6 タルタルソースが欲しくなった…のです(後)

文字数 3,900文字


 連れてこられた店は、新地にある小ぢんまりと落ち着いたバーだった。カウンターの後ろにずらりと並んだスコッチウイスキーのボトルはちょっと他で見ない種類の多さで、それというのもスタッグバーにルーツがあるらしく、最近になって女性向けのカクテルも品揃えが整ってきたと芹沢は説明した。
「――眠くなった?」
 ドライマティーニのグラスを前にすっかりおとなしくなった仁美を見ながら、芹沢は小さく笑って頬杖を突いた。
「別に」仁美はグラスを口に運んだ。
「弱いとか? まさかな」
 ――なんでそう思うのよ。仁美は顔を上げた。「弱くはないけど、酒乱の傾向があるからね。そうなったら誘った以上、とことん相手してもらうから」
「先に言えよ。だったら誘わねえのに」
「……そう。ほな気を付けるわ」
 ――ひと言ひと言、彼の言葉が胸に突き刺さる。
 そして芹沢は背の低いウイスキーグラスを手に取ると、仁美を横目で見て言った。
「――で、ほんとは何があったんだ」
「え?」
「何かあったから俺を探し出してあの店に来たんだろ。まさか、本当に昨日の謝罪がしたかっただけじゃねえよな」
「…………」
「事件のことなら、もうあんまり口出ししてもらわねえ方がありがてえんだけど」
「それは分かってる」
「じゃあやっぱ、彼氏とぎくしゃくしたか」
「そんなこと――」
「昨日のことが原因なら、少しは俺も責任感じるけど――俺はあんたに合わせたつもりだったけどな。それに、別にやましいことしてたわけでもねえし」
「そのことやったら大丈夫よ。特に何もないから」
 ふうん、と頷いて、芹沢は言った。「あんま乗り気じゃねえみたいだな」
「え?」
 顔を上げた仁美に、芹沢はしたり顔を見せた。「彼氏さ。そんなに好きでもなさそうだ」
 仁美ははは、と弱々しく笑った。「そうね。そろそろ愛想尽かされてるかも」
「違うよ。あんたの方だ」
「え――」
「気を遣ってるのは分かったけど、それだけって感じ。むしろ他人行儀にすら感じた。他人には違いないけど」
「そんなことないわ」
「逆に向こうは、あんたのこと必死で守ろうとしてるのが伝わってきたよ。だから俺にも噛みついてきたんだろうし」
 そう言ってグラスを空け、芹沢は腕組みをすると椅子に背を預けた。「良さそうな男じゃん。まっすぐな感じで」
「……うん」仁美は俯いた。
「ほら。そうやってテンション下がるのはなんでかってことさ」
「それは――」
 他に気になる男性(ひと)ができたから、と言えば彼はどう言うだろうか。
 ふと目線を上げると、芹沢は微かな笑みを湛えてこちらを見ていた。ここまで整った顔でまともに見つめられたらさすがに気持ちがざわつく。
 ――どうした。こういうときにうまく立ち回れないようでは、三十歳を目前にした大人の女として情けない。何とか相応しい言葉を考えるんだ――。
 そのとき、斜め左側の席にいた男女の二人連れが、少し語気を強めて口喧嘩を始めた。芹沢も仁美もしばらくは互いに言葉は交わさず、その様子を伺っていた。
 やがて喧嘩が終わり、仁美は呆れたように笑う芹沢に言った。
「ねえ、人のことばっかり訊くけど、そっちはどうなん?」
「何が」
「どんな女性(ひと)? 彼女」
「ええ?」と芹沢は眉を寄せて笑った。「なんで急に?」
「ええやん。教えてよ」
「訊いてどうするんだよ」
「どうって、そっちがいろいろ訊いてくるから、お返しよ」
 どうしてこんなことを言うのだろうと思いながら、それでも仁美は訊かずにいられなかった。
「俺の場合、偶然にしても二回も居合わせちまったんだから、つい訊くだろ。しかもなんかややこしいことになりそうだったし」芹沢は言った。「けど、俺がどんな相手と付き合ってようが、それが俺とあんたのあいだで何も影響はねえよな」
「……ないけど」仁美は視線を落とした。「あなたは魅力のある人やから、彼女はどんな女性(ひと)なんやろうって思っただけ」
「……どうしたんだよ、急に」
 そう言って笑いながら芹沢は仁美に振り返り、目を合わせるとそのまま黙り込んだ。
「え、そこで黙る?」仁美は恥ずかしそうに笑った。
「――いや、いいんだ」と芹沢は向き直った。
 芹沢は仁美の気持ちの変化に気付いたのだった。
 視線を仁美に移すと、彼女はグラスを見つめていた。思い詰めたようなその眼差しは、彼女もまた自分自身の心の中を探っているようだった。
「煙草持ってるか?」芹沢は訊いた。
 仁美は隣の椅子に置いたバッグを開け、シガレットケースを出して自分と芹沢のあいだに置いた。芹沢はそれを引き寄せ、ケースからライターと煙草を一本取り出すと、口の端に挟んでライターを手に取った。堂島のレストランで芹沢が拾って仁美に渡した、あのライターだ。横目で仁美をちらりと見て、火を点けた。
 ゆっくりと長い煙を吐き終えてから、芹沢はカウンターの中でグラスを磨いているバーテンを眺めながら言った。
「――奇跡なんだ」
「え――」
「俺みたいなクズにとっては、あの女性(ひと)は奇跡」
 芹沢は言うとふっと笑って仁美に振り返った。「ってことで」
「……そう」仁美は力なく頷いた。
 ――奇跡だなんて。そんな言葉が出てくるとは思わなかった。これ以上の愛情表現があるだろうか。やっぱり、訊かなければよかった。
 仁美は言った。「だったらなんで、別の女性と遊んだりするの?」
「性分かなぁ」と芹沢は笑った。「同じ一生なら、少しでも女の子との時間を過ごしたいっていう俺の性分」
「じゃああたしをここに誘ったのも、その性分のせい」
 芹沢は前を見たままだった。煙草を持った方の親指で、この前まで傷を負っていた目尻を搔き、グラスを持ってバーテンにお代わりを求めた。この二週間近く、頻繁に会って見慣れていたはずの仁美にも、その横顔はたまらなく魅力的だった。
 やがて芹沢は言った。「あんたは別さ」
「別って?」仁美は肩をすくめた。「どう別なわけ?」
「それが――よく分からねえんだ」
「何よそれ」仁美はちょっとがっくりした。
「いいじゃねえか。あるだろ、そういうのだって」
「あるかなぁ」
「あるある」
 芹沢は煙草を消すと、シガレットケースとライターを仁美に返してきた。「ほら。あんたも吸ったらどうだ」
「ええわ」
「なんで。あんたのだぜ」
「ええってば」と仁美は押し返した。「どうぞ。もっと吸ってええわよ」
「無理すんなって。俺が吸ってるの、羨ましそうに見てたくせに」
「見てへんわよ」
「おかしなやつだな、なんでそんな無理するんだよ」
「無理なんかしてへんわよ、今は別に欲しくないだけ」
「ほんとか?」
 芹沢は面白そうに言い、カウンターに両腕を乗せて仁美の顔を覗き込んできた。仁美は反射的に顔を少し背けて俯いた。芹沢の顔が間近にあるのを意識して、目を合わせることができなかった。
「なあ」
「何よ」
「ちょっと顔上げろって」
 ――だめだ。絶対にできない。
「ええやん。聞こえてるんやから」
「だったら言うけど」
「なに」
「隠れて煙草吸わなきゃならねえ相手となんか、付き合うなよ」
「えっ――」
 仁美は思わず顔を上げた。じっと自分を見つめている芹沢の端正な顔が、目の前にあった。
「俺だったら、そんな無理してもらいたかねえな」
「……そういうわけにはいかへんのよ」
 仁美は小さく笑って、そしてまた俯いた。


「――電車を降りたら、すぐタクシー拾えよ」
 梅田駅の前まできたとき、芹沢はこれで三回目の台詞を言った。
「分かってるわよ、何回も言われなくても。子供やないんやから」仁美は笑った。「お父さんみたいなこと言うんや」
「こっちにも引き留めた責任があるからよ」
「心配せんかて、何かあってもあんたの責任やなんて言わへんから」
「……なに言ってんだよ?」
 芹沢は立ち止まり、顔をしかめて仁美を見下ろした。「俺がいつ自分の心配してるなんて言ったよ?」
「……ごめん」
「あんまり過信しねえ方がいいぜ。何かあってからじゃどうしようもねえんだから」芹沢は真顔だった。
「……そうね」
 仁美は芹沢の気遣いが気恥ずかしく、そして嬉しくもあった。
「春先ってのは、おかしな野郎があちこちから這い出してきてるからな。そういう連中は、女だったら誰でもいいんだ――」
 全部言い終わらないうちに芹沢は笑い出した。
 仁美はむっとして芹沢を見上げた。「真面目に聞いてたら――」
「もう怒るなよ」と芹沢は仁美の前に手をかざして彼女の言葉を遮った。「はら、早くしねえとあっという間に最終が行っちまう」
「うん」
「じゃあ、ほんとに気をつけて帰れよ」
「分かってる」と仁美は頷いた。「ありがとう。長いこと付き合ってくれて」
「振り回されっぱなしだ」
 そう言い残して、芹沢はエスカレーターへと歩いて行った。
 仁美はその後姿を目で追っていたが、そのうちだんだんと胸が詰まってきて、やがて崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。すぐに絶望感と孤独感が襲ってきて、人目もはばからずに大声で泣きたくなった。

 ――鍋島の言うとおりだった。辛くなっただけ。だからもう、やめておこう。今すぐ気持ちに蓋をするんだ。そう、樋口に物足りなさを感じていたから、そこへ現れた彼に気持ちが移っただけ。いつもソースをかけていたアジフライに、タルタルソースを掛けてみたくなったように――それだけ。

「――あの、どうかしましたか?」
 誰かが声を掛けてくれた。足首の締まった、ワインレッドのヒールの女性だった。
 仁美は大きく頭を振った。「……大丈夫です」
「手をお貸ししましょうか? トイレまですぐですので」
「……本当に大丈夫です。どうもありがとう」
 仁美は頑なに断った。手を差し伸べてもらいたい相手は、今はただ一人しかいなかったから。


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