在だったから、ほかの人たちとは違うと思います」
 なんとなく構図がみえてきたような気がする。小田英明が涼平の失踪に関係している。失踪だったとすればだが。でもそうだといっている。私の勘だ。
「こういうことをいうと君は怒るかも知れないが、あえて涼平君の状態を失踪と呼ぶよ。ただ他意はないよ。話をするうえで説明しやすいというだけのことだ。いいね」
 口を尖らせたが反対する言葉は聞かれなかった。
「もしかしたら、君のお兄さんが涼平君の失踪に関係しているんじゃないのか」
 言葉がない。あきらかに動揺している。
「そうなんだね」
 小田愛子は自分の手をみつめたまま、たっぷりと三分間は黙っていた。
「なんでそう思うんですか」
 やっと口を開いた彼女は怒った声を出した。
「勘だよ」
「勘ですか。ずいぶん曖昧ですね」
「しかしこれが意外とあたる。それでどうなんだね」
「私が話をしたら、佐分利さんは真剣に涼平さんをさがしてくれますか」
 なかなか機転が利く。
「約束するよ」
 直人と涼平の失踪は、どこかでつながっているような気がする。ということは、直人をさがすということは涼平もさがすことにつながる気がする。これも私の勘だ。
「本当ですね」
「信用できないかい」
「ごめんなさい。じゃあ話します……涼平さんは兄から恐喝されているんです」
「恐喝? それは穏やかではないね」
「私、たまたまふたりの会話を聞いてしまったんです」
「詳しく話してくれるかな」
「涼平さんは兄の恋人だという女と関係を持ったんです。でもその女は兄の恋人でもなんでもないんです。兄がその女とグルになって涼平さんを騙したんです」
「美人局というやつか」
「なんですそれ?」
「いや、なんでもない。それで?」
「リーダーの命令は絶対だという暴走族の掟を持ち出して、恐喝したんです。いまだにそんなことをいっているんですよ」
「つまり、お金か」
「そうです。要求は二百万です」
 阿比留伸介への借金申し込み額と一致する。
「ふたりの会話を聞いたのはいつ?」
「五月一日です」
 涼平が阿比留伸介に会ったのが五月十三日。その間は、涼平の悩める日ということだ。
「今月中なんです。期限が」
「それでお金の工面ができなくてやむなく失踪か……そこで君は心配になって彼のアパートに行ったんだね」
 小田愛子がうなずいた。
「お兄さんと女がグルになって涼平君を騙したといったが、その証拠はあるの」
「その女はキャバクラの女なんです。私、会いに行ったんです。そこですっかり聞きました。兄にそそのかされて涼平さんを騙したことを」
「君はみかけによらず行動派なんだね」
「私がダシに使われたのかと思ったら、我慢できなくて会いに行きました」
「どういうこと?」
「兄が涼平さんを騙す一か月ほど前です。兄に誘われて四人で飲みに行ったんです。兄と私と涼平さんとその女です。そこで兄はその女を恋人だと紹介しました。その場は涼平さんを安心させるためのもので、仕組まれたものでした。それから少しして、女は涼平さんを誘惑したんです。それは女から聞きました」
「そこで関係を持ったんだね」
 小田愛子はうなずき、唇を強く噛んだ。
「言葉巧みに誘ったんです。筋書きを書いたのは兄なんです」
 涼平にも非があると思ったが、いまにも泣きそうな小田愛子が本当に泣くかも知れないので、口に出すのはやめた。
「その女は、そうそう、女の名前は?」
「相沢めぐみ」
 小田愛子は苦々しい顔で女の名前をいった。
「相沢めぐみはよく話してくれたね」
「兄に騙されたといって怒っていました。なんでも約束のお金を値切られたんですって。だから私が聞いたことは全部話してくれました。兄はお金に汚いんです」
「お兄さんは、弟みたいな存在の涼平君を騙してまでそんなにお金が必要だったのかな」
「理由は知りません。涼平さんを騙したのは、一番騙しやすかったからだと思います」
「涼平君というのは、暴走族仲間では使い走りの存在だったんだね」
「そうみたいです」
「涼平君は本当はおとなしくて優しいんでしょう」
「そうなんです。いきがってやんちゃはしているけど、根は優しいんです」
「そうだ、涼平君の写真はないかな」
「あります。ちょっと待ってください」
 スマートフォンをバッグから取り出した。
「半年ほど前の写真です。私と一緒に写っています」
 スマートフォンの画面を私に向けた。
 ふたりとも笑っている。顔を寄せ合ってまるで恋人のようだ。やはり直人と似ているようだ。直人を少し太らせたような印象だ。
「なかなかイケメンだね。モテるだろうね」
「ええ」
 小田愛子が伏し目がちにうなずいた。
「そうそう、涼平君に彼女はいるの?」
「知りません。本人はいないっていってたけど……」
 小田愛子の表情は複雑だ。確信が持てないのだろう。しかし、涼平は相沢めぐみと関係を持った。それでも小田愛子は許すことができるのだろうか。そう考えることじたいがジジイの証拠か。まさか涼平は相沢めぐみのところにしけ込んでいるのでは。それを小田愛子は考えなかったのだろうか。あえて考えないようにしているのか。しかし、しけ込んでいるのがもし事実ならば、小田愛子があまりにもかわいそうだ。
「それで、涼平君なんだが、君が恐喝を知ってから、本人には会ったかい」
「会ってはいません。ほとんどメールのやり取りだけです」
「メールでそのことについてやり取りしたことはあるの。つまり真実を告げたりはしなかったの」
「できませんでした」
「なぜ?」
「兄が怖かったのと、涼平さんがそんなことをしたのがちょっと悔しくて……」
「でもいまさがしているのは、心配のほうが勝ったんだね」
「はい……」
「恐喝のことをだれかほかの人に話はした?」
「していません」
「もちろん、キャバクラの女に会いに行ったことを、お兄さんに話してはいないよね」
「怖くてできません」
「それだったらなにもいわないほうがいいね」
「はい」
 小田愛子は素直にうなずいた。
「ところで、君のお兄さんに会いたいんだが、住所と電話番号を教えてくれるかな」
「兄に会うんですか」
 眼を丸くした。
「そんなに驚かなくてもいいよ」
「兄は危険ですよ」
「殺されることはないだろう」
「本当に会うんですか」
「そんなに心配しなくてもいいよ」
「会ってなにを話すんですか」
「もちろん涼平君の居場所を知っているかどうかを聞くよ。ついでに南雲直人君のことも聞いてみるよ」
「南雲直人って?」
「昼に話しただろう。涼平君の従兄弟だよ」
「ああ、そうでしたね」
「じゃあ教えてくれるかい」
「無駄だと思います」
「会って相手の表情をみることも大事なんだよ」
「涼平さんのことをだれに聞いたのだと、兄は聞いてきますよ」
 小田愛子の顔が強張った。
「君のことはいわないよ。心配しないで。むかしの暴走族仲間から聞いたとでも話すよ」
「……わかりました」
 やっと安心したのか、小田愛子は横の椅子に置いてある自分のバッグから手帳を出した。私は彼女が読み上げる住所と携帯の電話番号を手帳に控えた。ついでにホストクラブの名前も聞いて控えた。
「品川のマンションに住んでいるんだね」
「はい。夜はほとんど電話には出ません。朝も午前中寝ているので出ません。出るとしたら、店に出る前の午後三時ごろです」
「わかった。ありがとう。あ、ついでに相沢めぐみが働いている店も教えてくれるかな」
「もしかして会うんですか」
「必要があればね」
 涼平がしけ込んでいる確率は五十パーセントと踏んだ。必要があればと答えたが、どうしても会って確認しなければならなかった。私は小田愛子が読み上げる店の名前と場所を手帳に控えた。
「相沢めぐみの源氏名はわかるかな」
「店では、たか子と呼んでいるようです」
 私はそれも手帳に控えた。
「なぜたか子なのかわかりますか」
「いや、わからないが、なんでなの?」
「本人は女優の松たか子に似ていると思っているみたいです。でもそう思っているのは本人だけです。ぜんぜん似ていません」
 口調は辛辣だった。
「では会ったときに確認してみよう。それで話は変わるけど、涼平君にはお金持ちの知り合いはいないだろうか。そんな話は聞いたことはないかな」
「お金持ちの知り合いですか?」
「そう、たとえば別荘を持っているようなお金持ちなんだけどね」
「なんでそんなこと聞くんです……ああ、そうか。別荘に隠れていると考えているのね」
「まあ、そうだね」
「どうだろうな……あ、そういえば、お金持ちかどうかはわからないけど、亡くなった涼平さんのお父さんが勤めていた会社の専務さんと知り合いだと、話してくれたことがあります。頼りになる人だと話していました」
 それならば阿比留伸介のことだ。
「ほかにはどうかな」
「さあ、わかりませんね……」
 小田愛子がかぶりを振った。
 コーヒーが冷たくなっていた。残りを飲み干した。
「あ、そうそう、昼に会ったときに私の顔をみて、週刊誌の人ですかって聞いたよね。あれはどういう意味なの」
「……私、きのうの夕方も涼平さんのアパートに行ったんです。そうしたら、週刊誌の人が佐分利さんと同じように訪ねてきていたんです。だから同じ仲間の人かと思ったんです」
「なんで週刊誌の人だとわかったの」
「その人のことは知っているんです。むかし兄を取材したことがあるんです」
「なんていう人なの」
「名前は知りません」
「いくつぐらいの人なの」
「四十歳ぐらいかな。はっきりとはわかりません」
「お兄さんはむかしその人に取材を受けたんだね」
「兄が暴走族を解散したすぐあとに、暴走族の取材だといって兄のところにきました。そのあともちょくちょく会っているみたいです。最近は風俗関係の取材をしているみたいです。兄が取材を受けたといって自慢していました」
「きのうはその人と会って話はしたの」
「話はしませんでした。涼平さんの部屋の前に立っているのをみたとき、すぐにその人だとわかったので隠れました」
「なぜ?」
「その人はなんとなく嫌いなんです。私は話をしたことはないんですけど、なんだか怖い感じがして」
「怖い?」
「はい。顔もそうですけど雰囲気が怖いんです」
 週刊誌の記者と年齢から連想して私は園部直樹を思ったが、いまは間違いなく違うとわかる。間抜けな顔だと園部直樹だが、怖い顔ではない。
「その人はそれからどうしたのかな」
「涼平さんがいないとわかって駅のほうに行きました」
「しかし、なんで週刊誌の人が涼平君を訪ねてきたんだろう」
「知りません。でも、暴走族の取材をしたときに涼平さんを知ったのかも知れません」
「君のお兄さんとは関係なく、別の用事で涼平君を訪ねたのかも知れないね」
「そうかも知れません」
 阿比留伸介に涼平の居所を尋ねた男と週刊誌の男がだぶった。
 小田愛子が時計をみた。私もつられて時計をみた。
「遅くまでありがとう。参考になったよ」
「ひとつお願いがあるんですけど、いいですか」
 小田愛子があらたまった口調でそういって私の顔をみた。
「なんだい?」
「もしなにかわかったら私に教えてくれますか。嫌な話でも」
「わかった。そうするよ。私の携帯にかけた番号でいいんだね」
「はい。お願いします。それから兄は乱暴者ですから充分に気をつけてください」
「気をつけるよ。ありがとう」
 それからすぐに私たちは店を出た。渋谷の街は相変わらず人で溢れていた。小田愛子とは渋谷の駅で別れた。
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