4 癒し、そして慟哭

文字数 4,946文字


 ドアを開けて顔を見た瞬間、一条はある程度のことを察した。
「……どうしたの」
 それでもこんな言葉しか出てこなかった。いや、出せなかったと言うべきか。
「……夜勤明けで来た」芹沢は言った。「朝から――横浜(こっち)にいたんだ」
「そうなんだ」一条は少し硬さを含んだ笑みを浮かべた。「合鍵渡してあるんだし、留守でも入っててくれればよかったのに」
「いや、いろいろ寄るところもあったし」
 一条はうんうんと頷いた。そうしながら、あれこれと考えを巡らせた。

 リビングに入ると一条はソファの背もたれに掛けたジャケットとブラウスを片付けながら訊いた。「晩ごはんは? わたしは今さっき帰ってきたところだから、これから作るんだけど――食べる?」
「済んでるからいいよ」芹沢もジャケットを脱いだ。
 そうなの、と一条は肩をすくめ、芹沢のジャケットを受け取るとハンガーに掛けた。そして少し伸びた髪をハートのクリスタルの付いたヘアゴムで束ねると、ここで初めて満面の笑みを見せて言った。
「じゃあ、パパッと作って食べちゃうから、ビールでも飲んでて。ワインも赤と白、両方あるわよ」
「何を作ろうと思ってた?」芹沢が訊いた。
「え?」
「晩メシのメニューだよ」
「えっと――炒飯。昨日炊いたご飯が残ってるから」
「じゃあ俺が作る」芹沢はシャツの袖を捲った。「風呂入れてるんだろ。入ってくれば?」
「え? でも――」
「炒飯だったら作れるからさ。突然押し掛けたお詫びに」
「そんなのはいいけど……大丈夫?」
「十八のときに一人暮らし始めてるんだぜ」芹沢はにっと笑う。「外食ばっかしてねえよ」
「まあ、そうよね」と一条は頷いた。「――じゃあ、作ってもらおうかな」
「任せて」
 そう言って腕組みする芹沢に一条はお願いねと頷き、着替えを取りに寝室へ行こうとした。するとその背中に芹沢が言う。
「みちる」
「なに?」一条は振り返った。
「今日は抱きついたり泣いたりしないんだな」
「え……だって――」
 一条は途端に眉を下げて口を歪めた。そして内心では失敗したと思っていた。今日が芹沢にとってどういう日か分かっていたから、突然現れた彼の様子が気になってつい身構えてしまい、いつも通りの振舞いが出てこなかったのだ。
「……報せもなく来たから、ちょっと驚いちゃって」
「やっぱダメだった?」
「ううん。ダメなわけない。嬉しい」
 そう言うと一条はゆっくりと芹沢の前に行き、両腕を彼の背中に回して倒れ込むように抱きついた。芹沢がその肩を抱え込む。お互い、何も言わずにしばらくそのままでいた。
 やがてゆっくりと離れ、一条は寝室に向かった。離れ際に握った芹沢の手が微かに震えていたことが、彼女の胸を締め付けた。


 入浴のあいだ中、一条は重い気持ちでいた。貴志は何故予告もなく来たのだろう。今日が

の命日であることは確かだし、墓参に来たことは間違いないだろう。ただそのことと、事前連絡なしに自分を訪ねてくることとは直結しない。いくら合鍵を渡してあって、いつでも来てくれていいとは言ってあるものの、彼が実際にそんなことをするとは思っていなかった。そういうところは案外きちんとしているのだ。なのに何故――。

 ――別れよう、なんて言いに来たのかな。すべてをリセットするために。

「……そんなのやだ」
 顎すれすれまで湯船に浸かりながら、一条は独り言を漏らした。


 入浴を済ませて出てくると、料理ができていた。オーソドックスな炒飯と卵スープが一人前ずつ、湯気を上げてテーブルに並んでいた。
「へえ、ちゃんとしてる」一条は嬉しそうに目を細めた。
「量はどう? 少なかった?」
 缶ビールを手にキッチンから出てきた芹沢は笑った。「残りの白米、全部使ったら多すぎだと思って調節したよ」
「あら、全部いけたわよ」一条は席に着いた。「そのつもりで残しておいたんだもの」
「だから、多いんだって」
「一日の終わりの食事は大切よ? その日に消耗した体力と精神力、ちゃんと食べ物で補充しておかないと翌日に響くわ」
「……どういう持論だよ」
 ふふっと笑って一条はレンゲを取り、いただきますと手を合わせるとスープをひと口すくって飲んだ。味わうように頷いて、次は炒飯を口に運ぶ。
「……どう?」芹沢が訊く。
「うん、美味しい」一条は親指を立てた。「やっぱり、ご飯全部使ってくれたらよかったのに」
「少しはセーブしないと」
「おデブちゃんになっちゃうから?」
 一条は不服そうに芹沢を見た。芹沢は缶ビールを飲みながら一度だけ首を振ると、妙に真剣な顔をして言った。
「俺は体型なんて気にしない。みちるはみちるさ」
「……そう。だったら安心だけど」
 芹沢の一言一言が気になった。どうしていいか分からなくて、深く俯いて炒飯を口に運んだ。
 その様子を見た芹沢もまた、一条がどんな思いでいるのか、どこまで知っているのか、考えることすら怖くて、とりとめのないことを口にしてしまっていることに焦っていた。そのうち不用意なことを言ってしまいそうで、このままではいられないと思った。
「俺も風呂、入ってきていい?」
「えっ?」芹沢の言葉が意外だった一条は目を丸くした。「あ、う――うん。どうぞ」
「ごめん。宿直明けで適当にシャワー入っただけだから、ちょっと気持ち悪くて」
「大丈夫? ビール飲んでるけど」
「俺には水同然」と芹沢は片眼を閉じた。「だいいち、ふた口飲んだだけだから」
 そして、気を付けてよ、と言う一条を残して芹沢は浴室に向かった。
 一条は小さくため息をつき、芹沢が残していった缶ビールを取って自分のグラスに注いだ。


 芹沢が風呂から出ると、ダイニングテーブルの上は既に片付けられ、食事を終えた一条がソファでテレビを観ていた。人気音楽番組のスペシャル放送で、K―POPの人気アーティストが一糸乱れぬダンスを踊りながら最新ヒット曲を披露していた。
「――バスタブの湯、抜いといて良かった?」
 Tシャツとスウェットに着替えた芹沢はキッチンに向かいながら訊いた。
「うん、ありがとう」一条はにっこりと頷いた。「そろそろ暑くなってきたから、もうシャワーでもいいかもね」
「まだ早いだろ」
 芹沢は冷蔵庫を開け、レモン一つとジンジャエールのペットボトルを取り出した。「風邪ひくよ」
「貴志は寒がりさんね」
「西の出身だから」
「そんなの関係ある?」
「あるさ。福岡の平均気温は全国上位だぜ」
 芹沢はキッチンボードにあったグラスを二つ取って軽くすすぐと、その一つに氷を入れて赤ワインとジンジャエールを半分ずつ注ぎ、レモンをスライスしてそこに浮かべた。もう一つには白ワインを入れて運んできた。
「ん」 
 赤ワインの方を一条に渡し、隣に座った。
「これは――」
「キティ」芹沢は答え、自分の白ワインを飲んだ。
 一条も頷くとグラスを両手で持って一口飲み、にこりと笑った。「ちょっと甘いやつ」
 ほんと、こういう顔。めちゃくちゃ可愛いんだよなと芹沢は思った。
 ――そう、癒されるってやつだ。
 するとそのとき、テレビから聴き覚えのあるイントロが流れてきた。芹沢が苦手なあのアーティストが歌う、

の名前をタイトルにした例の歌だ。
 芹沢は思わずテレビから顔を背けた。しかし当然ながら音は耳に入ってくる。チャンネルを変えてくれと言うわけにもいかず、俯いてワインを飲んでいると、画面を見ていた一条が言った。
「――彼女、才能あるわよね」
「え? ああ――うん」
「わたし、わりと好きかも」
「……そうなんだ」
 顔を上げて一条を見ると、熱心に曲に聴き入っている。画面のアーティストは、アコースティックギターを弾きながら独特の魅力ある声で曲のサビを歌っていた。
 やがて一条はふわふわと欠伸をし、芹沢の肩に頭をもたれかけさせてきた。膝を折ってソファに乗せると、グラスのカクテルを飲もうとする。しかしそれよりも眠気が勝つ様子で、グラスを危うい角度で膝の上に置いた。芹沢はそのグラスを取り、そっとテーブルに置いて一条に言った。
「……眠くなった?」
「うん、少し――」
「じゃあ、ちゃんとベッドで寝ないと」
 芹沢は自分のグラスもテーブルに置き、一条に向き直った。「立てる?」
「うん。大丈夫」
 一条はゆらっと立ち上がった。「貴志は、まだ寛いでていいわよ――」
「片付けとくよ」
 そう言うと芹沢はテレビのリモコンを取って画面に向けた。アーティストはあの歌を終え、今度は最新のリリース曲を歌っていた。電源を切り、一条が寝室のドアに消えるのを見届けて立ち上がった。
 グラスをキッチンに運びながら、彼女が好きなら、自分もあのアーティストを好きになってみようかと思った。


 ベッドに入ると、一条が寝返りを打ってこちらを向き、腕を絡ませてきた。優しい香りのする髪に顔を寄せ、背中に手を添えて彼女の身体を引き寄せる。一条も彼の腰に手を回し、胸に顔を付けてぴったりとくっついた。
「――今日は、まだキスしてないわ」一条は言った。
「そうだな」
「してくれないの?」
「したら、

を止められなくなるだろ」
「……ダメなの?」
「…………」
 しばらく考えて、芹沢は言った。「みちるは明日も仕事だし」
「そんなこと――」一条も僅かに言い淀んだ。「今までも、あったわ」
「……まあ、そうだけど」
 それを聞いて一条は絶望的な気持ちになった。やっぱり、もう今日で終わりにしようと言われるのだろうか。
 それならば、先に話そうという気になった。
「ねえ」
「うん?」
「……朝から横浜(こっち)に来て、何をしていたの?」
 芹沢の答えはなかった。一条は辛抱強く待った。悲愴感に押し潰されそうになりながらも、抵抗する覚悟を呼び起こそうとした。
 すると芹沢は一条の両腕を取って自分の身体から離すと、ゆっくりと起き上がって胡坐を組んだ。一条もそれに合わせて身体を起こす。怖い、と心が悲鳴をあげそうだった。
 やがて芹沢が微かに声を震わせながら言った。
「……みちるは、どこまで知ってるの」
 一条は息を呑んだが、すぐに気を取り直して静かに頷いた。
「……十年前のこと。悲しい事件のこと」一条は口元を歪めた。「それから――あなたがそのあと、どんな思いで警察官になったかってことを、わたしなりに想像はしているわ」
 芹沢は小さく頷いた。「たぶん――その想像は正しいと思うよ」
「でもそんなことは間違ってるってこと、許されないってこと、あなたに伝えたかった。だけどそれをすると――」
「それをすると?」
「……わたしたち、終わっちゃうんじゃないかって」一条の目が潤んだ。「だから言えなかった」
 芹沢は俯いた。重いため息をつく。
 すると一条が言った。
「でも――きょうあなたがここへきたとき、顔を見て思ったの」
「えっ……」
 顔を上げた芹沢に、一条は穏やかな、しかし悲しげな笑みを湛えて言った。
「――もしかしたら――十年間の重い苦しみと哀しみに区切りをつけた――あるいは、つけようとしているんじゃない――?」
 芹沢は一瞬、唖然と口を開けた。しかしすぐに閉じると唇を歪め、小刻みに震わせた。右手で覆い、眉根を寄せて目を細めた。
 一条も悲しい表情で彼を見つめる。「――それでいいんだと思う」
「……もう、そうするしか、ない、って……」
 途切れ途切れにそう言って、覆った手からはっ、はっ、と息を漏らすと、芹沢は今度は肩を震わせた。たちまち瞳から涙が溢れ、窓に打ちつける雨の雫のように零れ落ちる。喉の奥で押し殺すような嗚咽が聞こえたかと思うと、それが小さな悲鳴となって部屋に響いた。
「そんな、やだ――ごめん、ごめんなさい」
 一条は覆いかぶさるようにして芹沢の肩を抱いた。芹沢は一条の胸元に顔を埋め、両手で自分を抱きかかえるように組んでううっ、と呻き声を漏らす。
「ごめんなさい。わたし、ひどいこと――」一条は芹沢の背中をさすった。
「……違う。もう、そう思うしか、なくなったんだ……懺悔ばかりするのは、やめにしなきゃ、駄目なんだ、って――」
「そうね……じゅうぶんだと思う」
「だって――誰も、救われない、から――」
 そう言って芹沢は惜し気もなく声を上げて泣いた。

 その夜、彼はおそらく一生分の涙を流した。やがて泣き疲れて眠りについたのは、日付が変わって一時間以上も経ってからだった。

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