4 終焉の場所

文字数 4,536文字


 表札はもちろん『村田』だった。
 四帖半のダイニング、六帖の和室。古い造りだがやや広めの風呂と洗面所、それとは反対に狭いトイレ。それが田村芙美江の部屋のすべてだった。二人は部屋全体を簡単に調べて回ったが、特に変わった点は見当たらなかった。
「――なるほどな。きれいさっぱり片付いてる」
 小さなダイニングテーブルの脇に立って、芹沢は奥の和室を眺めながら言った。
「自分の意志でどこかへ消えたか……意思に反してどこかで消されたか」
 キッチンのシンクにもたれかかっている鍋島は呟いた。
 芹沢は玄関ドアの前に立ったままの管理人に振り返った。「家賃はどうなってます?」
(はろ)てもろてまっせ。もし滞納したら、すぐに大家さんから私に連絡が入りまっさかいな。ここの大家、金には厳しいんです」
 六十歳前後の小柄な管理人は答えた。
「今でもずっと?」
「ええ」
 芹沢は鍋島に振り返った。「ってことはつまり、自分の意志で消えたってことだ」
「……俺は違うと思う。彼女が自分から姿を消すとしたら、坂口と暮らしてたときみたいに、ちゃんと荷物をまとめて部屋を引き払うやろ。どっちにしてもまた別の場所で暮らして行かなあかんのやからな。全部置いて行って、家賃だけ払ってるなんて無駄が多すぎる」
 そして鍋島は管理人に訊いた。「家賃は振込みですか?」
「へえ、そうみたいです」
「ほな誰が払てるかは分らんな」鍋島は芹沢に言った。
「……峰尾か」
「そこでや。やつが一月三十日に田村を年末のハンバーガーショップのときみたいにどこかへ呼び出して、それから消したとするで。そうやとしたら、田村はここを出るとき、どういう思いでいたと思う?」
「どういう思いって――峰尾は金ができたと言って呼び出しただろうし、田村もそのつもりで呼び出しに応じたんだろうな」
「まあ、それはそうやろうけど、俺の言うてんのは、金を受け取ったあとで田村はどうするつもりやったかってことや」
「そりゃあここへ戻ってくるつもりだったろ」
 芹沢は言うと鍋島を(おかしなことを言うやつだ)という眼差しで見た。
「それや、俺の言うてんのは」鍋島は管理人に振り返った。「――あの、終わりましたら知らせに行きますから、お部屋へ戻っていただいて結構ですよ」
「はあ、分かりました」
 管理人は廊下を戻っていった。
 鍋島は後ろの流しに振り返って、手袋をはめた両手をついてシンクに顔を近付けた。「――綺麗すぎるんや」
「綺麗すぎる?」
「ああ。金を受け取るためだけに出かけた割には――ま、もしかしたら多少の寄り道はあったかも知れんけど――あまりにも綺麗に片付いてへんか、部屋のどこもかしこも」
「……そういや、そうだな」
 芹沢は改めて部屋を見渡した。家具以外は何もない。箪笥の中に衣類はあったが、テーブルの上も、ドレッサーの前も、日常的に使うために置きっぱなしにしてある物というのが、まるで無いのだ。すべて片付いている。
「綺麗好きや整頓魔はどこにでもおる。おしなべて男より女の方がその点は行き届いてるやろ。でも、これはどう見ても長期間家を空けることが分かってるような片付き方や」そこで鍋島は芹沢を見た。「けどまさか、これから自分が殺される覚悟をして部屋を綺麗に片付けていく人間はおらんやろ」
 芹沢は思いついたように背の低い冷蔵庫の前にしゃがむと、少し間をあけてからドアを開いた。
「……なるほどな」と芹沢は中を覗いたまま言った。「二、三日留守にする程度じゃ、この中まで空っぽにしておく必要はないはずだ」
 鍋島は頷いた。「これは田村の仕業やない」
「彼女を殺したあと、峰尾がここを片付けたんだ」
「何のために?」
「放っておくと、いずれ春が来たら生物(なまもの)が臭い出すからさ。こんな小さなアパートじゃ、隣近所はすぐに気付く恐れがある」
「それだけやと思うか」
「どういうことだよ」芹沢は鍋島に向き直った。「もったい付けてねえで、さっさと言えよ」
「生物を処分したのは分かるけど、それ以外の物までが妙に綺麗に片付いてるとは思わへんか。彼女がいなくなったことを周囲に気付かせへんようにするだけやったら、ここまでやる必要はないと思うで」
 鍋島は話しながらダイニングを横切り、奥の和室へ入った。「つまり、この部屋のすべてを綺麗にする必要があったということや」
「……やつが以前にもここに来たことがあったから?」
「ああ」
「その形跡を消す必要があったってことか」
「田村がやつを脅迫してたとすると、彼女はその証拠を持ってたに違いない。それを全部、消す必要があった」
「あるいは

まで」
 芹沢のその言葉に、鍋島は振り返って彼を見据えた。「そうや。前科の無い峰尾に指紋を消す必要があったとすれば、それは――」

さ」

な」鍋島は満足げに頷いた。「正式に令状とって、鑑識を連れてこよう」


 時計は午後六時半を指していた。
 芹沢はデスクに頬杖を突き、少し苛立たし気に小刻みに身体を揺らしていた。
 電話を待っているのだった。
 鍋島は課長のデスクの隣で丸椅子に座り、いくぶん芹沢の方を気にしながら課長と話していた。
「――指紋が一箇所だけか。それがなかったら危ないとこやったな」
「ええ。犯行中はずっと手袋をはめていたと思われるんですが、最後に思わず気が緩んだみたいですね。キッチンの水道の蛇口から、ほぼ完全な五指の指紋が取れました」
「手を洗ったんか」
「おそらく」と鍋島は頷いた。「手袋が汚れてたんでしょうね。せやから手を洗ったあとでもう一度はめ直すことなんて考えてもいてへんかったんやと思います。けど、ドアノブなんかは綺麗に拭き取られてたから、蛇口のことだけまったく忘れてた――いや、気付いてもなかったと」
「上手の手から水、か」と課長は言った。「で、それを以前峰尾から受け取った名刺の指紋と照合させてるというわけやな」
「ええ。名刺を受け取ったときにすぐに手帳に直してなかったら、そこから検出するのは不可能やったかも知れません」
「おまえも、ときどきは気の利いたことをするな」課長は鍋島を見ながら満足げに頷いた。「部屋の血液反応は?」
「三ヶ月近く経ってるから、鮮明に出るかどうかは心配だったんですが、脱衣所の床から一部、強く出ました」
「田村芙美江の血液型と一致したか」
「ええ。今のところは同じA型というだけですが」
「ほな、あとは指紋の一致を待つだけやな」課長は背もたれに身体を預け、腕を組んだ。「しかしそれだけでは逮捕状は出んぞ」
「分かってます。代わりに捜索令状を取って、やつの車を調べるつもりです。死体を運ぶのに車を使ったに違いありませんから。やつは任意で引っ張ります」
「峰尾の犯行が証明されたとして――もう一つの方はどうなんや」
「もう一つ?」鍋島は顔を上げ、怪訝そうに課長を見た。「何です?」
「とぼけるな」と課長は笑った。「岡本殺しの真犯人(ホンボシ)も挙げるつもりでいるんやろ」
「……知ってらっしゃったんですか」
 当たり前や、と課長は言った。「捜一の大牟田いうデカ長やろ。話は聞いてる」
「課長には迷惑の掛からないようにやるつもりです」
「は。自惚(うぬぼ)れるなよ」と課長は身を乗り出した。「ワシはおまえらの上司や。どんな風にやられても迷惑は(こうむ)る。それを承知でおまえらの好きにさせてるんやから、気にせんでもええ」
「……すいません」
「問題はや。仮に峰尾を自分の犯罪を認めざるを得んように追い込めたとしても、岡本殺しの被告人のアリバイまで証明するかどうかや。自分の罪が暴かれたことの腹いせに、知らんと言い張る可能性も大きいぞ。つまり、その被告人を道連れにするかも知れんということや」
「その危険性はありますね」と鍋島は落ち着き払って言った。「けど、それに絡んで虚偽の証言をさせられてる部下の存在もありますから、そこから何とか崩せると思うんです。この部下は偽証だけやなくて空き巣と脅迫の実行犯とも考えられますから、一月三十日のこともある程度知ってるかも知れません」
「……綱渡り的やが、何とかなるやろ」課長は言うと鍋島を見た。「いや、絶対に何とかしろ」
「分かりました」
 電話が鳴った。芹沢が飛び掛かるようにして受話器を取った。
「もしもし、はい、俺です――そうですか。どうもありがとうございます」
 芹沢の表情が晴れていった。受話器を置き、椅子を蹴って間仕切り戸に向かう。その様子を見守っていた課長は鍋島に振り返った。
「一致したようやな」
「そうですね」
 鍋島は立ち上がった。自分のデスクに戻って上着を掴み、袖を通しながら芹沢の後を追った。
 階段を下りきったところで芹沢が言った。「できたら会社へ乗り込んでやりたかったぜ」
 鍋島はふんと鼻を鳴らした。「どのみち、これからのあいつには関係なくなる」
 二人は暗くなり始めた空の下に飛び出した。


 格子戸のガラスの向こうで、峰尾は黙って鍵を開けた。手が震えているようだった。鍋島と芹沢はまったくの無表情でその影をじっと見つめていた。
 戸が開き、峰尾の顔が現れたと同時に鍋島が言った。
「峰尾さん、一月三十日のことでお話を伺いたいんですが」
「その話なら以前に――」
「いえ、田村芙美江さんと高槻でお会いになったときのことです」
「田村……はて、そんな方は知りませんね」
 峰尾は下を向いて言った。表情を(さと)られまいとしているようだった。
「それはおかしいですね。あなたが奥さんの入院後すぐに付き合い始めた女性ですよ。彼女のアパートからあなたの指紋も検出されているんですが」
「指紋が……?」峰尾は顔を上げた。
「それから、彼女と同じA型の血液反応も出ましたよ」
 そして芹沢がジャケットの内ポケットから一枚の紙きれを取り出し、素早く広げて峰尾に示した。「お宅の捜索をさせていただきます。これが令状です」
「なっ、なぜ――」
「ですから、それをじっくりお話しさせていただきたいんです」芹沢は押し込むように言った。
 峰尾の顔から徐々に血の気が引いていった。
 そのとき、二人の後ろから数名の鑑識係が現れた。鍋島が彼らに「車からお願いします。車のトランク」と言ってから峰尾に振り返った。「峰尾さん、車の鍵は?」
「そんなこと、なぜ応じなければ――」
「令状が出てるんですよ」鍋島はぴしゃりと言った。
「……書斎の机の抽斗だ」
 鍋島に促され、鑑識係の一人が家の中へと入っていった。その様子を見届けてから芹沢が峰尾に向き直った。
「では、署までご同行願えますか」
「断ると言ったら? 任意同行なんでしょう?」
「逮捕状を用意するまでです。そうなったらあなたはここから手錠を掛けられて出ていくことになりますよ」芹沢は淡々と言った。「もちろん、夜の間に逃げようったって無駄です。この周りをぐるっと張り込みますから」
 峰尾は唇を噛んで芹沢をじっと睨みつけた。しかし芹沢はまったく臆することなく、逆に極めて軽い調子で続けた。
「俺たちが、あんたにカマをかけるためにできねえことを言ってるんだと思ってるんなら、それは考え直した方がいいですよ」
 そして彼は口の端だけで微かに笑い、峰尾をじっと見据えると言った。
「――俺たちは、弁護士事務所の助手じゃねえんだから」
 その目は笑っていなかった。

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