5 ただ、愛しい人

文字数 4,603文字

 翌朝、目が覚めると隣に一条はいなかった。
 壁に掛かった時計を見る。九時を少し回っていた。彼女は既に出勤している時間だ。
 起き上がり、ベッドから出てそばのドレッサーを覗く。乱れた髪に、泣き腫らした目。自分でも呆れた。
 ――失恋女子かよ。
 リビングを通って洗面所に向かい、顔を洗って戻ってきた。ソファの前のテーブルにスマートフォンを置きっぱなしにしていたことに気付き、手に取って画面を開く。メッセージアプリに一条からのメッセージが入っていた。

 ――おはよう。
   冷蔵庫にサンドイッチが作ってあります。
   ヨーグルトやオレンジもあるから、適当に食べてね。
   ゆっくりしてて。気遣いは無用よ。――

 キッチンに入って冷蔵庫を開け、思わずプッ、と笑った。
「……部活メシじゃん」
 ラップに覆われた大皿を取り出し、ダイニングテーブルに運んで一切れつまんで食べた。味は申し分なかった。が、このボリューム。軽く二斤ぐらい使ったのではないかと思う量だった。
 それでも、素直に嬉しかった。きっといつもよりずいぶん早起きして作ってくれたのだろう。どんな気持ちだっただろうか。無理をさせてるんだな。
 キッチンに戻ってインスタントコーヒーを入れ、テーブルに着くとラップを外して本格的に食べ始めた。
 そう言えば、昨日の昼過ぎから何も食べていないことに気付き、意外と全部いけるんじゃないかと思った。スマートフォンを開き、一条にメッセージを送る。

 ――ありがとう。
   それと、昨夜はごめん――

 その先が続けられなくて、結局『ありがとう。いただきます』とだけ送信した。

 食事を終え、食器を洗う。テーブルの上を片付けて、洗面所に行ってもう一度歯を磨きながら洗濯機に目をやった。
 洗った方がいいのかな、と考えた。自分の洗濯物もある。
 でも、嫌かも。下着とか。
 考えを行ったり来たりさせながら、結局電源を入れた。洗剤を入れ、蓋を閉めて表示された時間を見る。一時間半で仕上がるようだ。
 リビングに戻ってきてソファに腰を下ろした。テレビを点けたが、すぐに消す。どうせ何も頭に入ってこないことが分かったからだ。すぐ上の壁掛け時計を見た。九時五十分だった。

 そしてそのまま、芹沢は午前中いっぱいをソファの上で過ごした。背もたれに身体を預けて天井を仰いだり、膝を抱えて顔を埋めたり。途中、洗濯物が仕上がったのに気付いてベランダに出て干しただけで、あとはずっとその調子だった。クッションを枕に横になってみたりもしたが、眠ることはなかった。
 抜け殻のように、と言うのはこんなことなんだろうなと思った。
 そして彼は、ぼんやりとしたまま昨日のことを思い出してもいた。


 昨日、二宮との話のあと、

の墓に行って掃除をし、花を手向け、手を合わせた。二宮によって相当心をかき乱されてはいたけれど、墓の前まで来ると、やっぱり例年と同じ気持ちが湧いてきた。
 いつか絶対に

を見つけ出して、

をつけてやる、ということだ。
 鍋島や二宮がどう邪魔をしてこようと、そしてみちるをどんなに悲しませようと、この十年、自分の生きてきた意味はそれしかなかったから。
 決して前向きな気持ちにはなれないが、それでもまた今年も決意を新たにして、墓を後にしようとしたときだった。
 彼女の両親が現れた。
 どうして、と芹沢は思った。例年なら、自分のことを避けてもっと遅い時間にやってくるはずなのに。
 すると彼女の父親が言った。きみが来るのに合わせたのだと。
 そして、墓参りは今年で終わりにしてくれないかと。
 どうしてですかと問う彼に、母親が告げた。
 ――十年経ったのです。もう十分ですよ。あなたはあなたの人生を前に進めてください――
 彼は激しく首を振った。――嫌です、僕には彼女の死に責任がある――
 そんなことはもう考えなくていい、と父親が言った。今まで何も言わなかったのは、娘を忘れないでいてくれるきみの気持ちが嬉しかったし、そんなきみの気の済むようにと思って見守ってきたのだと。何を今さらと思うだろうけど、本当はずっと前から、もうきみには違う人生を生きてほしいと思っていた。そうしてもらえると私たちも安心するのだと言われた。
 彼は愕然とした。なんでだ、と瞬間的ではあったが腹立たしささえ覚えた。そして、安心するという言葉に心がざわついた。両親は彼の

を察しているのではないかと思った。
 するとそこで、父親が決定的な話をした。
 来年の定年退職を機に、この土地を離れることにしたと。かねてからの希望だった、田舎への移住だそうだ。そして、娘の墓も一緒にそこへ移すつもりだと。
 どこへ行かれるのですかと問うた彼に、両親は首を振った。教えるわけにはいかない、きみには知られたくないと。
 分かっていた。自分を解放してくれようとしていると。そして、彼らも解放されたがっているのだと。
 何も言えず、それでも自然に頭を垂れ、身体を折っていた。そんな自分がひどく嫌だった。

 やがて両親が去り、彼はその場に(うずくま)った。



 ――人生を前に進める――
 どうすればいいのだろうと、芹沢は考えた。クッションを抱いて、そこに顔を乗せる。掛け時計の時を刻む音だけが部屋を支配していた。
 しばらく考えて、何度も考え直して、そしてようやく分かった。
「――どうしようもねえ馬鹿だな」
 独り言を呟いて、それからふっと笑った。
 スマートフォンを操作して、いろいろと調べた。いくつかの情報をメモ機能に残して、それから一条にメッセージを送り、返事を待っているあいだに出かける支度をした。
 やがてOKの返事が来たので、今度は自分の職場に電話を入れた。課長にかなり文句を言われたが、大きな事件を解決したあとだから、要求を呑んでくれた。
 そして芹沢は玄関に行き、靴を履いて出て行った。



 夜の八時になって、一条が帰ってきた。部屋に入ってくると、キッチンでカレーを作っていた芹沢を見つけて抱きついてきた。
「こぼれるよ」と芹沢は笑った。
「カレーだ」一条はふんふんと鼻を鳴らした。「楽しみ。早く食べたい」
「着替えた方がいいぜ。白のブラウスは危険だ」
 うん、と言って一条は顔を上げた。にっこり笑って離れようとする彼女の手を取って引き寄せ、芹沢はキスをした。
 一条は泣きそうになった。それをよしよしとなだめて、芹沢は強く抱きしめる。

 ――もう、絶対に離さない。

 だからごめん、前に進めるよと、芹沢は心の中で天国の彼女に言った。

――忘れない、永遠に。だから、さようなら。


 食事と風呂を済ませ、ソファでテレビを観ながら寛いでいる一条のそばまで来た芹沢は、スマートフォンとA4サイズの封筒をテーブルに置き、「ちょっといいか」と言った。
「あ、うん」一条はテレビを切り、神妙な顔で芹沢に向き直った。
「――ちゃんと話すよ。これまでのこと」
「え――」と一条は息を呑んだ。「……分かった」
「と言っても、何があったかはもう知ってるんだろうから、そこは省くよ。俺もしんどいし」
「うん、いい。事実は把握してる」
 そして芹沢は事件後の自分について話し始めた。
「――ひと言で言うと、地獄のような日々だった。何一ついいことなんてない。それどころか、死んだ方がマシだとしか思えないんだ。毎日が怖くてさ。最初は同情していた周囲も、そのうち視線で責めてくるんだ。おまえが待ち合わせの時間通りに行ってれば、って。そんなことは分かりきってる。頑なになって敬遠され、ときにはあからさまに拒絶されて、やっぱり俺なんかいなくなっちまえばいいんだなって思って。親が心配して、福岡へ戻ってこいって言った。それもまた怖いから嫌だと言うと、心療内科へも連れて行かれた。PTSDだって言われたよ。だからどうなんだって思った。どうせ死ぬんだから、大学なんてやめてやろうと思ったけど、だったら実家へ連れ戻されると思って、それだけは嫌でさ。どうせ腫れ物に触るように扱われるだけだから。だからとりあえず卒業はしようと決めて、授業にだけは行ったんだ。でもさ、笑っちまうのが――」
 芹沢は困ったような笑みを浮かべて一条を見た。一条もまたどうしていいかわからないという顔で芹沢を見つめる。
「――決められた時間より、異常に早く行っちまうんだ」芹沢はため息をついた。「九時からの授業だとしたら、八時には教室の前に立ってる。他の用事でも全部その調子。とにかく遅刻だけはしちゃダメだ、またひどいことが起きる、って。強迫観念だよ」
 一条は手元に目線を落とした。そう言えば、彼は約束した時間に遅れたことはない。
「そうやって、ぼろぼろの自分を何とか奮い立たせて、クソみたいな大学生活をやり過ごした。卒業後のことは、三年になる前に決めてた。だから頑張れたんだ」
「……だから大阪に――?」
「そう。

を見つけ出して――この手で殺してやるんだ、って」
 それを聞いて一条は固く目を閉じた。ゆっくりと首を振る。
 大丈夫だよ、と芹沢は言った。もうそんなことは考えてないと。
「本当……?」一条は顔を上げた。
「ああ。もうやめたんだ。だから昨日、あんなに泣いた」

 そして芹沢は彼女の墓前で両親に会ったときのことを話した。

 話し終えると、一条が芹沢の手を取り、強く握った。
「――わたしがしてあげられることって、あるかしら――」
 芹沢は微笑んだ。「そのままでいてくれるだけでいいよ」
「あなたの役に立ってる?」
「じゅうぶん。みちるは俺の癒しだよ」芹沢は頷いた。「それで俺は変われるんだ」

 ――そう。二宮が言ったとおりだ。

 一条は身体を預けてきた。芹沢はそれを受け止めて、彼女を包み込むとゆっくりと前後に揺れながら言う。
「――心配かけてごめん……もう大丈夫だから」
 一条はうん、と言って鼻を啜った。
「そこでだ」
 芹沢は急に口調を変え、ぱっと離れると、一条の両腕を掴んだまま言った。「明日、休暇取ってくれたよな?」
「え、え? ああ……うん」一条は眉根を寄せた。「……急に、なに?」
「俺も取った」
 そして芹沢はテーブルの封筒を引き寄せ、中の物を取り出して一条に見せた。
「これ」
「……ええ!?」
 一条は声を上げ、両手で口を塞いだ。「……なによ!?」
「いいだろ?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、どういう――」
「ダメ?」
「ダメとかいいとか、そんな単純な――」
 一条は芹沢から

を取り上げようとした。しかし芹沢はぱっと手を逸らせて阻止する。
「どうする? そんな考えなくてもいいと思うけど」
「はぁ?!」一条は顔をしかめた。「あなた、バカなの?」
「じゃあやめとくか? でもたぶん俺には、こんな感じがベストなんだと思う」
「うーん……」
 一条は腕を組んだ。彼女には分かっていた。彼はわざと軽くやっているのだ。自分はもう大丈夫だと言うことを表現するために。
 そして一条は力強く頷いて膝を叩き、芹沢を見た。「オッケー、乗った!」
 芹沢もうんと大きく頷く。「明日一日、大忙しだぜ」
「分かった。なら早速計画を練りましょ」一条は目を細めて言う。「カレー、もう少し食べようかな」
「白米がねえ。全部食っちまっただろ」
「食パンに乗せてトーストするわ。とろけるチーズも乗っけて」一条は立ち上がった。「貴志も食べる?」
「……いや、遠慮しとく」
 芹沢は苦笑いを浮かべた。これでいいんだ、と思いながら。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み