7 正義に向かって走れ
文字数 3,144文字
シミュレーションはできていた。
可能性のすべてを考察し、その対処法も全部頭に叩き込んだ。
入口からは二人で挑む。もちろん裏手にも二人を配備済みだ。表通りには捜査車両も待機している。全員がインカムを装着し、互いに通信可能の状態だ。
対象の人物は中にいる。昨夜の酒が残っていて爆睡中だという、画像付きの連絡が入ったのだ。
二週間前に発生した強盗傷害事件。中華料理店のオーナーが、経営する二店舗の売り上げを回収して銀行の夜間金庫へと向かうために車に乗り込むところを、覆面の二人組に襲われ、頭蓋骨陥没の大怪我を負った。売上金も奪われた。
犯人の一人はすぐに素性が割れた。勤務態度が悪くて店を解雇された元従業員だった。その人物の内縁の妻だという女性が、夫が事件の報道を見て「自分がやった」と得意げに話しているので恐ろしい、逮捕して欲しいと通報してきたのだ。接触を試みると、女性は男の目を盗んで刑事課に現れた。男は普段から粗暴で、酒が入ると暴れて手が付けられなくなり、女性も何度も大怪我を負わされたと言う。しかも、どうやら奪った金のことで共犯者ともめているらしく、その腹いせに自分への暴力が酷くなっていると、女性は何本も欠けて不揃いな歯を見せて大声で泣いた。
こういう犯罪が一番許せない。絶対にこの手でとっ捕まえて、強盗傷害事案だけでなく、女性への傷害罪でも訴追し、刑務所にぶち込んでやると強く決心した。そして慎重に裏取りをし、容疑は固まった。女性とも肌理細やかに連絡を取り、今から数時間前、彼女の身の安全が確保できたと確認の結果、こうして逮捕状を持って男の住居に乗り込む手筈となったのである。
大きく深呼吸すると、一条は隣の主任に振り返って頷いた。主任も頷き返し、一歩進んでドアの前に立つとゆっくりとノックした。
「――ああ?」
中からしゃがれた男の声がした。
「……起きているようね」
一条は小声で呟いた。主任がドアに向かって呼びかける。
「
「……誰だぁ?」呂律の回らない返答だった。
「ちょっと、出てきてもらえますかね?――警察です」
少しの沈黙の後、ドタドタと乱れた足音、続いて荒っぽくガラス窓が明けられる音がした。
「裏へ行った。想定内」
インカムのマイクに呟くや否や、一条はどうやったらその華奢な足にそんな力が蓄えられるのかと思わせる一撃でドアを蹴破り、中に入った。
「警部! まずは手動で!」
困惑する主任の声を背に、一条はキッチンを通って奥の部屋に進んだ。六畳ほどの和室に布団が敷かれ、その上の窓が開いていた。窓を覗き込むと、Tシャツにスウェット姿の男が地面にしゃがんでおり、すぐに立ち上がって走り出すところだった。その反対側から、裏手に配備していたはずの二人の捜査員が追いかけていた。
「何よあれ! どこ行ってたの?」
一条は吐き捨てると窓から離れ、表に向かおうとした。すると布団のそばに跪いていた主任が「警部」と声を掛けた。
振り返ると、主任は大きく丸まっていた薄っぺらな布団を、心なしか静かにめくった。
顔を醜く腫らし、腹のあたりを血だらけにした女性がぐったりしていた。例の内縁の妻だ。指先が小刻みに震えていて、虫の息だった。
「なんで――」
一条は唇を噛んだ。現状が理解できないという純粋な戸惑いと、裏切られたのだという失望感、そして逃げた容疑者に対する猛烈な怒りが一気に襲ってきて、武者震いが起こった。反射的に走り出していた。
「警部!」主任が叫んだ。「危険です! ヤツは凶器を持ってるかも知れません!」
「救急車を呼んで! 絶対に死なせちゃ駄目よ!」
一条は部屋を飛び出した。アパートの狭い廊下を走りながら、捜査員全員に向かって話しかけた。
「――容疑者は部屋の裏窓から逃走を計った。西方面、おそらく駅に向かったと思われる。凶器所持の可能性あり――」
走りながら、悔しくて涙が出てきた。あの妻は今朝、容疑者が眠りについたのを確認して連絡をしてきた。そして細心の注意を払ってアパートの部屋を出て、警察が用意したホテルの部屋に身を隠した。容疑者に所在がばれることはないはずだ。つまり、彼女は自らの意思でまたあの男のところへ戻ったのだと思うと、とてつもない悔しさが押し寄せてきた。男女の関係は他人には読めないとは言え、あの二人のあいだにあるのは愛ではなく、暴力による支配だ。そんなものは間違っている。彼女がそれを受け入れたとしても、恐怖による判断能力の欠如に他ならない。挙げ句にさっきのあの悲惨な姿だ。放っておくわけにはいかない。
一条は走った。やるせなさを振り払うようにスピードを上げた。中学、高校と陸上部に所属していたので走ることに自信はあったが、ローヒールとはいえパンプスでは力を発揮し切れない。
彼
の言う通りスニーカーに履き替えておけば良かったと後悔しながら、それでも、出来限りのスピードを維持し続けた。《――容疑者を発見。
インカムに捜査員の弾んだ声が入ってきた。一条は立ち止まり、パンプスを脱ぐと爪先のストッキングに指を突っ込んで破り、裸足になった。そしてパンプスを片方ずつ上着のポケットに入れると、一瞬だけ右足を後ろに引いてスタンディングスタートの体勢を取り、すぐに走り出した。
――助けるんだ。何度裏切られても、ひどく責められても、どんなに虚しくても。それが自分の信じる正義だから。
五十メートルほど先に、走る捜査員の後ろ姿を見つけた。その向こうに容疑者らしき男の背中。あの呂律の回らない状態で、どれだけ走れるんだと感心した。確か自分よりひと回りほど歳上だったから、三十六歳のはずだけど。
突然、前を走る捜査員が石ころか何かに
「何よ、他に誰もいないの――?」
一条は独り言を吐き出した。そろそろ自分も限界だ。足の裏はもうすり傷だらけで、感覚が麻痺して、おかしくなっている――。
するとそのとき、容疑者の前方の脇道から別の捜査員が現れた。左右を確認して容疑者を見つけると、走って向かってきた。
「……やっと来た……」
一条は息を吐き、スピードを緩めた。そして顎を上げて叫んだ。
「仕留めて――!」
捜査員は頷き、手にした警棒を前に突き出して容疑者の前に立ちはだかった。突進して来る容疑者の額に一撃を見舞うと、容疑者は膝から崩れ落ちた。
ひっくり返った容疑者の脇にしゃがみ込んで、捜査員はその手に手錠を掛けた。
「三時二十五分、逮捕」
捜査員はインカムに向けて強い口調で宣言した。そして近づいて来た一条に振り返ると、その足元に視線を留めたまま困ったような笑顔を見せて言った。
「だからスニーカーに履き替えてくださいって言ったんですよ」
「そうね。失敗だった」
一条はそばのガードレールに腰掛けた。右ポケットのパンプスを取り出すと、ヒールを指で触って眉根を寄せた。「グラグラしてる。どこかで買わなきゃ」
「車に置いてありますよ。スニーカー」
「そうなの?」一条は顔を上げた。
「ええ。こうなったときのことを想定して」
一条はにっこり笑った。「さすが
「そう思ってくださってるんなら、言うこと聞いてくださいよ」
二宮はため息をつくと、立ち上がって辺りを見渡し、一条の後ろを指差して言った。
「ストッキングと傷薬はあのドラックストアで」
一条は満足気に頷いた。彼とのバディを解消しなければならないのはどうにも惜しいと、心の中でもどかしく思いながら。