7 憂心を抱えて

文字数 3,928文字

 自宅マンションのエレベーターを下りて廊下を右に進み、一番奥の部屋の前で立ち止まった芹沢は手にした鍵を鍵穴に差して回した。ドアを開けて中に入り、足下のローヒール・パンプスを見つけてほっと息を吐いた。
 夕方、一条からメールが入った。明日から二日間の休暇を取ったらしく、今から一時間後に新幹線に乗るという。夕食は一人で済ませ、マンションで待っているとのことだった。
 廊下を進んでリビング・ダイニングに通じる扉を開けて中に入った。
「みちる――?」
 右手奥のソファの前に座り込み、一条はテーブルに突っ伏して眠っていた。
 襟と袖に紺のラインの入った白いテーラードジャケットに揃いのプリーツスカートを穿き、両手をテーブルに置いてその上に頭を乗せている。透き通った肌に艶のあるローズ系の口紅と長いまつ毛が印象的で、肩より少し上までの髪から覗く小さな耳も同じように白かった。よく見ればそこに真珠のピアスが光っていて、その周りだけが少し赤みを帯びていた。
 芹沢はキッチンのカウンターに鍵とスマートフォン、脱いだジャケットを置くと、シャツの袖のボタンを外しながら一条のそばに行って屈み込んだ。入って来たときには気付かなかったが、テーブルに置いた腕の前には開いたシステム手帳とスマートフォンが並んでいた。きっと大阪へ来てからも、職場と連絡を取り合っていたのだろう。少し崩して折り畳んだ細い足の脇には新聞が広げられており、待っているあいだに何度も読み返したらしく、折り目がばらついていた。
「おい、風邪ひくぜ」
 芹沢は言うと一条の華奢な肩を静かに揺らした。
「う……ん」
 一条は鼻にかかった声で答えたが、目を開けることなくまたすぐに寝息を立て始めた。芹沢は立ち上がり、キッチンの壁にある給湯器の操作パネルのボタンを押して風呂の湯を溜めた。それから寝室へ行ってベッドのブランケットを持って戻ってくると、一条の背中に掛けた。
 バスタブの湯がいっぱいになるまで、芹沢はソファに座って一条を眺めていた。
 犯罪の多発する現場に身を置く警部とは思えなかった。それどころか、警察官にすら見えない。どこか大企業の役員秘書か、名門女子校の英語教師と言ったところがしっくりくる。山の手のお嬢様暮らしからまるっきりの男社会に飛び込んで、エリート幹部候補のコースに逆らって現場にこだわり続けるばかりに、男に逢いに来るにも分厚い手帳と携帯電話から目を離せないなんて、本当に物好きだな、けどその物好きのおかげで俺の前に現れてくれたんだよなと、芹沢は微かに上下する一条の背中を見ながら思った。
 やがて芹沢は浴室に向かった。髪と身体を洗い、膝を折って顎すれすれまで湯に浸かると、じんわりと染み込んでくる温もりが眠気を呼び起こした。欠伸を噛み殺し、とうに抜糸の済んだ左腕の傷口のあたりを軽く揉んだとき、わずかに痛みが走った。小さく舌打ちして天井を見上げた。
 みちるは何の話があって大阪へ来たのだろう、と思った。表向きは自分の誕生日だからと言っているが、日にちもぴったりではないし、祝ってもらうのに遠いところを自ら足を運んで来るというのも彼女らしくなかった。まさか結婚なんてことを言い出すとも思えなかったが、芹沢は何となく胸騒ぎがした。この前鍋島に言われたことがまだ尾を引いているのかなと、我ながらちょっと呆れた。 
 風呂から出ると、ドアの向こうで一条の話し声が聞こえた。服を着て脱衣所のドアを開けると、開け放たれたリビングの扉から一条の強い口調が聞こえてきた。
「――それで? その男は何て言ってるの?」
 芹沢は戸口に立った。一条はテーブルに頬杖を突き、こちらに背を向けてスマートフォンに話しかけていた。肩に羽織ったブランケットが少しずり落ちていた。
「思い違いですって?」
 一条は声を強め、すぐにふんと鼻で笑った。「話にならないわ。それであなたはのこのこ引き下がってきたってわけ? このままじゃ容疑者の拘留期限が来てしまうわ。二宮くんはそれでいいの?」
 相変わらずの強気だなと芹沢は思って口許を緩め、腕を組んだ。
 一条はしばらく相手の話すのを聞いていたが、やがて短くため息をつくと、空いた手でブランケットを引き上げながら言った。
「――ええ、そうよ。わたしがそう言ってるんだって突っぱねるのよ。責任はわたしが取るって言ってくれてもいいわ。――ええ、それでいいわ。わたしが戻るまで、あなたは何度でもその男にアタックするのよ。いい? 絶対に引き下がってはだめよ。あの容疑者をただの強盗傷害なんかで済ませないわ――そう、はい、じゃあお願いね。おやすみなさい」
 一条は電話を切った。重い物でも置くようにゆっくりとテーブルに戻すと、両方の手で頬杖を突き、ふうっとため息を漏らした。それから欠伸をぐっと押し殺して、ドアに振り返るとびくんと肩を弾ませた。
「……やだ、驚いた」そして嬉しそうに、「いつからそこにいたの?」と笑顔で訊いてきた。
「おまえが二宮相手に噛みついてたときから」芹沢は戸口に背中をつけたまま言った。
「盗み聞きはよくないわね。それにわたし、噛みついてなんかいないわ」
 一条はブランケットを肩から下ろして立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。たった今まで年上の部下に厳しく注文を付けていたとは思えない心細そうな表情で芹沢を見つめている。やがてその瞳がだんだんと揺れてきた。
「……あれれ」
 芹沢はちょっと驚き、一条に歩み寄ると、両腕を少し開いて手を差し延べた。一条は飛び込むようにして彼の胸に顔を埋めた。
「また最初から泣きベソか?」
 一条は黙って首を振った。
「もっと早くに連絡くれたら、早めに帰ってきたのに」
「だって仕事だもん。迷惑でしょ」
「迷惑なもんか」芹沢は笑った。「二か月ぶりだろ」
 うん、と一条は頷いた。「……寂しかったんだから」と涙声。
「ほらぁ。泣かない泣かない」
 芹沢は一条の両腕を取って彼女の顔を見ようとした。だが一条は彼の胸に顔を埋めたまま動かず、相変わらず弱々しい声で言った。
「……もう少し、このままでいて」
「うん」
 芹沢は再び一条の背中に手を回した。ゆっくりと撫でながら、彼女の気が済むのを待った。
 やがて一条は緩々と顔を上げた。瞳から涙は引いていた。芹沢がその頬に手を添えて、二人はキスをした。
「……合鍵で部屋に入ったとき、知らない女性が『お帰りなさーい』なんて出てきたらどうしようかと思ったわ」
 一条はわざと疑わし気な上目遣いで言った。
「あり得ないって」
「ほんとかしら?」
「ほんとさ。きれいなもんだぜ」
 そして芹沢は一条の耳に唇を近づけ、首筋からジャケットの襟の内側へと指を滑らせながら言った。「……だから早く、風呂入って来いよ」
「……エッチなんだから」
 一条は言うとゆっくりと芹沢から離れて戸口に向かった。


 日付が変わり、少し肌寒くなってきた。ベッドで布団に包まり、バックハグで一条を抱いた芹沢は彼女のうなじに鼻先をくっつけ、寝言のような小声で訊いた。
「……何かあった?」
「話しちゃダメなんでしょ」一条は拗ねるように言った。「……話したいけど」
「仕事のこと?」
「そう。だから、聞きたくないわよね」

 ――“仕事の話はしない”――

 付き合うことを決めたとき、二人で最初に交わした約束だった。今はお互い似たような状況でも、この先もそれが続くことは決してないと分かっていたから。
「――聞くだけなら」芹沢は言った。
「無理しないで。ホントはね、既にわたしにもどうにもならないことなの。他にも、どうにかできたんじゃないかって後悔することなんかもあって――前に進めなくなってる」
「それがしんどいんだな」
「そうね」
 一条は芹沢に振り返った。その肩に頭を寄せる。「……こんなに未熟なのに、周りは待ってはくれない」
 ――なるほど。いよいよ今の地位から上に引き上げられるということか。そのことにみちるは戸惑っている。本来ならもっと早く、そしてもっと無難なポジションが与えられ、それを特に何の感慨もなく受け入れて、さらに上を目指して邁進して行く、それがキャリアのあたりまえだったはずだ。だけどみちるはそうではない――
「話したいんだろ。聞くよ」
「……いいの?」
「ああ。誕生日プレゼントその一」
 芹沢は微笑むと一条の顎に手を添えて少し上に向けた。「ただし、途中で泣くのはナシ」
 一条はうん、と頷いた。軽くキスをして、それから話し出した。

 担当した事件で助けたつもりの女性に、本当は何ひとつ助けられずに悲劇を迎えさせたこと、それなのに新しく発足させるチームの班長に就けと上から要請されていることを話し終えると、一条は長いため息をついた。
「……自分でも呆れてる。ここで立ち止まってるわけにはいかないことくらい、分かってるのに」
 芹沢を見ると、彼は黙って彼女の肩を撫で、頭の上のブラケットライトを見つめている。聞くだけでいい、と言ったのだからそれで当然なのだが、せめて顔くらい見ててほしいのにと一条は思った。
 すると芹沢は言った。
「返事はいつまで」
「新チームの? 五日後。でも、明後日まで休みもらったから、明々後日(しあさって)の登庁時には返事しようかと思ってる」
「そうか」
 芹沢は一条に向き直った。頬に手をやり、指先で耳を触る。穏やかな笑みを浮かべて顔を近付けると、額を合わせて言った。
「どんなときだって、俺には可愛いみちるだから」
「貴志――」
「約束のことは気にしなくていい。抱え込まずに、俺に言っておいで」
「……うん」
 一条は芹沢に抱きついた。「……大好き」
「そうだな。知ってるよ」
 絡みつくようなキスをして、それからしっかりと抱き合って眠った。


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