6 震える悪意

文字数 4,640文字

 鍋島と芹沢が刑事課の中で最も信頼を置いているのが、同じ一係の高野(たかの)(しげる)警部補と島崎良樹(よしき)巡査部長の二人だった。
 高野は一係の係長で年齢は四十七歳、柔道で鍛えた逞しい身体に温厚そうな丸顔が乗り、刑事部屋でも笑顔を絶やさないその人懐っこさが、刑事課の四人の係長の中でも一番親しまれ、人気を集めている。植田課長も、自分より全員が年上という係長の中では一番近いとあって何かとやりやすそうだった。西天満署にはかれこれ十年近く籍を置き、始めの三年間は会計課にいたという、刑事の中では変わり種だ。
 島崎はそれぞれの係に一人ないし二人はいる主任の一人だ。背が高く、飄々としたところが魅力的で、一見、郊外の町役場の職員のような人の良さも感じさせる。いつも競馬新聞を離さず、時折言う冗談が破壊的に可笑しい、三十五歳の中堅刑事だった。鍋島と芹沢が西天満署に配属されてきた頃はまだ巡査長で、どちらかと言うとあまり冴えない感じの刑事だったが、それが一年も経たないうちに巡査部長に昇格し、主任となったのは、若い二人にかなり触発されたところが多かったようだ。

 時刻は午後三時を二十分ほど過ぎていた。芹沢は刑事部屋のデスクで鍋島の帰りを待ちながら、高野と島崎に今回の案件について説明していた。
「――で、その峰尾と内田に話を聞きましたが、どうも嘘臭いんですよ。二人で完璧に口裏を合わせてますから、今のところちょっとつけ入る隙が見当たらないんです」
「嘘をつく理由が分からんな」
 芹沢の斜め隣のデスクの高野が言った。「高槻に行ってたことを何で隠す必要があったか」
「高槻に愛人でもいてるんと違うか」
 鍋島の席に座った島崎が言った。
「俺たちもそう考えてるんですが、近所の人間や秘書も、そんな気配は無いって言ってるんです」
「秘書が? 部下にも完璧な嘘をつかせるような男やのに、その秘書がよう喋ってくれたな――」
 そこまで言って島崎は芹沢を見た。「――あ」
 芹沢はにっと笑って島崎を見つめ返しただけだった。
「……そうか。秘書は女性か」島崎はため息をついた。
「もっと知りたいことがあったら連絡ちょうだいって、ケータイ番号教えてくれましたよ」芹沢は言って肩をすくめた。「たぶんもう用はねえと思うけど」
「一週間――いや三日でええからおまえになってみたいよ」
「何かと苦労も多いけど?」芹沢は眉根を寄せて俯いた。
「……係長、やっぱコイツぶっ殺しましょう」島崎は高野に言った。
「え、やっぱってなに」芹沢は顔を上げた。
「まあ待て島崎。俺らやなくてもこの男はそのうち必ず捨てた女に復讐されよる。そんときは高みの見物や」
 高野は大真面目に言って、芹沢に訊いた。「女房には探りを入れたんか?」
「二年前にくも膜下出血で倒れて以来、ずっと病院暮らしです。峰尾は通いの家政婦を雇っていて、その家政婦にも話を聞いたんですが、家の鍵を渡されていて、いつも夕方には帰ってしまうから峰尾とは滅多に顔を合わせないそうです」
「ということは、その一月三十日にも家政婦はいてへんかったんか? 内田が家に来て食事をしたっていうのに」
「いえ、食事の段取りをして、五時前には帰ったそうです」
「そういう契約になってるのかも知れんけど……何となく不自然やな。客を迎えるのに家政婦を帰してしまうなんて」と高野は腕を組んだ。「佐伯の行方は? 分からんままか」
「生安課にも顔写真を回してあるんですが、今のところ情報ゼロです。まあ、自分で姿を消したのは分かってますし、そう簡単には見つかるとは思ってませんけどね」芹沢は椅子に背を預けた。「本来は彼女を捜すのが目的なんだけど、この事件の謎さえ解けりゃ、彼女は自分から出てくると思うんですよ。死体にさえなってなけりゃね」
「それが心配やろ」
「当面は心配ないかと。脅迫の犯人は彼女と辻野を間違えてるんですから」
「で、どう動くつもりや」島崎が訊いた。
「坂口が本当に犯人じゃないとしたら、彼女の潔白を証明するには二つの方法しかありません。峰尾の嘘を暴くか、岡本殺しの真犯人を挙げるか」
真犯人(ホンボシ)を挙げるには、事件を洗い直さんといかんやろ。捜一の妨害は避けられへんぞ」
「もうガンガン来てますよ。だからそうおおっぴらには動けないんです。場合によっちゃ、今後も坂口の担当弁護士の助手ってことで通せるように、弁護士と話はつけてあります」
「苦肉の策やな」と島崎は苦笑した。
「ところでその、峰尾昭一という男やけどな」高野が言った。「どっかで聞いたことがあるんや。東栄商事の名前と一緒に。そう昔の話でもないと思う」
「事件ですか」
「どうやったかな」と高野は首を捻って芹沢を見た。「ま、思い出しとくわ」
「お願いします」
 そこへデスクの電話が鳴って、芹沢が受話器を取った。高野と島崎はその場を離れた。
「刑事課です」
《――あの、私、『週刊タイム』の福井と申しますが――》
「あ、福井編集長。先日はお忙しいところをお邪魔しました」
《ああええ、それはいいんです。実はちょっと警察に報せておいた方がいいかと思うことがありまして、それでお電話差し上げた次第で――あの、あのときの刑事さんですか?》
「はい、芹沢です。で、どういった内容でしょう?」
《実は今朝、ある女性から電話が入りましてね。ひと月ほど前に佐伯さんから取材の申し込みを受けた人物らしいんですが、そのときは断ったんだそうです。で、今になって佐伯さんに話を聞いてもらいたくなって、彼女に貰った名刺の番号にかけたんだけど、一向に繋がらないからって、それでうちにかけてきたんですよ」
「その女性の名前は?」芹沢はメモ用紙を引き寄せた。
《イシカワケイコって言ってました。ロックの石に三本川の川でしょうね。ケイコはちょっとわかりません》
「それで、福井さんは何と?」
《ええ、佐伯さんが失踪したってことは何となく言わない方がいいかなと思ったので、彼女は長期の取材に出ていて、いつ戻るかは未定なんだと答えました。それで、差し支えなければ代わりに話を伺いましょうかと言ったんですけど、そしたら急に――》
「急に、どうしたんですか」
《切っちゃったんですよ、電話を》
 芹沢は大きくため息をついた。「……そうですか」
 そのため息が聞こえたようで、福井は心なしか申し訳なさそうに言った。《ただそれだけなんですけど、やはりお伝えしておいた方がいいかと――》
「ええ、それはもちろんですよ。ただ――佐伯さんがその石川さんという女性に取材を申し込んだのは、何の事件に関してだったのか、それが分かればもっと良かったんですが」
《ええ、私もそれを訊きました。でも言わないんですよ。一度取材を断ったくらいですから、本人にとっては深刻なことなんだと思います》
 福井はここで一呼吸置いた。《……そう考えると、私にはどうも佐伯さんが失踪したことと関係があるように思えてきましてね》
「そうですね。わざわざありがとうございました」芹沢は言った。「もし今度また電話がかかってきたら、今僕が言ったあたりのことを訊きだして、できれば接触を図れるように試みていただけますか?」
《分かりました、何とかやってみます》
「お願いします」
 福井が電話を切るのを待って、芹沢は受話器を置いた。
 また新たな人物の登場だ。もしイシカワケイコという女性が一連の事件の関係者だったとしたら、誰の近くにいる人物なのか。一度拒否した取材を、今になって承諾してくるとはどういうことなのか。あるいは、脅迫犯の差し金か。
 そこへまた電話が鳴った。今度は二係のデスクにいた捜査員が取った。
「――芹沢、鍋島かおまえにや。一番」
 芹沢は再び受話器を取った。「代わりました。芹沢です」
《まだやってるな、おまえら》怒りを含んだ声だった。
「――は?」
《東栄商事へ行ったやろ。峰尾と内田に会いに》
「……ああ」大牟田だと分かった。「ええ、行きましたけど」
《よその事件(ヤマ)に首を突っ込むなと言うたのが分からんのか? あの事件はもう解決済みなんや》
「首なんか突っ込んでませんよ」
《嘘をつけ。あの二人に会うて、岡本殺しの件をあれこれ訊いていったそうやないか》
「俺たちは失踪人の捜索をしているだけです。佐伯葉子さんが峰尾さんと内田さんのどちらかと接触を図ったことがないか、訊きに行ったんですよ。彼女はあの事件を取材していたんですから」
《どうだか。それやったらなんで、一月三十日の行動を根掘り葉掘り訊いたりしたんや。その佐伯とかいう女の行方を追うのに、そこまで調べる必要がどこにある? いくらその女が取材してたとは言え、事件の内容にまでどう関係してくるんや?》
「無関係とは言い切れません」
《佐伯が失踪したのはいつや。確か十日ほど前やと言うてたな。ついこの前おらんようになった人物を捜すのに、何で三か月も前の事件が関係あるんや!》
 大牟田は声を荒げた。《ええ加減なことを言うたって、こっちの目は節穴やないんや。おまえらみたいな所轄のガキどもに騙されるような、そこまでヤキの回った人間はいてへんぞ、本部(こっち)には》
 ――まただ。ふた言目には本部風を吹かせて、よほどこの男はそれが偉いと思い込んでいるらしい。
「どう思われようとそっちの勝手ですがね。とにかく俺たちは佐伯葉子を見つけ出したいだけなんですから、それをやめろと言う権利はそっちにはないはずです」
《ふん、まだ言うか》と大牟田は鼻白んだ。《おまえら、坂口の弁護士の助手を装ってあの二人に会うたそうやな。ほんまに失踪人の捜索をしてるだけやったら、何で刑事の身分を隠さんといかん? それがええ証拠やろ》
「持田先生にも頼まれたんですよ。坂口郁代の弁護に協力してもらいたいから、ぜひ佐伯さんを探し出してほしいって」
《白々しいことを言うな!》大牟田はまた怒鳴った。《ええか。これ以上続けるつもりやったら、こっちにも考えがあるからな。今まではおまえらの上司にやんわり注意を促してただけやが、そっちの署長に正式に抗議させてもらう》
「どうぞご自由に」
《ええ度胸やな。たいした大馬鹿や》
「大牟田さんの方こそ、起訴済みの事件の関係者といまだに親しくなさってるんですね」
《……何やて……?》
「だってそうでしょう。今朝の今で、もう耳に入っているなんて」芹沢は言った。「それとも、アフターケアってやつですか。ずいぶん暇なんですね、本部ってとこは」
《……イキがっていられるのも今のうちやぞ》
 そう言い捨てて大牟田は電話を切った。
 芹沢は受話器を見つめ、ふんと鼻を鳴らして元に戻した。
 内田に自分たちが刑事であることを見破られた時点で、いずれそのことが大牟田の耳に入るのは覚悟していた。しかし、この早さはどうだ。峰尾や内田がこちらの本当の目的を察知して、直ちにやめさせようとしたことの表れではないか。彼らがそこまでする理由はただ一つ。自分たちの嘘が暴かれるのを恐れているのだ。

 ――面白くなってきたぜ。

 かねてから芹沢は、自分のことに限らずすべてにおいて事態の悪化が生じることを喜ぶ本能的な悪意のようなものが、ある時期以来自分の心の中にずっと棲みついているのを意識していたが、このとき彼は、まさにその悪意が武者震いしたのを感じたのだった。
 そこへ鍋島が戻って来た。芹沢は彼に振り返ると、両手を後頭部に回して椅子の背もたれに身体を預け、意味深に笑みを浮かべて言った。
「いい具合に発酵してきた」
「は?」
 鍋島は眉根を寄せて芹沢を見下ろした。




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