5 俺の餃子に手を出すな

文字数 4,078文字

 二人が出逢ったのは、今から十一年前のことだった。
 数学者の父親の仕事の都合でアメリカで生まれ育った三上麗子が、両親とともに帰国したのは高校卒業直後の十八歳の夏。秋から京都の私立大学に編入学し、大学生活を始めるためだった。
 そのときの演習クラスで鍋島勝也と一緒になった。二人はすぐに、性別や育った環境の違いをいとも簡単に乗り越えて親密になり、鍋島は麗子が日本で最初に作った友人となったのだ。
 以来、二人は九年間にわたって確実に友情を育ててきた。卒業後進路が別れたり、麗子の留学などで長いあいだ会わない時期もあったが、その頃には既に二人のあいだは、それくらいのことでは揺るがない信頼関係が出来上がっていた。
 もちろん、それぞれに恋人がいたこともあったし、その相手との結婚を考えなかったわけでもない。しかし行き着くところいつも、鍋島は麗子といるときの居心地の良さを手放すことができなかったのだし、麗子も自分以上に自分を理解しているのは鍋島以外にはいないと分かっていたので、恋を捨ててそちらを選んできた。そのあいだ、一度として男女の関係は存在せず、冗談交じりのキスや抱擁さえ無かったのだが、それでも二人はこの関係にこだわってきたのだ。
 ところが、一昨年のクリスマス・イヴに、その関係は一変した。先にそれを崩したのは鍋島だった。そのとき、二人はそれぞれに別の相手との恋愛に否定的な答えを出した直後で、当初二人は、お互いを選んだのは前の恋の反動に過ぎないのではないかとの一種の良心の呵責に苛まれもした。しかしやがて思い直し、人生のパートナーとしては、強く異性を意識する相手よりも、互いの人間的魅力に惹かれる相手を選んだのだという考えに至ったのだ。
 その意味では、この選択は至極自然な結果と言えた。さらにそれまでの九年間は、お互い気付かなかっただけで、結局はプラトニックな恋愛をしていたのかも知れないと、そんなふうにも考えた。
 いずれにせよ、その九年間のおかげで今があるのだと二人は思っている。いくら鍋島が、過酷な労働の割に今ひとつ評判の良くない警察官で、対する麗子が、その年齢と美貌からはちょっと想像のつきにくい大学の准教授であっても、そんなことは二人の関係においては何ら特別な意味を持たないことなのだ。さらに言うと、麗子がそんじょそこらの美人とは桁外れに美しい容姿の持ち主であることも、鍋島にしてみれば「まあ、ラッキーかな」という程度の、ほんの付加価値に過ぎない。また鍋島が三十歳にしては幼い顔立ちで、しかも小柄なのも、麗子に言わせればそこも彼の魅力で、そうでないと彼じゃない、ということになるのだった。

「――だから、要らないって言ってるじゃない」
 自宅のキッチンのカウンター席に着き、目の前の鍋島がボールに入った餃子の具を熱心にかき混ぜているのを眺めながら、麗子は言った。
「そうは言うても、一応、けじめやし」
 鍋島は手を休めずに言った。豚ミンチにキャベツ、ニラ、青ネギ、生姜の入ったオーソドックスな具で、彼の手作りである。得意料理を特定するのが難しいというほどの料理好きで、その腕前も確かだ。今日も夜勤明けで直接麗子の家にやってきて、彼女が書斎で仕事をしているあいだたっぷりと睡眠をとり、夕方には買い出しに出かけ、戻って来てからはずっとこの餃子作りに励んでいる。最初に粉から作った皮の生地も、寝かしの一時間がそろそろ完了するころだ。
 鍋島はだいたい週に一度、芦屋(あしや)市の自宅で独り暮らしをしている麗子を訪ね、泊まっていくのが習慣となっていた。付き合い始めた頃、()が硬派な鍋島としては、恋人が独り暮らしだからと言って半同棲のようなことをするのは嫌いだったし、自分の部屋に甲斐甲斐しく通い妻のように押しかけてこられるのも好まなかった。だから麗子の家を訪ねても、最初はどんなに遅くなっても帰っていたのだが、去年の九月、麗子の母親がボストンで交通事故に遭って亡くなってから、ときどき不意に寂しさに襲われると彼女が漏らしたひとことを彼は聞き流すことができず――実は彼も十三歳の時に母親を病気で失っている――今ではこうして、予定のない休みの日には、たいていどちらかの家で過ごし、鍋島が料理をふるまうようになっていた。
婚約指輪(エンゲージリング)が何のけじめ? 結婚することがけじめって言うならまだしも、指輪がけじめって、意味分かんない」
 まためんどくさいこと言うてるなと思いながら、鍋島は蛇口レバーを上げて手を洗った。
「言うとくけど、俺は無理してへんからな」
「分かってるわよ、でも本当にいいのよ。この前も言ったでしょ? 大きな宝石が付いてたって邪魔なだけだって」――そう。彼女は本気でこういうことを言う。
「ほな、普段でも気軽に着けられるやつにしたらええんや」鍋島もめげない。
「勝也……」麗子は困ったように首を傾げて鍋島を見た。
 知性と強い意志の感じられる緩やかな曲線を描いた眉、はっきりとした二重の切れ長の瞳、これ以上の形は望めないとさえ思える整った鼻、そして色気の漂う唇。それらが小さな楕円形の顔の中にきちんと配置されており、まるで一流の料理人による懐石料理の膳を見ているようで、男でなくてもため息が出るほどだ。この美しさはもう、付加価値どころではない。
「今になって宝石屋さんに断りを入れるのは嫌?」
「そんなんやないけど、おまえこそおかしいぞ、邪魔ってだけでそこまで拒否するなんて」
 鍋島は濡れ布巾を掛けて寝かせてあった生地をとってきて、直径二センチほどの棒状に整え始めた。「――やっぱり、他になんか理由があるんやないか」
「無いわよ」と麗子は笑った。「強いて言えば、そう一つ一つ段取りを組むこともないと思って。お互い忙しいのに、煩わしいだけじゃない」
「……まあ、心得とく」
 小口切りにした生地に小麦粉を振って押し潰し、麺棒で丸く伸ばして皮を作っていく。麗子は面白そうにその様子をカウンターから眺めていたが、やがてキッチンに入ってくると鍋島のすぐ後ろから覗き込み、その肩に両手を乗せて言った。
「あたしにもちょっとやらせて」
「あかん」鍋島はにべもなく言った。
「ちょっとくらいいいじゃない。失敗したら、勝也が修正してくれたらいいんだし」
「片っ端から修正ばっかせなあかんことになる。そんな無駄な時間と労力使いたくない」
 鍋島は作った皮に打ち粉をし、軽く振ってバットに並べていく。相変わらずの手際の良さだ。麗子はそのバットにそっと手を伸ばした。
「ダメ。触るなよ」鍋島は厳しい口調で麗子を制した。「今日はこれしか作ってないんや。おまえが手を出したら、俺らの晩メシ、お茶漬けと梅干ってことになるぞ」
 麗子は唇を歪め、眉根を寄せた。「ホント、失礼な言い方ね。あんたに言われると仕方がないとは思うけど」
「ええから、向こうで皿でも出しといてくれよ」
 鍋島は手を動かしながらにやにや笑って言った。麗子の怒った様子が可愛いと思ったからだ。そしてあっという間に数十枚の皮を作り終えると、頭上の収納棚から大小の大きさの四角いストッカーを取り出してそこに打ち粉をし、皮に具をのせて包み始めた。出来上がるとストッカーの中に等間隔を開けて並べていく。その流れるような動作は、

大手餃子チェーンからスカウトが来そうだ。
「多めに作っとくから、冷凍しとけよ。いつでも食えるし」
「そうね。でも、誰が焼くの?」麗子は平然と訊いた。
 鍋島は俯いて大きくため息をついた。「……分かった。ほな俺が来たときにまた焼くわ」
「無駄にはできないものね。時間と労力」麗子はふんと笑った。「勝也も少し持って帰れば?」
「ええよ俺は。食いたいときには作るし」
「じゃあ、純子(じゅんこ)ちゃんにあげれば?」
 鍋島はぷっと笑った。「結婚してる妹に、独身の兄貴が手作り餃子持って行くの? キモいしかないわ」
「じゃあ、芹沢くん」
「さらにキモい」鍋島は肩をすくめて首を振った。「なんであいつにそんなことせなあかんねん」
「だって彼、自炊なんてしないんでしょ? たまにはあんたのご馳走を食べさせてあげれば?」麗子はテーブルセッティングしながら言った。
「たまなもんか。しょっちゅうウチに来て食うて行きよる。それに本来あいつは、プライベートで男とメシ食うなんて時間の浪費やと思てるからな」
「分かる。彼らしい」麗子はうんうんと頷いた。
「この前も高級レストランで食事してたの、たまたま事件の被害者に見られてた」
「一条さん、こっち来てたんだ」
「違うよ。別の女」
「なにそれっ。一条さんに言いつけるわよ」麗子はキッと顔を強張らせた。
「やめとけ。部外者が波風立ててどうする」鍋島は手を振った。「それに、一線越えてるってわけではなさそうやし」
「越えてなきゃいいの? 男の身勝手な言い分ね」麗子は腕を組んだ。「呆れちゃう。勝也、あんたにもよ」
「うわ、とばっちり」鍋島はぺろっと舌を出した。「要らんこと言うた」
「まったくよ」セッティングを終えた麗子は椅子を引き、席に着いた。
 すべての皮を包み終え、鍋島は今度はフライパンを温め始めた。しかしすぐに思い直したようにIHコンロのスイッチを切り、足下のスライドラックを開けて醤油と酢を取り出し、作業台のスパイスラックからはラー油を選んで並べた。先にタレを作るらしい。
「――なんとなく一条さんって、芹沢くんが結婚しようって言ったら、意外とあっさり仕事を辞めて、彼についていく女性なんじゃないかって気がする。あたしの勝手な想像だけど」麗子が言った。
「芹沢にその気があるかどうか」
「彼女じゃ駄目ってこと?」
「いや、一条があかんってわけではない。むしろ彼女ならあいつの心を動かせるかも知れん。だた、芹沢は――あいつは複雑なヤツやから」
「……何だかよく分からないけど、それもただの身勝手なんじゃないの」
 そう言うと麗子はまたあの怒り顔をした。鍋島はそんな彼女を見てまた微笑んだ。醤油と酢をかき混ぜながら、具にニンニクを入れなくて正解だったなと思った。キスの妨げになるから。


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