2 動き出す

文字数 4,398文字

 署長室のドアの前に立ち、一条は肩を使って大きく深呼吸をした。右手で軽く拳を作り、裏返してゆっくりとドアを叩く。中から「そうぞ」との声がして、彼女は「失礼します」と声と張って言い、ドアを開けた。
 部屋に入ってドアを閉め、一礼すると、一条はデスクの清水署長をまっすぐに見た。
 署長は穏やかに微笑み、部屋の中央のソファに手を差し延べた。そして自分も立ち上がり、隣に控えていた吉田副署長とともにソファに腰を下ろした。
「――返事を聞かせていただけるのですね」
 向かいに腰掛けた一条を見て、署長は言った。
「ええ。長らく引き延ばしてしまい、申し訳ありません」一条は頭を下げ、そしてすぐに元に戻した。「決心いたしました」
「お引き受けいただける、ということでよろしいのですね」
「はい。ただし一つだけ、お願いがあります」
 その言葉に副署長が微かに眉根を寄せた。何だと、調子に乗るなよこの小娘、とその眉は語っているように見えた。
「と言うと?」
 逆に署長はまったく表情を変えずに訊いてきた。
 一条は頷いた。「お引き受けする以上は、チームの布陣をより強固なものにしたいと考えました」
「今のメンバーでは心許ないと?」
「いいえ。刑事課の二人はわたしも日頃からその仕事ぶりを拝見していて優秀な方だと存じ上げています。他の二名も、未成年と外国人、各分野の犯罪に精通した、大変心強い方ばかりです。ただ今の時代、そのすべての事案に欠かさず関わってくる共通の環境においての対応にも、やはりスペシャリストが必要だと」
「共通の環境?」
「サイバー空間(スペース)です」一条は言った。「あたりまえすぎて考えが及びませんでしたが、この分野は無視できません」
「なるほど。確かにおっしゃる通りです」署長は深く頷いた。「つまりその分野に長けたメンバーを加えることが一条さんの条件ということですね」
「はい。無理を申し上げてすいません」一条はまた深々と頭を下げた。
「いいえ、とんでもない。大丈夫ですよ」署長は笑った。「では早速適任者探しを――」
「刑事課の二宮巡査ですね」
 ここで副署長が発言した。一条を見て、小さくひとつ頷いた。
「……ええ。よくご存じで――」
「確か最近では、警部と組んで仕事をすることが多いとか」
「はい。それでその分野における彼の高い能力を知りました。捜査でも大変助けられています」
「二宮巡査は大学で情報学を専攻し、修士課程まで修めたと聞いています」副署長が署長に言った。「一説によると、研究者志望だったとか」
「なるほど。それは頼もしい」
「情報学分野のいくつかの国家資格も取得しています」一条が言った。「あと――剣道の有段者です」
 署長の眉がぴくっと上がった。自分と同じところが好感触だったようだ。
「刑事になって何年?」署長は訊いた。
「まだ一年七ヶ月です」一条は答えた。「ですが、昨年末から二月にかけての連続通り魔事件を解決に導いたのは彼です」
「あの事案ですか。あれはお手柄でした」
 署長は大きく頷いた。そして居住まいを正して一条に向き直り、力強い眼差しで彼女を見据えると言った。
「分かりました。ではその彼もチームに参加してもらいましょう。副署長、手筈を整えてください」
「承知いたしました」
「ご快諾いただき、感謝します」
 一条はもう一度深く頭を下げ、静かに安堵のため息をついた。


 廊下を階段の前まで来たところで立ち止まり、一条は署長室から副署長が出てくるのを待った。三分ほど経つとドアが開き、副署長が現れた。
「吉田副署長」
 こちらに向かってくる副署長に一条は声をかけた。
「ああ、一条警部」
 副署長は顔を上げた。一条の前まで来ると、そのまま並んで歩き続けた。
「あの、ありがとうございます」一条は言った。
「二宮巡査のことですか」
「ええ。副署長がわたしの意図をご理解くださっているとは知りませんでした」
「――山中課長がね」と言うと副署長は笑みを浮かべた。「ときどき、飲みに行くといろいろ話してくれるんですよ。二宮巡査の話もそのときにね」
「お二人で飲みに、ですか?」
 一条は意外そうな声を上げた。
「ええ。実は彼、地元の高校の後輩でね」
「あら、そんなご縁が」
 副署長と山中刑事課長が。意外な組み合わせだなと思った。一見物静かだが、署内の様々な事案に対して抜け目のない調整役ぶりを発揮して来た吉田副署長と、刑事畑一筋、本部捜査一課にも在籍経験があり、いつでも現場復帰して活躍出来そうな山中課長が、高校時代の先輩後輩関係だったとは。そう言えば山中課長は浪人して大学に入るまではバリバリのヤンキーだったらしいから、もしやこの副署長も――?
 一条はよっこらしょと階段を下り始める副署長の姿を眺めた。――いや、ないない。
「――山中くん、二宮巡査は一条警部の良き右腕になりますよと、言ってました。彼自身にとってもいい経験になると」
「ということは、つまり――」
「ええ。発足同時にではなくても、いずれはチームに参加させてはどうかと、山中くんも考えていたようです」
「……そうだったんですか」一条は短いため息をついた。「でも、そうなると刑事課からは三人抜かれることになりますね」
「もちろん、この新チーム発足に係る異動は、あります。刑事課への補充もありますから、そこはご心配なく」
 副署長は息を切らせ、途切れ途切れに言った。「ただ、この前の、通り魔事案での活躍がありましたから、山中くんは二宮巡査を手放すことに、少し躊躇が生まれていたようですけど」
「申し訳ないです」一条は俯いた。本当にそう思った。
「いや、だからこそ二宮くんには、いいチャンスだと思いますよ。自信がついてきたタイミングで、ステップアップするというのも」
「ええ、それは確かにそうですね」
「一条警部」
 階段を下りたところで副署長は立ち止まり、一条に向き直った。
「あ、はい」
「間違っていたら申し訳ありませんが――あなたはもしかすると、新チームの指揮官に就くにあたって、自分にとって盤石な環境を整えたかったのではないかと私は感じています」
「それは――」
「もちろんそれも大事なことです。特にあなたのような立場の方は、失敗は徹底的に避けるべきだ。でもどんなに小さな組織であっても、そのトップに立つ以上はそれだけはなく、部下にとっても良い職場環境を提供し、同時に彼らの成長や今後への最適な道筋をつけることが何より求められます。いずれもっと高いところへ昇っていかれるであろうあなただからこそ、どうかそこを見失われないようにお願いします」
「……はい。分かりました」
「それではここで。私はちょっと、水でも買ってきましょう」
 副署長は笑顔で言うと、自動販売機コーナーを指差して回れ右をした。
 一条は深く一礼し、刑事課に向かった。


 
 仁美の相手を芹沢に任せた鍋島はミナミへ出た。村上優に会いに、この前のスタジオへ行くつもりだった。アポを取っているというのは嘘だったが、コンタクトを取ろうとしていたのは本当だ。岡本の付き合っていた女性の中で、ユウなら知っていそうな音楽仲間に対象を絞り、彼女たちの立ち回り先や交友関係を聞き出すためだった。そしてその一人一人について、岡本との関係や事件当夜のアリバイを洗い直す。当時の捜査本部が既にやっているはずのことを、もう一度やろうというのだ。女性は三人いた。それでも全体の半分だ。岡本は実に、同時に六人もの女性と付き合っていたことになる。自分には到底できない離れ業だったが、芹沢ならやれるかもしれない、いややっぱり、他の女性とのたった一度の食事を暴き出すあの一条がいる限りは無理だなと、鍋島は勝手なことを思った。
 そしてまた鍋島は、一昨日久しぶりに芹沢と一条の様子を見て、ずいぶん安心したことを思い出した。一条のすべての振る舞いに芹沢への“好き”が溢れかえっているのはもちろんだったが、芹沢もまた、一条を見守る眼差しに隠し切れない愛情を滲ませているのがよく分かったからだ。この変化は大きいと鍋島は思った。心に深い闇を抱え、自他ともに否定のしようのない“モテ男”の芹沢が、“遠距離恋愛”に加えて“格差恋愛”という、まずまずのハードルが立ちはだかっていてもなお、一条への想いを育んでいられる、そのことが鍋島にはまるで奇跡のように思えた。一条ってすごいな、このまま芹沢を一途に想ってて欲しいな、でも出来ることなら警察という巨大かつ跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)魑魅魍魎(ちみもうりょう)であるだろう組織の中で真っ直ぐな心のまま偉くなって行っても欲しいなと、これもまた自分が勝手に思っても仕方のないことを頭に巡らせながらアメリカ村に向かった。

 スタジオに着くと、この前のスタッフが今日はユウのバンドの使用予約は入っていないと教えてくれた。仕方がないので、今夜にでも彼の勤めるジャズクラブに行くことにした。連日になるが麗子を誘ってみよう。実は婚約指輪のことで麗子からまだいい返事をもらっていない。麗子がなぜそこまで固辞するのかも不思議だったが、鍋島は鍋島で、もはや意地になっている自分を自覚していた。
 そして今度は、岡本が殺される日の昼間に訪ねていた友人から話を聞くために、その人物のアパートを目指した。
 週末の浮足立った街中(まちなか)を歩きながら、鍋島は坂口郁代が容疑者に上がり、逮捕された理由を考えた。鍋島も芹沢も、峰尾や内田の様子に直観的だが疑念を抱いたことで、今や彼女が無実であることに相当の確信を持っていた。そこで問題になるのは、彼女が犯人であるとする『有力な状況証拠』というやつだ。本来、状況証拠というのは『動かぬ証拠』である物的(科学的)証拠に付け加えることでより確信が得られるという、二次的な役割の上ではそこそこの効力はあるものの、あくまで「こういう状況では、犯人はこの人物しか考えにくい」という限りなく推測に近い証拠なのであって、それだけではどうしても決定性に欠け、すなわち公判維持もそれだけ難しいとされる。しかし今回はその状況証拠だけで彼女が逮捕されていることからすると、それがかなり強力なものだったようだ。(そこに峰尾のアリバイ否定証言でさらに容疑は強化される)それがあるからこそ捜査本部は坂口の犯行を確信して逮捕に踏み切ったのだろうし、大牟田が鍋島たちの邪魔をするのも、その確信があるからだ。
 それでは、それがどれほどのものなのか。物証もなく、本人も否認しているこの犯行を、間違いなく当人によるものと断定するに足りる有力なもの。つまりはそれを否定することもまた、彼女を解き放つ手段の一つでもあるはずだ――。
 鍋島は立ち止まり、手帳を取り出した。そして、犯行当日に岡本が坂口に借金を申し込んで断られていたという『状況証拠』の一つを目撃していた、彼女の勤める『ブルーローズ』の同僚ホステスの名前と住所を書き留めたページを捲った。行き先変更だ。



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