3 あと一歩

文字数 4,164文字


 階段を上りきったところで、部屋から飛び出てくる芹沢と鉢合わせた。
「――何や。どないしてん」鍋島は思わず身を退いた。
「遅ぇじゃねえか。電話しても出ねえから、部屋でくたばってんじゃねえかと思って、今からおまえん()まで車飛ばそうと思ってたとこさ」
 芹沢は苛立たしそうにまくしたてた。「何やってたんだよ?」
「何って――昨夜(ゆうべ)は芦屋やったから」鍋島は頭を掻きながら答えた。「朝、バタバタして」
 芹沢は苦々しく舌打ちした。「……分かるけどよ。着信は出ろよ」
「悪かった。で、何があったんや」
「銀行から連絡があった。あの振込み、窓口の行員じゃなくて、得意先係の男が預かったんだってよ、田村から」
「得意先係が? けど伝票の受付印は窓口行員のもんやったぞ」
「だから、その得意先係がたまたま何かの用で店頭に出てたとき、来店した田村から預かったんだってさ。それをそのまま窓口に持ってって、処理が済んだらまたその得意先係が領収書を田村に渡したってわけだ」
「つまり、窓口行員と田村のあいだに、その得意先係が仲介に入ってたってことか」
「そう。なんでも、田村とは顔見知りだそうだ」
「……田村と?」鍋島は目を見開いた。
 芹沢は頷いた。「その田村が店に来てたから声を掛けたんだってよ」
「どういう顔見知りや」
「それを知るために、高槻へ行こうとしてたんだ」
 芹沢は親指で階段を指した。「JRまでのタクシー、捕まえとくから追いつけよ」
「分かった」
 鍋島は頷くと刑事部屋に向かった。


 昨日の支店長と、刑事たちと同年代の得意先係が彼らを出迎えた。
小椋(おぐら)(かおる)と申します」
 得意先係の男性は二人にそれぞれ名刺を渡してきた。日焼けした長身の男で、肩書きは営業課主任とあった。
 芹沢はその名刺をテーブルの手元に置いて言った。「早速ですが、田村さんとはどういったお知り合いなんですか?」
「いや、たいした知り合いではないんですけど」
 小椋は白い歯を見せて笑った。「彼女の勤めてたスナックに、去年何度か行ったことがあるんです。そこでね」
「どこのスナックですか?」
「ええっと――阪急の南側の――あ、一七一号線の北大手(きたおおて)交差点から少し北へ入って、えっと……何筋目やったかな……」
「小椋くん、しっかり思い出しなさい」と支店長は小椋をぐっと見据えた。
「あ、は、はい……」
「いいんですよ、ゆっくり思い出してください。いくらでも待ちますから」
 芹沢は言った。ようやく掴んだ頼みの綱だ。慌てさせて引っ込められるようなことは絶対にしてなるものか。
「――あ、確か三筋目を右に入ってすぐのビルか、その隣のビルの地下一階――やったと思います。名前はちょっと……すいません、思い出せません」
「なんや。肝心なところを憶えてへんのか。きみはいつもそうやな。詰めが甘い」
 支店長は苦々しく言った。
「……すみません」小椋はすっかり委縮してしまったようだ。
 鍋島は苦笑いを我慢し、そして訊いた。「来店のとき、彼女は本名を田村芙美江と名乗ったんですね?」
「いいえ。あのとき、僕は来店された自分の担当のお客様との用件を済ませて、そのまま外回りに出ようとしたんです。そしたら入口でミサちゃん――彼女の源氏名ですけど――にばったり会ったんです。彼女、振込みに来たんやけど窓口が混んでるから出直そうかなって言うから、じゃあ僕が窓口の子に頼んで早めにやってもらうよって言うて彼女に伝票を書いてもらったんです。時計を見たら、あと少しで二時になるところでしたから。二時を回ると翌日扱いになるので、少しでも早い方がいいかなと思って」そういうと小椋は伏し目がちに支店長をちらりと見た。「……特別扱いはダメだと分かっていましたが……まあ、ちょっと、ええカッコしました」
 支店長は憮然とした表情で腕組みをした。
 小椋は続けた。「でもそのとき、『これは友達に頼まれたの』って言うてたから、彼女に田村芙美江さんというお友達がおられるとばかり思ってました」
「じゃあ、彼女の本名は何と言うてましたか?」
「知りません。それ以前は彼女の店でしか会うたことありませんでしたから。そこではいつも『ミサちゃん』ですし」
「――この女性ですよね?」
 芹沢は芙美江の写真を出してきて小椋の前に置いた。
「失礼」と言って小椋は写真を手に取って顔に近付けた。「――ええ、そうです。この青いワンピースの女性。間違いありません、確かにミサちゃんです。こんな美人、高槻のスナックじゃそうお目に掛かれませんからね。新地の高級クラブでもナンバーワンになれるのと違いますか」
 どれ、支店長も好奇心に負けて小椋から写真を奪い取った。「――ほう。確かに綺麗な方ですね」
 芹沢は愛想笑いを浮かべて支店長に頷き、メモした手帳を見ながら言った。「北大手交差点から北へ三筋目を右、つまり東へ入ってすぐかその隣のビルの地下一階ですね。間違いありませんか?」
「ええ、はい」小椋は宙を仰ぎながら頷いた。「店の名前――もうちょっとで出掛かってるんやけど――何やったっけ――」
「大丈夫ですよ。またあとででも思い出されたら、署にお電話ください。二十四時間いつでも結構です」
 鍋島は自分の名刺を小椋に渡した。小椋は両手で受け取った。そしてすぐに、
「刑事さん、ちょっと待って下さい。電話を一本掛けさせていただけませんか?」
 と言った。
「構いませんけど。どこに掛けられるんです?」
「友達にです。そいつが綺麗な女の子のいるスナックを見つけたって言うから、連れて行ってもらったんです」
 小椋は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。画面を操作して耳に当てると、小刻みに指でテーブルを叩きながら呟いた。「ちくしょう、仕事中かな――」
 鍋島と芹沢、そして支店長は固唾を飲んで小椋を見守った。
「――あ、俺。悪いな。ちょっと訊きたいことがあって――去年おまえに何回か連れて行ってもらったスナックあったやろ。ミサちゃんていう美人がいた店。――ああ、そう、そこや。その店、何ていう名前やったっけ?――え、『リオ』? ああ、せや、そういう名前やったな。『里』に鼻緒の『緒』と書いて『里緒』か。え?――ああ、そうなんか。分かった。ありがとう。あの、ちょっと今たて込んでるから、また改めるわ。――うん、ほなまた」
 小椋は電話を切って刑事たちを見た。「判りました」
「『里緒』という店ですね」
「ええ。場所はさっき言うてたところの、角を入ってすぐのビルでした」
 小椋は言うとスマートフォンを上着にしまった。「――でも、今の友達が言うてましたけど、ミサちゃんは一月いっぱいで辞めたそうですよ」
「そうですか」
 それは百も承知だった。

 高槻中央署に連絡をして、市内の飲食店・風俗営業店の届け出名簿から『里緒』の営業責任者、つまりママの名前と住所を調べてもらった二人は、銀行のあるJR高槻駅前から北へ七、八分歩いた天神町(てんじんちょう)のマンションを訪ねた。
「――ミサちゃんねえ。あの子、何も言わずに突然来なくなってね」
 ママは言った。店で働くようになったのは去年の十一月の終わりごろで、辞めたのは今年の一月末。たった二ヶ月ほどだったから、ママもちょっと困ったらしい。彼女は綺麗だし、お客に人気があったのだ。しかも辞めた理由というのが特に無く、一月二十九日の昼前にママに電話を掛けてきて、風邪をひいたから今日は休ませてほしい、明日は定休日だから、二日休めば来月の初めからは出勤できると思うと、ミサ――つまり芙美江は言ったという。ところが結局、それっきりだったのだ。
 ママは続けた。――うちは月末の最後の営業日にお給料を出すんです。人数も少ないから、現金支給でね。だから、彼女の分は来月まで預かっておくねって言いました。だからてっきり、二月になっても出勤せず、連絡もないのはよほど風邪が酷くなったんだと思ってたのよ。こちらから連絡? 彼女、電話番号を教えてくれなかったの。最初、携帯電話を持ってないってことだったから、それでは困る、持つようにって言ったら、分かりましたと言って――翌日、それらしいスマホを見せてきて、番号も教えてくれたんだけど、結局一度も掛けることはなかったわ。と言うのも、そのときの彼女の様子が何だかぎこちなかったのよね。そう。あれは偽物、本人のものじゃないわ。この世界、何かと理由(わけ)ありが多いから。誰かのものを借りてまで自分との繋がりを拒むには、彼女にも何か事情があるんだと思って、とりあえずはそれで収めてたというわけ。そのうちきちんと連絡先を聞き出そうと思っていたところだった。それで、欠勤から一週間ほど経った頃だったかな。彼女のアパートへ行ってみたわけ。でもいなかった。――ええ、引き払ってたわけじゃないの。管理人さんに頼んで鍵を開けてもらったけど、綺麗に片付けられて、何日も留守にしてるって感じだった――
 部屋は特に変わった様子もなく、管理人もそのようなことは言ってなかったという。もし帰ってきたのが分かったら連絡するように言ってもらうよう頼んでおいたそうだが、結局は何も連絡がないまま、今に至っているのだそうだ。
 ママに芙美江のアパートの住所を教えてもらい、刑事たちがその場を辞そうとしたところ、ママは部屋の奥から封筒を持ってきて、
「これ、ミサちゃんに会ったら渡してもらえないかしら。一月分のお給料よ」と刑事たちに渡そうとした。
「あ、そういうのは無理なんですよ」芹沢は手を振って断った。
「どうして? 構わないわよ。刑事さんたちなら信頼してるから」
「いや、それでもだめなんです。申し訳ありません」
「そう。じゃあ仕方ないわ」ママは封筒を引っ込めた。
「実家へ送られたらどうですか」
「実家? そうよね。実家の方が捜してらっしゃるんだったわね。じゃあそうするわ」
「住所はここです」鍋島は自分の手帳を開いてテーブルに置いた。
「港区弁天町――あら、田村さんって、親御さんじゃないのね」
「いいえ、ご両親ですよ」と鍋島は手帳に視線を落とした。「その下の芙美江というのが、彼女の実名です」
「実名?」とママは顔を上げた。
「ええ。村田江美子というのは偽名です」
「偽名――」ママは呟くと視線を遠ざけた。「どこか影のある子だと思ってたけど、やっぱり何かやったのね――」

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