7 横浜への電話

文字数 4,978文字

 マンションに帰って、リビングダイニングに入った芹沢は、キッチンカウンターにキーケースを置くと、続けてジャケットのポケットから財布とスマートフォンを取り出して置いた。そしてスマホのロック画面に電話とメールの着信を告げる通知が表示されているのを見て、短いため息をついた。
 誰からのものか、おおよその想像はついた。けれどもすぐには確かめようとはしなかった。シャツのボタンを外しながらキッチンに入り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを開け、一口飲むとそばの壁のパネルを操作して風呂の湯を溜めた。そしてカウンターに戻ると面倒臭そうにスマホを取って画面を操作し、耳に当てながらリビングのソファに身体を預けた。

 留守番電話のメッセージは二件入っていた。一件目は彼の数多い女友達の一人からで、十日ほど前に会ったとき、数日中に連絡すると言った彼の言葉を覚えていて、約束を守らない彼にしびれを切らして掛けてきたのだった。
《――貴志クンたら、また遊びまくってるんでしょ――》
 と言う、妬きもち半分、冷やかし半分の彼女の言葉は、今回ばかりは外れていた。仕事に追われ、それどころではなかったのだ。
 そういえば、この電話の彼女と行った堂島のレストランで、今日の空き巣の被害者である辻野仁美に会ったのだった。隠れて煙草を喫まなければならない相手なんかと付き合うなと言いながら、自分もあのとき、連れていて見栄えがするというだけの理由で誘った女性と一緒にいた。そのことを言い訳するつもりはないが、ただ、自分に酌量を求める理由があるとすれば、自分もこの電話の彼女も、決して望み通りの未来を掴むために計算ずくで付き合おうという類いのものではないということだ。それぞれに本命の相手がいるのを知っているし、そこへ割り込んでいくつもりなど毛頭ない。つまりは遊び、軽いノリと言うやつで、一般的な常識からすると非難される行為ではあるだろうが、お互いがそれを承知なのだから何も悪くはないと彼は考えていた(ところが、それぞれの相手が承知かどうかまで考慮していないところに大きな落ち度があるのを彼はスルーしている。身勝手である)。彼の考えによると、許されざる行為というのはむしろ、片方が本気なのを知っていて、もう片方が遊びでその相手と付き合うことらしい。鍋島は辻野仁美が喫煙を隠して男と付き合っていて、あわやその秘密を暴くような行為にでた芹沢に対して気分を害したのだろうと推理した。そしてそれは、彼女が結婚というものを頭に置いて自分の年齢を考えた場合、ごく自然に沸いてくる感情であるかのようにも彼は言っていた。はたして、真意のほどは辻野仁美に訊いてみないと分からないが、もしも鍋島の言う通りだとすれば、それこそナンセンスだと彼は思った。自分の人生設計を描くのは自由だが、それを実現させることを最終目的に男と付き合う女は大嫌いだ。本末転倒も甚だしい。そのための我慢なんて、そんなものは何の評価も受けるべきではないとも思った。結婚だけを目的に煙草を我慢する女性より、やめられないものは仕方がないと、堂々と吸う女性の方が、彼はずっと好きだった。ましてや三十歳という歳など、ただの年齢以外に何の意味もないことだ。
 けれども、芹沢は一方で、自分のように恋人と言うべき相手がいながら、他の女性との軽い付き合いをやめられないことを堂々と非難する鍋島の考えも認めていた。本人の言うように、彼は極めて常識的で硬派とも言える男だ。そういう人間は珍しくはないが、芹沢が鍋島を評価するのは、彼の場合本人が常に自然体で、作為的なものがまるで感じられないことだ。おまけにその一方ではどうしようもなく優柔不断で、およそ硬派とは程遠い。そこがひどく人間臭くて、だからこそ彼が、初めて見たときには言葉を失うほどの美人で、その上とびきり頭の切れる女性――しかも普通なら恋愛には発展しにくいと言われる九年来の親友だ――の心を射止め、周囲で見ている者たちが気恥ずかしくなるほどのお熱い恋愛の末に、このたび結婚の運びとなったのだと芹沢は確信していた。およそ自分には一生かかっても出来ないであろう芸当を、いとも自然にやってのけた鍋島に対して、彼はその点では一目置いていた。
 そんな鍋島が彼に言った。おまえにも、好むと好まざるとに関わらず、世間の常識を突き付けられるときが来ると。しかも、そう遠くはない将来に――。

 二件目のメッセージが、彼に強くその言葉を意識させた。
 メッセージの主は、彼の『本名の相手』である一条(いちじょう)みちるだった。誰からか分かっていたというのは。彼女のことだ。

《――わたし。忙しそうね。メールは確認してくれた? 暇が出来たら連絡くれる? わたしも今、ややこしいのを抱えてるから、解放されるのは遅いと思うけど。メールでも電話でも、メッセージ残しておいて――》

 一条みちるは横浜(よこはま)市に住む女性で、もうすぐ二十六歳になる。去年の六月、出張でやって来た大阪で芹沢と知り合い、そのとき一度だけ同じ夜を過ごした。当時彼女には親のお墨付きの恋人がいて、芹沢とは行きずりの出来事としてとらえようとしていた。もちろん芹沢もそうだ。しかし大阪を離れるときには、彼女は彼を忘れることができなくなっていたのだ。横浜に戻って一週間ほど経ったとき、彼女は芹沢に想いを打ち明ける決心を固め、大阪行きの新幹線に飛び乗った。そうして、二人の遠距離恋愛が始まった。
 一条は芹沢にとって、まさに好みのタイプだった。抜けるような白い肌と、可愛さの上に気品が溢れた顔立ちは、神から授かった大いなる恵みだったが、高級官僚を父親に持ち、山の手の閑静な環境で育った生い立ちも、その品の良さに磨きをかけるのに十分な後天的要因として働いた。清楚で、可憐で、虫一匹殺すどころか、見ただけで逃げ出しそうな(やわ)な雰囲気に包まれたその容姿は、彼の理想に限りなく近かった。しかし厳密に言えばそれでパーフェクトというわけでもなかった。彼女には、その育ちからくる、研ぎ澄まされた気位の高さ――もっとはっきり言えば、自分以外の人間をすべて見下しているかのようなプライドの高さ――があったのだ。
 実際、彼女は東大法学部を優秀な成績で卒業し、国家公務員総合職試験をすんなりパスした才媛だった。とは言え、選ばれた者ばかりが集まる国家機関のキャリアの道は思った以上に厳しいものだ。それは父親を見ていてよく分かっていた。そこへあえて飛び込んでいこうという気の強さが、彼女に成功をもたらした。そしてその成功が、彼女に東京の物価よりも高いプライドを植え付けたのだった。か弱さと高慢さ、一人の人間に同居しがたいこの二つの要素を一条はいとも自然に併せ持ち、芹沢はその両者の造るアンバランスさが、どういうわけか一番気に入っていた。
 一条は神奈川県警の警察官だった。そして父親は警察庁の幹部だ。芹沢と初めて会ったとき、彼女は父親や恋人のように、あらかじめ敷かれたレールに乗って部下の管理に目を光らせ、予算や法案作りに日々明け暮れる将来には抵抗を感じ始めていた。

を受けたのは、父親の影響も多少はあったが、女だからと言って差別されにくい職場を望んだからで、官僚になりたいからではなかった。それよりも、刑事になるのが子供の頃からの夢だったし、だからこそ迷わずに警察庁への入庁を希望したのだ。だから彼女は現場にこだわり続けた。希望に反して警察の現場はとんでもなく男社会だと思い知らされたものの、それで夢を諦めるつもりはなかった。階級も、現場にとどまれるのは警部が最後の地位だと考え、ずっと昇進を辞退し続ける覚悟で――それでも、地方採用のノンキャリアである芹沢とは大きな開きがあるのだが――体裁を気にした上層部に刑事課長代理という役職を就けられてはいるが、本部ではなく一所轄署の一刑事で踏ん張っていた。
 しかしいくら意地になっても、そこはやはり純粋培養の温室育ちだ。容疑者を追って大阪へ来たときも、生意気な発言と勝手な行動で捜査員たちのチームワークを乱した。そんな彼女を徹底的に非難し、その思い上がりを完全に打ちのめしたのが芹沢だったのだ。一条が芹沢に対して愛情を抱いたのは、彼が、彼女が誇りとしていたものをすべて否定し、その上であくまでも一人の警察官として扱い、寄り添ってくれた初めての人物だったからだ。

 芹沢はスマホを操作して一条に電話を掛けた。リビングの壁掛け時計を見ると十一時を少し過ぎていた。
 二回目のコールが終わらないうちに、一条が出た。
《もしもし》
「――あ、ごめん。遅くなった」
《……もう。やっと》一条はため息をついた。《遅いよ》
「ごめん。忙しくてさ」
《女の子と遊ぶのに?》
「まさか。違うって」芹沢は少し焦った。「なに言ってんのさ」
《だって、分かんないもん》
 電話の向こうの一条が頬を膨らませている様子が想像できて、芹沢は頬を緩めた。絶対に可愛いぞ。見なくても分かる。見たいけど。
「仕事だよ。いつものように、担当外の案件まで押し付けられてんだ」
《鍋島くんも?》
「もちろん。あいつは俺より忙しいよ」
《どうして?》
婚約指輪(エンゲージリング)を選ぶのに、ジタバタしてる」
《へえ、そうなんだ》
 一条の声が明るくなった。逆に芹沢は一抹の不安を抱いた。あ、なんか余計な話題を振っちまったかな。
《指輪選びで、どうしてジタバタしなくちゃならないの?》
「なんかさ、三上(みかみ)サンが要らねえって言ってるらしい。だけどあいつは買おうとしてて、それで一人で選ぼうとしてるんだけど、どれがいいかよく分かんねえから、それでジタバタ」
《何それ。鍋島くんの自己満じゃない》
「ひゃーバッサリ言うね」
《だってそうでしょ。要らないって言ってるのを買うって、何目線? 誰目線? 麗子さん、それで喜ぶかしら? 結果ダレトク? ってことにならない?》一条は畳みかけるように言った。
「相変わらず手厳しいな」と芹沢は苦笑した。「サプライズのつもりなんじゃねえの」
《はきちがえてなきゃいいけど》
 一条は言って、ふんと鼻を鳴らした。
「――それはそうと、何か話があるのか」
《あ、うん……》少し神妙な声になった。《近いうちに、そっち行っていい?》
「え、今月は俺がそっちへ行くつもりだけど」芹沢は飲み終えたビールの空き缶をテーブルに置いた。「誕生日だろ」
《うん、分かってる。でも先月はわたしの引っ越しが忙しくて行けなかったし》
「そうだったけど――」
 芹沢は少し違和感を感じた。忙しいのになんでわざわざ、と思った。
 先月、一条は実家を出て独り暮らしを始めた。仕事柄、常日頃から深夜の帰宅は当たり前、連日の泊まりも頻繁に起こる。そしてその都度、母が寝ずに帰宅を待っていてくれるそうだ。彼女がいくらやめてくれと言っても、娘を心配する親心には勝てない。だがそれが長く続くとさすがに心苦しく、時には煩わしくさえなって来た。このままでは親子仲が悪くなってしまう。そこで独立を決心した。もちろん、そこにはホテルを予約し、新幹線を利用して大阪からやって来る芹沢の経済的負担を軽減する目的もあった。そして今年に入ってから彼女は物件選びに取り掛かり、芹沢も意見を求められたのだが、彼女が少し偏ったこだわりを持っていたせいでなかなか理解が得られず、二人のあいだに多少波風が立つこともあった。一時は暗礁に乗り上げそうになったものの、様々な紆余曲折を経てやっと優良物件を見つけ、彼もそこを気に入って、先月、無事に引っ越しの運びとなったのである。
「忙しいんじゃないのか」芹沢は言った。
《忙しいわよ。だけど、だから余計に会いたいって思っちゃうの。いけない?》
「いいけど――」
《来られちゃまずいことでもある?》
「無いよ」
《じゃあ行く。一人暮らしで覚えたお料理、振舞ってあげるわ》
「え、大丈夫?」
《大丈夫よ。このあいだ母にも作ったら、美味しいって言ってくれたもん》
 あ、またほっぺをぷくっとさせてるぞ。うん、やっぱ見たいな。
「分かった。日が決まったら知らせてくれよ」
《うん。待っててね》
 一条の声がまた明るくなって、それからじゃあね、おやすみなさいと電話は切れた。
 鍋島の忠告が現実味を帯びてくるのかなと思うと、少し気が重かった。






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