6 侵入の目的

文字数 3,685文字

 辻野仁美が帰ったあと、芹沢は刑事部屋のデスクで彼女が出した被害届と、事情聴取の調書を眺めていた。隣の鍋島はパソコンに向かって実況見分書を作成していた。
「――え、一つ年上なんだ」芹沢は呟いた。「もっと若いのかと思った」
「どうにでも化けられるって。化粧品商社に勤めてるんやで」
 鍋島はキーボードを打ちながら横目で芹沢を見た。「おまえ、彼女に何かしたんか」
「馬鹿ヤロ。会ってすぐに誰だか思い出せねえ相手と、何やるってんだ。すぐにそうやって疑うの、いい加減やめろよ」
「彼女と()うたときも女連れやったくせに?」
「当たり前だろ。女と一緒じゃなきゃ、俺があんな高いレストランでメシ食うはずがねえ」
「開き直るな」鍋島は呆れて言った。「俺の言うてんのは、彼女がおまえのことを思い出した途端に機嫌が悪くなったってことや。何かあったんか? そのレストランで」
「別に。彼女が落としたライターを拾って、渡しただけさ」
「ふうん」と鍋島は身体を起こして腕を組んだ。「彼女に連れは?」
「いた。男だ」
「それやな」
「何だよ」
「相手に内緒で煙草吸うてたんやろ」
「……それを俺がバラしちまったって言うのか?」芹沢は顔をしかめた。「言いがかりだろ。こっちは親切心だぜ」
「それが分かってるから、彼女も何も言わへんかったんやろ」
「じゃあ態度にも出すなってんだ。何だよ、あの嫌みったらしい態度」
「どっちもどっちや。おまえも痛いとこ突かれたんやから」
「馬鹿げてるな。内緒にしなくちゃならねえくらいだったら、煙草なんてやめりゃいいじゃねえか」
「それが簡単にやめられへんのや。おまえは吸わへんから分からんやろけど」
「え、俺も昔は吸ってたけど、すんなりやめたぜ」芹沢はあっけらかんと言った。
「……個人差や」鍋島は憮然と言った。
 芹沢はふんと鼻を鳴らした。「だったら、女性が煙草を吸うのを嫌がるような化石みてえな男とは別れりゃいいんだ」
「それもそう簡単には行かへんのやろ」
「なんで」
「一つ年上なんやろ? 三十歳」
「結婚か」と芹沢は小さく笑った。「おまえ、ずいぶんつまんねえこと言うようになったな。自分の結婚が決まると、そんなもんかね」
「俺は何も変わらんよ」鍋島は芹沢を一瞥した。「むしろおまえが非常識極まりないんや。彼女の目が届かへんのをええことに、相変わらず節操のない。ええ加減に落ち着け」
 芹沢は頬杖を突いて、試すような視線を鍋島に投げかけた。
「……お巡りが家庭を持って、どれだけそこへ帰れる?」
「帰るさ。俺は」
「あれだけ美人の奥さんをもらうんだからな」
 鍋島は大きく肩で息をした。「俺はあいつの――」
「顔に惚れたんじゃねえって言いたいんだろ。分かってるさ」
 芹沢は鍋島の言葉を制し、立ち上がってコーヒーを入れに行った。「とにかく、俺には理解できねえな。自分の嗜好を抑えなきゃならねえ相手と付き合う心理も、三十にもなったら結婚しなきゃならねえっていうカビの生えた常識も」
「そのうちおまえも――せやな、あと二、三年もしたら、そのカビ臭い常識を突き付けられるときが来るぞ」
 カップにコーヒーを注いでいた芹沢の手が止まった。手元をぼんやりと見つめたままのその顔は、真顔だった。
「……そんなこと、どうして分かる?」
「いくつや? 

は」
 芹沢は小さく笑った。「あいつはそんなこと言い出さねえさ」
「それこそ何で分かる?」
「だってよ――」
「キャリアやからか? せやから格下のノンキャリアとの結婚なんて望んでないとでも?」
 芹沢の返事はなかった。鍋島はさらに言った。
「俺が結婚する麗子(れいこ)も、この春から准教授や。異例のスピード出世らしい」
「そうだったな」
「ま、どうするのかはおまえの自由やけどな。言い出されたとき、どう対処するかぐらいは考えとけよ」
 鍋島はため息交じりで言うと、パソコンのキーボードに視線を戻した。



 ドアを開けると、引き攣った顔の葉子が立っていた。
「……空き巣だって?」
「うん」
 仁美は大きなため息とともに言い、ドアノブを持っていた手をだらりと下げて壁に背をつけた。そして顎で奥を示した。
「窓ガラスを割ってね。ごらんのとおり」
 葉子は蹴飛ばすようにサンダルを脱ぎ、廊下を進んだ。奥の部屋の前に立つと、口を半開きにして呆然と中の様子を見渡した。
「さっき警察から帰ってきたばっかりやから、まだ全然片付いてへんのよ」
「足の踏み場がないとはこのことね」
 葉子は小刻みに頷きながら言い、それでも何とか足を踏み入れる努力をして奥へ進んだ。そして分厚いカーテンの引かれた窓際にたどり着くと、そのカーテンをめくった。窓の二重ロックの周りには、一時しのぎの段ボールが同色のガムテープを使って貼り巡らされている。その向こうは今やしっかりと雨戸が閉められ、外観との遮断を強調していた。
「……でもここって、警備会社のセキュリティサービス契約してるよね? 侵入者があれば、直ちに警報が鳴って報せが入るはずだけど」
「うん。だけど、どうもその機能が働かなかったそうなのよ」
「……システムが破られてたってこと……?」
「かも知れない。そこは警察が捜査するって」仁美は肩をすくめた。「任せるしかないわ。気持ち悪いけど」
「で、どうするの?」
「どうするって?」
「帰るんでしょ、京都に」
「帰らへんよ。そんな必要ないし」
「気持ち悪いと思ってるのに?」葉子は首を傾げた。「それに、ご両親も心配なさってるんじゃない?」
「まあね。あっちにも警察から連絡が入ったみたいで、あたしにも電話して来た。でも帰るつもりないって言うたわ」
「どうして?」
「だって、帰ったら言われるのに決まってるもん。部屋を引き払って戻って来いって」
「……それも無理ないか」と葉子はため息をついた。
「せやから、まだ警察の調べが終わってないとか、適当に言うて帰らへんことにしたわ」
「大丈夫? 不安だったら、あたしの部屋に来れば?」
「ありがとう。でも大丈夫。警察もパトロールを強化してくれるらしいし」
「あたしになら気を遣わなくていいのよ」
「気ィなんか遣ってないって。ほんまに平気やから。心配かけてごめんね」
「……そう。だったらいいけど」
 葉子は言って、気の毒そうに仁美を見つめた。
 うん、と仁美は笑った。
「それで、警察は何て言ってるの? 犯人のこと」
「まだ何とも分からへんって。ベランダ越しに靴跡が残ってたらしいけど、メーカーを特定したところでそれが直接犯人に結び付くような期待はできひんらしいわ――あ、そうや、実はひとつびっくりしたことがあったのよ」
「え、なに?」
「刑事の一人が、この前言うてた情けない男やったん」
「情けない男って――堂島のレストランの? あんたが落としたライターを渡してくれたっていう」
「そう、その男」仁美は葉子を指差した。「それがさ、改めてよく見たら意外にもイケメンやったわ。ちょっといてないよ、あれほどの男前は。刑事にしとくの、もったいないって感じ」
「……仁美、話が逸れてない?」
「あ、そうね」と仁美は肩をすくめた。「それで、明日もういっぺんこの辺を聞き込みするって。同時に、さっきのセキュリティーの問題も調べるんだろうし」
「最近多いのかしら」
「それが、常習犯の仕事やないんやないかって」
「つまり、ここへ入ったのが初めてやないってこと?」
「そう」
 葉子はもう一度部屋をぐるりと見回した。「そう言えば、やり方が雑よね。言い方がヘンだけど、プロの職人技って感じがしない」
「でしょ。おまけに何も盗ってへんのよ」
「何も?」と葉子は目を丸めた。「これだけ引っ掻き回しといて、何も盗んでいかなかったの?」
「そうよ。何も」
「……何なのそれ。ホントど素人ね」
「人騒がせでしょ?」と仁美は苦笑した。「せやから、盗みじゃなくて嫌がらせが目的なんやないかって、うちが入居者やご近所とのトラブルを抱えてへんか、それを中心に調べて行ったみたいよ。あたしがオーナーの娘ってことが引っかかってるのね」
「失礼な話」
「あるいは、入る部屋を間違えたんやないかって」
「間違えた? どういうこと?」
「犯人に何かを盗む目的があるとして、その人物がここをその目的の部屋と勘違いして入ったってこと」
「勘違い……」葉子は息を呑み込んだ。「別人の部屋と……?」
「でも、そう考えるにはまだ根拠不足やて」
「目的があって……」
「いずれにしても、直接犯人に結び付く手がかりは少ないみたいよ。
おそらくすんなり逮捕ってわけにもいかへんやろね」
「そう……」と葉子は俯いたまま言った。「間違って――」
「葉子?」
 突然沈み込んでしまった葉子を、仁美は不安そうに見つめた。しかしこれ以上彼女に心配をかけてはいけないと、その場の重苦しい空気を払拭するような明るい声を出した。
「――それにしても、派手にやられたもんやわ。いくら部屋が散らかってるのが気にならへんあたしでも、ここまで思いっきりやられるとさすがにね――」
 そう言って仁美は葉子を見たが、葉子は何も答えないまま、今度は思いつめた表情でカーテンから顔を覗かせている段ボールの貼られた窓を見つめていた。


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