1 逃げるは恥だが役に立つ…のか?

文字数 3,936文字

 北区西天満三丁目。西天満署からは直線距離で四百メートルと離れていないところに、その弁護士は事務所を構えていた。

 二人はあれからきっちり三日間、管内で多発している強盗の捜査に回された。もちろん、それは植田課長からの職務命令ではあったが、その実態は紛れもなく、捜査一課の大牟田刑事からの圧力に違いないと二人は確信していた。しかし彼らはそれには屈せず、強盗事件が解決するとすぐに岡本信哉事件の調査に戻った。
 細長い雑居ビルの二階の、擦りガラスをはめ込んだ白い扉を開ければ十坪ほどのスペースが横長に広がり、それが事務所のすべてだった。正面の窓の前に暖かな印象の天然木の大きなデスク、同じ材質のチェスト、その後ろにコートハンガー。左側の隅には小さな流し台と、籐製の衝立を挟んだこちら側に複合機とファクス、デスクトップのパソコンがあった。部屋の中央に陣取る応接セットは、穏やかなダークブラウン。依頼人の心を落ち着かせたいという心遣いが感じられる。その他はすべて書棚だった。弁護士としては多いのか少ないのかは分からないが、鍋島はこのずらりと並んだ書物を見たとき――当然ながらほとんどが法律書だ――麗子の自宅の書斎を思い出した。

 持田(もちだ)耀平(ようへい)は三十を二年ほど過ぎただけの新米弁護士だった。法科大学院を卒業後、リミットぎりぎりの五年、三回目にして司法試験に合格、司法修習、修習生考試を経て、事務所を開いたのが去年の十月。まだ僅か半年しか経っていない。当然、金になるクライアントを多数抱えているわけでもなければ、世間の注目を集める訴訟に関わったこともない。それなのにたった一人でこの事務所を運営出来ているのが不思議だったが、聞けば母親の実家が指折りの資産家らしい。弁護士になった以上は自分の城である事務所を構えるのが当然だと、しばらくは大学の先輩のもとで経験を積もうと思っていた息子の意向も聞かずに、両親がさっさと事務所の開設準備を進めてしまったのだと、持田は恥ずかしそうに笑って話した。
「――西天満署の刑事さんが、なぜこの事件を?」
 持田は張りのある肌の明るい笑顔をいくぶん警戒の色で曇らせ、自分で淹れたコーヒーの香りの立ちこめるマグカップを両手で抱えて二人を見た。ミュージシャンの星野源(ほしのげん)によく似ていて、高級そうな眼鏡をかけ、仕立ての良いスーツに身を包み、育ちの良さそうな佇まいをしていた。
「いえ、別件の捜査をしていたら、その事件にぶつかりまして」鍋島が答えた。
「別件ね」と持田は小さく笑った。「警察の方は、その言葉を実にうまく使う」
「本当に別件なんです。あるいは多少の関連はあるかも知れませんが、まだはっきりとした確証はありません」
「まあ、お話は伺いますし、僕も話せることはお話ししましょう。ただしご承知のように弁護士にも守秘義務はありますから、ご期待に沿えるかどうか」
「分かっています」と鍋島は頷いた。
 持田も頷いて、二人にコーヒーを勧めた。
「刑事事件を担当するのは初めてなんですよ。と言っても、民事が専門だと言うほど幾つも仕事をしたわけだはありませんがね」
「国選ですか」
「いえ、当番弁護士制度による依頼です。もちろんご存知ですよね」
「ええ」
「仕事が暇なもんで、そのまま公判の弁護も引き受けることになりましてね。正直言って、ちょっと後悔してるんです」
 持田は不機嫌なため息を漏らすと、マグカップの中を覗きながら言った。「なにしろ、勝ち目と言うものがない」
「勝ち目がない?」
「ええ。確かに、僕の依頼人は容疑を否認しているし、僕もそれを信じたいけど、反論するだけの確たる証拠がありません。彼女の主張するアリバイも崩れましたし」
「つまり、無罪を勝ち取るのは難しいと」
「ええ。ですから、罪状で争ったらどうかと彼女に助言しているんです」
「殺意の否認ですか?」
「そうです。傷害致死になればと」
「相手の左胸を刺しておいて、殺意の否認ですか。しかも現場は廃墟ビルの非常階段や。凶器のナイフがたまたまそこにあったとは考えられません。明らかに犯人が用意したものです。ナイフを持って、人気(ひとけ)のないところでトラブルを抱えている相手に会う。その時点で未必の故意が成立するんじゃないですか」
「そういう説明の仕方をすれば、もちろんそうなるでしょう。しかし相手は男性で、僕の依頼人は女性です。そして二人のあいだには金銭トラブルがあった。殺すためではなく、自己防衛のために持っていたとしても不自然ではありません」
「できるんですか、そんな主張が」
「やってみるつもりです。うまく情状を酌んでもらえれば、実刑を免れるかも知れない」
「けど、それでは被告人が納得しないでしょう。自分は無実だって言ってるんだから」芹沢が言った。
「ですから今、彼女を説得しようとしている最中でね。いや、なかなか頑固な女性で、こっちが迂闊に強引なことをしたら、たちまち解任されかねませんよ。僕も最初は乗り気じゃなかったが、乗り掛かった船だ。ここで引き下がっては僕の沽券(こけん)にかかわる。事務員やパラリーガルも雇えない駆け出し弁護士だから、たいした沽券じゃありませんけどね」
「……分からないな」と芹沢は苦笑した。「検察は殺人で起訴している。捜査記録を読みましたが、俺もこの事件は殺人だと思います。そして被告人の坂口郁代さんは、逮捕当初から自分はやってないと言ってる。だったら、殺人罪か無罪か、そこで争われるべきなんじゃないでしょうか」
「検察との見解の相違は、あって当然です。だからこそ法廷で争い、裁判官にその判断を委ねるんです」
 そう言って自らを納得させるかのように強く頷いた持田を眺めながら、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。それから芹沢が言った。
「……失礼ですが、どうも逃げているように見えますね」
「闘う場所を選んでいるんです」
 持田は言って、残りのコーヒーを飲み干した。そしてマグカップをテーブルに置くと、少し身体を前に乗り出して芹沢の顔をじっと見た。「坂口に殺意は無かったんですよ。犯行を否認しているのは、きっとそのせいです」
「ですが、それはあくまで坂口さんが

としての話でしょう」鍋島が言った。
「……何です?」持田は眼鏡のフレームを上げた。「刑事さんまで、何をおっしゃるかと思ったら――」
「先生は、佐伯葉子さんという女性をご存知ですか」芹沢が訊いた。
「佐伯葉子さん」と持田は確認するように呟いた。
「フリーライターです。年齢は三十一歳」
「あ、ええ、知ってます。と言っても、一度ここで会っただけですが」
「彼女の方から訪ねて来たんですか?」
「ええ。あれは確か――二月の終わりごろだったと思います。坂口郁代の事件を取材しているので、彼女に会わせてほしいと。もちろんそんなことは許可するわけにはいきません。彼女は犯行を否認しているし、今のところ接見は弁護人の僕だけにしか許されていなくて、彼女の母親にも我慢してもらっている状況だったんですから」
「そのとき、佐伯さんは取材の意図を話しましたか?」
「意図、ですか?」
「ええ。あるいは動機です。彼女は新聞記者ではないから、報道するだけが目的ではないんです。しかも事件発生から何日も経ってからの取材となると、なおさら意味があるはずだ」
「……よく覚えていませんね。ただ、これまでにも何人かの刑事事件の被疑者を取材したことがあるようで、彼らが正常な精神状態からどのような過程を経て犯罪を犯すに至ったか、その精神の変化を知りたいとか、そんなようなことを言ってたって記憶がありますけど」
「じゃあ、この事件に何か疑問を持っているとか、そんなことは言ってませんでしたか?」
「疑問って、どんな疑問です?」
 持田は言うと、すぐに何かを閃いたかのように目を見開いた。「坂口が犯人でないとでも?」
「おそらくそうでしょう」
「まさか、そんな――」持田は絶句した。
 ここからは自分たちの領分だと思いながら、芹沢は言った。「佐伯葉子さんは今月の九日に失踪しました。友人に残したメッセージには、自分が今取材中の事件に関連して脅迫を受けていると書かれていました。そしてそのヒントとして、坂口郁代さんと彼女のアリバイを否定した峰尾昭一さん、峰尾さんの部下の内田啓介さんの名前が記されていたんです」
 鍋島が引き継ぐ。「我々は佐伯さんのメッセージを受け取った隣人宅に入った空き巣事件を捜査しています。その空き巣は佐伯さんの部屋と間違えてその隣人宅に忍び込んだらしいんです。つまり、彼女に事件を調べられては困る誰かが、証拠を盗むためか、彼女に恐怖を与えるために部屋を荒らしたと考えられるんです。佐伯葉子さんが失踪したのは、身の危険を感じたからです。後日その隣人も何者かに襲われ、『坂口郁代の事件から手を引け』という脅迫を受けました」
「……本当ですか……?」
「嘘でこんなことを言っても始まりませんよ。弁護士の先生を騙して、俺たちに何の得があるんですか」
 持田は頷くと、腕を組んで俯いた。明らかに困惑しているのが二人にはよく分かった。やがて彼は顔を上げた。
「佐伯さんは、坂口が犯人ではない証拠を掴んだって、メッセージでそう言ってるんですか?」
「いいえ、そこまでは。おそらく確証はまだ掴めてないんやと思います」
「ただ、真相に近付きつつあるからこそ脅迫を受けたのだと考えられます。その真相が冤罪だとは、あるいは彼女自身は気付いていないかも知れません」
「……隣人の方は、佐伯さんに間違えられて襲われたんですね」
「そう考えられます」
 分かりました、と持田は頷いた。そして居住まいを正し、真っ直ぐに刑事たちを見て言った。
「――それで、僕は何をすれば?」


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