8 どっちが悪趣味だ

文字数 2,117文字


 タクシーが歩道脇に滑り込んできて、タイヤが小さく悲鳴を上げると同時に後ろのドアがやけくそ気味に開いた。芹沢はさっさと乗り込むと、まだ歩道に立っている仁美に言った。
「乗れよ、早く」
「え、でも……」
「マンションまで送って行くからさ。ほら、早く乗れよ」
 仁美は戸惑い気味に芹沢の隣に乗り込むと言った。「京都に帰れって言うたんと違うの?」
「何時だと思ってるんだよ。今から京都に帰ってたら日が変わっちまうだろ」
 そして運転手に行先を告げる。「すいません、東天満一丁目で一人、そのあと天六へ回ってください」
「え、天六に住んでるの?」と仁美は振り返った。
本庄東(ほんじょうひがし)。おたくの会社とは目と鼻の先だな」と芹沢も仁美を見た。「それより、今日は仕方ねえけど明日は京都へ帰れよ」
「大丈夫よ。あれからは何もないし」
「さっき言ったはずだよな。あんたを襲ったのはただの痴漢じゃねえって」
「葉子の部屋やったら安全なんやない? あそこで寝ようかな」
「また待ち伏せされたらどうすんだよ」
 そう言うと芹沢は意味あり気に笑った。「あ――それとも例の、あんたが煙草を吸うのを知らねえ彼氏にこうやって送り迎えしてもらったらどうだ? だったら安全だろ」
「……なに言うてんのよ」と仁美は顔を曇らせた。
「あの兄ちゃんだったら、あんたが頼めばホイホイ喜んで、毎日会社まで迎えに来てくれそうじゃねえか。あんたが煙草を吸うのを知らねえんだけど」
「だからその言い方やめろっ」
「優しそうだって言ってんだよ。褒めてるんだぜ、これでも」芹沢は悪戯っぽく笑った。
「言葉を知らんのね。ええ、そう、すっごく優しいわよ、誰かさんなんかよりずっと」
 仁美は言うと窓に振り返った。「――せやから、言えへんのよ」
 芹沢はその言葉を聞き逃さなかった。
「彼氏には話してねえのか? 今回のこと」
「ええやん、そんなことどうでも」
「ああ、そうだな」
「……言うてないわ」と仁美は窓の外を見ながら言った。「心配かけたくないから」
「しおらしいこと言うじゃんか」と芹沢は小さく笑った。「でも、ちょっと水臭かねえか。付き合ってるんだろ」
「ちゃんと決まった相手がいるのに、隠れて別の相手とコソコソやってる人に言われたくないわ」
「……なあ、何を根拠に言ってるのか知らねえけど、俺がいつそんなことしてるって言った? あのときの女が俺とどういう関係なのか、あんたに分かるのかよ?」
「彼女が誘って欲しそうにしてたから、誘ってあげたんでしょ。あんたはそういうの絶対に見逃さへんらしいし」
 そして仁美は芹沢にさっと振り返り、意味ありげな眼差しを投げかけた。「本命の彼女がエリートなんで、拗ねちゃってたのよね?」
「……盗み聞きとは悪趣味だな」芹沢はむっとした。
「人聞きの悪いこと言わんといてよ。聞こえたのよ、真後ろの席にいたから」
「だからってそれを今、ここで言うのは悪趣味に違いねえ」芹沢は口を歪めた。「それに俺は、拗ねてなんかねえし」
「じゃあ、人の付き合い方を水臭いだの何だのって言うのは、悪趣味やないってわけ?」仁美は言い返した。「男前やからって、そんなことばっかりやってると今にひどい目に遭うわよ」
「顔のこと言うなよ。生まれつきなんだよ」芹沢も負けていない。「だいたい、おまえら女子だって顔の良し悪しでキャアキャア言うじゃねえかよ。『イケメンが好きー』とか『ルックスは大事よねー』とかさ。いちいちうるせえんだよ。中身を見ろ中身を」
「でもそう言われてそっちもいい思いしてるんでしょ?」
「してねえよ、大きなお世話だよ」
「――お客さん、一丁目のどこ?」運転手が見かねて口を挟んだ。
「あ、すいません、その先の郵便局の角を南に入った二筋目です」仁美が答えた。
 タクシーは国道一号線を横切る脇道を南へ折れ、百メートルほど走ったところで停まった。芹沢は運転手にしばらく待つように頼むと、仁美と共にマンションに入った。

 エレベーターを降りて佐伯葉子の部屋の前まで来ると、仁美は顔の前で鍵を振って芹沢に言った。「ね。ここで間借りさせてもらえば安全よ」
「犯罪だぜ」
「あれ、そうなん? 知らんかったわ」と仁美はとぼけた。「だからって、このことを盾にとって逮捕なんてやめてよ」
「そりゃいい考えだな。検討しとくよ」
「しょうがないやん。緊急事態なんやから」
「どこがだよ」と芹沢は真顔で言った。「とにかく、今夜は自分の部屋に戻って、明日中にここを引き払うんだ。でなきゃ、それこそ逮捕されると思っといた方がいい。鍵を預かってるからって、居住者の承諾なしに勝手に部屋に上がり込んでるんだから、明らかに住居侵入だろ」
「――冗談でしょ?」仁美はだんだん心配になってきた。
 芹沢はふんと笑った。「俺を何だと思ってるんだよ。だたのお節介な(あん)ちゃんだと思ってちゃ大間違いだぜ。このくらいの犯罪なら、独自の判断で逮捕できるくらいの権限はじゅうぶんに持ってるんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ――」
「今度狙われたら、きっとただじゃ済まねえから言ってるんだ」
 芹沢は仁美の言葉を遮ると、ドアを閉めて鍵を回し、それを仁美に渡して言った。「いいか。俺は言ったことは必ずやるからな」
 仁美は渋々頷いた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み