2 不穏な気配

文字数 3,470文字


 署長室の応接ソファに腰掛けて、一条は腕組みをしながら向かいの副署長が話すのをじっと聞いていた。出されたコーヒーは冷め、表面にうっすらとフレッシュの膜ができていた。
「――どうですか、そろそろ決心がつきましたか」
 向かいに座った吉田(よしだ)副署長の説明が終わると、デスクの清水(しみず)署長が言った。白髪混じりの豊かな髪を整髪料でぴっちりと整え、バランスの良い身体を制服に包み、ぴしっと背筋を伸ばして座っている。剣道の有段者で、しかもかなり上の段位を持っているらしい。年齢はちょうど五十歳だそうなので、ノンキャリアとしては順調に出世している方だろう。
「ええ、まあ」
 一条は愛想笑いを浮かべた。「前向きには検討していますが――」
「できればゴールデンウィーク明け、遅くとも六月には発足したいと考えています。メンバーに通達し、現在の職務の後任への引継ぎ期間も考慮すれば、あまり時間はありません」
 副署長が言った。こちらは逆に、少しは運動したらどうだと思うほど顎の下にたっぷりと贅肉(ぜいにく)がぶら下がり、腹も出ていた。
「メンバーに不足でも?」署長が訊いた。
「いえ、特に」
「刑事課の主任二人は、警部もその働きぶりをよくご存じでしょう。生活安全課の二人はそれぞれ、少年と外国人対応における専門的スキルを持っています。現時点でベストの布陣だと思いますが」
「そうですね」
「現場の一捜査員としてやって来られたあなたにとって、いきなり新チームの班長というポジションはもしかすると多少のプレッシャーがかかっているのかも知れません。しかし、この先のあなたのキャリア形成においては決して無駄にはならないはずですし、ましてや重責などでもないはずですよ」
「ええ、それは分かっています」
 一条はゆっくりと頷いた。いずれ階級を上げて本部に戻り、さらには中央への“進出”も視野に入れている自分には、県警の所轄署における小さなチームの指揮官など、通りすがりにふと目に付いた交通違反車両を取り締まるくらい容易く、躊躇のない任務のはずだった。しかし、いざとなるとどういう訳か、怖気付くというほどではないにせよ、すんなりと受けることのできない自分がいた。

 ――どうしたのよ。何が引っかかっているの。自信を持ちなさい、いつものわたしのように――

「――聞くところによると、先日の強盗傷害事案では、警部はいささか悔しい思いをされたとか」
 何やら思いに耽る様子の一条を見て、署長は言った。
「――あ、ええ」一条は顔を上げた。
「容疑者の妻であり、情報提供者でもある女性が重症を負ったとの報告を受けていますが」
「はい。その通りです」
「そういう被害者を二度と出さないこと。それこそが、この新チーム創設の最大の目的であり、意義なんですよ」
 そう言って署長は穏やかに微笑んだ。「一条警部になら、理解していただけるのではと思っています」
「はい」一条は頷いた。
「あと三日――いや、五日待ちましょう。五日間で心を決めてください。他に要望があれば、できる限りお応えしますので」
「分かりました。ご配慮、感謝します」
 一条は立ち上がって、深々と頭を下げた。

 刑事課へ戻って席に着くと、隣の山中(やまなか)課長がゆっくりと振り返り、ごく小さく頷いた。当然、彼は事情を知っているはずだ。その上でこの頷きはどういう意味だろうと考えたところで、答えは極めてイージーに出た。
 要は、署長から提示されているその人事を受け入れろということだ。彼がそれを望んでいることくらいこっちだって分かっているし、これまでのような、明らかにお飾りの役職(ポスト)に就かせようとする“厄介払い人事”と、今回の『女性・未成年・外国人対策室』(略してWMF(=women、minor&foreigner)対策室というらしい。それでも長い。おまけにプロレス団体のようだ)室長への就任の打診はまるで意味が違うことも承知なだけに、自分の中で即却下とはなっていないのだ。
 受けるしかないな、と一条はほぼ肚を括った。ただ、あと一押し、誰かが、あるいは何かが背中を押してくれたなら――
 わたしはそれを待っているのだろうか。
 顔を上げると、一係の二宮と目が合った。二宮もまたこくんと頷き、立ち上がってリュックを背負った。彼はこの一件については何も知らないから、頷いたのは(捜査に出るんですね)という意味だ。後味の悪い強盗傷害事件が片付き、ここ数日は比較的瑣末(さまつ)な事案の裏取りが主な仕事だったので、どうしても自分が同行する必要はない。それでも彼がそう意思表示してくるのは、自分が今、署長室に呼ばれていたことを知っていて、そのストレスを解放してあげようという彼なりの気遣いだと一条は分かっていた。
 一条は立ち上がり、部屋を出た。

「――また例の『テキトーなお飾り役職(ポスト)』への配置換えの打診ですか」
 署の玄関から駐車場へと向かうところで、二宮が訊いてきた。
「そういう表現は良くないわよ」一条は苦笑しながら言った。
「言い出しっぺは警部でしたよね」
「そうだったかしら」
()くんですか」
「テキトーなお飾り役職(ポスト)に、ってこと? 就かないわよ」
「じゃあ、そうじゃない役職(ポスト)の打診が?」
「二宮くん。わたしはさっきからひと言も、人事の話が上がってるなんて言ってないわよ」
「今さらですね」二宮はふんと鼻を鳴らした。「みんな思ってますよ。警部が今の役職(ポスト)からステップアップするんだろうって」
「そう。思うのは勝手だけど」
 一条は肩をすくめ、捜査車両に乗り込んだ。二宮が運転席に座り、エンジンをかけた。
 そのとき、一条のバッグの中で電話の着信音が鳴った。スマートフォンを出して相手を確認した一条は神妙な表情になり、二宮に「ちょっとごめんなさい」と言うと同じように神妙な口調で「もしもし――はい」と言い、再びドアを開けて車外に出て離れて行った。
 駐車場の屋根が途切れたところに立った一条は、ずっと俯いて電話の相手と話していた。眉間にはずっと皺が寄り、時折小刻みに俯いて、はい、はいと相槌を打っている。いつも、どんな状況でも、相手が誰であろうと、こちらが心配になるほど強気で、何なら失礼じゃないかと思うくらい高飛車な態度を崩さない彼女にしては珍しいくらい切羽詰まったような表情をしていた。
 その様子を今ひとつ腑に落ちない様子で眺めていた二宮は、やがて自分もまた上着の内ポケットからスマートフォンを取り出し、一条を眺めながら手早く画面を操作した。
 やがて電話が終わり、一条が戻って来た。二宮はスマートフォンをポケットに戻した。
 助手席に着いた一条はシートベルトを装着し、二宮に振り返って言った。
「ごめんなさい、出して」
「何か心配事ですか」
「えっ?」
「いや、今の電話。深刻そうだったから」
「そんなことないわよ」と一条は笑った。「メンテナンスに出してる車がね。ちょっと費用が掛かりそうなの」
「そうなんですね」
 嘘だな、と二宮は思った。そんな電話なら自分の前でもできるはずだ。
「外車は厄介ですねえ」
「そうなのよぉ」
 一条はいかにも上っ面な返事をした。

 表通りに出る手前で一旦停止したところで、一条が言った。
「――明日と明後日、休暇を取ろうと思うの」
 二宮はハンドル操作の手を止めて一条を見た。「大阪ですか」
「うん、まあ――そうね」
「その、ステップアップの件で相談ですか」
「だから。そんな話は上がってないって言ってるじゃない」一条はため息をついた。「……誕生日なのよ。わたし」
「あっそうでしたか」二宮ははっと目を見開いた。「すいません、気づきませんでした」
「いいのよ。実際は少し先だし」
「そういうことでしたらどうぞ、行ってきてください――っていうか、警部が大阪に行くんですか? 芹沢さんが来られるんじゃなくて」二宮は言うとすぐに首を傾げた。「……余計なお世話でしたね。すいません」
 一条はううん、と頭を振り、「やっぱり、わたしとはやりにくいわよね、二宮くん」
「だからバディ解消?」
 二宮の言葉に一条は思わず息を呑んだが、すぐに訊き返した。
「誰がそんなこと言ってるの?」
「誰も言ってませんけど、思ってますよ。そもそも、警部が上の役職(ポスト)に就くってことは、そういうことですから」
「早とちりよ、みんな」
 一条は言うと明るい笑顔を浮かべた。「とにかく、留守を頼むわね。上の了解は取っておくから。何かあったら遠慮なく連絡ちょうだい」
「大丈夫ですよ。仕事はボク一人で何とか乗り切ります。任せてください」
「ありがとう」
 
 その後、目的地に着くまで、一条が口を開くことは無かった。

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