6 あいつのせいだ

文字数 3,913文字

 ゴールデンウィークが終わって一週間が過ぎていた。

 仁美は背筋を伸ばして両手をテーブルの上に揃え、唇を真一文字に結んで、薄化粧の顔でまっすぐに樋口を見つめていた。樋口と会うときは決まってそうなってしまうのだが、今日もまた、注文した紅茶をろくに口にせずに冷たくしてしまっていた。
「――理由は何なんだい」
 樋口は低い声で言った。連休明けの多忙さがまだおさまっていないらしく、いくぶん血色の悪い顔に厳しい表情を浮かべて、窮屈そうにネクタイを緩めた。
「……ごめんなさい」
 仁美はさっきからもう三度、同じ言葉を口にした。そしてまた固く口を閉ざした。
「謝るだけだったら、分からないじゃないか」
 樋口は苛立たし気に指でテーブルをコツンと鳴らした。「それで納得できると思う?」
 仁美は首を振った。
「そうだろ。お見合いでもないのに、『今回はご縁がなかったということで』的なひと言だけですべてを察しろって言うの?」
「……いいえ」
「そりゃあ僕も、断られたプロポーズを何とか逆転させようなんて思ってないよ。けど、きみがよく考えたいから待ってくれって言うから、僕も承知して今まで待ってたんだ。それなのに、きみが今日ここへ来て挨拶以外で僕に言ったのは、『ごめんなさい』のひと言だけ。いくら僕がきみに任せるって言ったからって、それだけじゃあんまりだよ」
 樋口は乾いた唇を潤すためにコーヒーを口に運んだ。そして続けた。「僕らは、結婚だけが目的で付き合ってきたんじゃないだろ。少なくとも僕はそうだよ。きみが好きで、ずっと一緒にいたいと思うようになって、その延長線上にプロポーズがあったんだ。きみが断るって言うからには、もうこれ以上は続けられないと思うけど、この結果だけで今までのすべてが帳消しになってしまうようなことは嫌なんだ。なぜ駄目なのかをちゃんと言ってくれたら、僕も納得しようと思う。そうすれば、せめて今までの月日に意味があったものとして、それで記憶の中に仕舞い込むことができるんじゃないかと思うから」
「……そうね」
「はっきり言ってくれていいんだよ。やっぱり、僕は結婚には悪条件かな」
「そんなこと、あるはずないわ」
「僕の顔を見てるとげんなりする?」
「まさか、そんなんと違うわ」
「じゃ、性格の不一致ってやつ」と樋口は自嘲気味に言った。「僕はちっとも面白味が無いから」
「そんなこと――」
「だったら何なの?」
「…………」
 樋口に矢継ぎ早に質問されて、仁美は思わず顔を歪めた。そんなに責めないでほしいと思うと同時に、もし本当のことを言えば非難を受けるに違いないとも思った。
「……きみが言えないなら、僕が言おうか」
「えっ――?」
 顔を上げた仁美を、樋口はデスマスクのように強張った表情で見つめていた。それは、自分のプロポーズを断った相手に対する恨みや憎しみなどではなく、誠実さを欠いた対処で切り抜けようとする者に対して見せる、正しくも咎めの顔だった。
「――

なんだろ」
「あの男、って――」
「ほら。あの刑事だよ」
「――――――」
 仁美の顔から血の気が引いた。「違う、それ――」
 樋口は微かに口元を緩めた。「いい男だった。僕じゃとても太刀打ちできそうにないね」
「違う。違うのよ」
「嘘つかなくたっていいって。正直な話、

を見てたら、そんな気がしたから」
「純一さん……」
 仁美は呆然と樋口を見つめた。勝手な話だが、今ここで、芹沢の話はしてほしくなかった。
「でも、彼はどうなんだい?」
「……えっ」
「ちゃんと好きだって言ってるの? きみのこと」
 仁美は小さく首を振った。「そういう関係じゃないから――」
「伝えてないの? きみの気持ち」
 仁美は俯いた。忘れようと決めていた芹沢への気持ちが樋口によって覚醒され、瞬く間に心の全部を支配するのが分かった。目の前の樋口が単なる視覚の確認体となり、意識の中から完全に排除された。芹沢に会いたいとさえ思った。この前のように軽くあしらわれてもいいから、ただ見ているだけでもいいから、彼と同じ空間、同じ時間を共有したいと思った。そう思うといたたまれなくなって、じっとしているのが辛くなった。無意識のうちに親指の爪を噛んで、知らないあいだに涙が流れていた。
「……そんなに好きなんだ」樋口は驚いていた。
 仁美は慌てて、今度は大きく頭を振った。「純一さん、あたし――」
「いいよ、もう分かった。困らせてごめん」
「……こんな気持ちになるなんて思ってなかったの。あなたを裏切る行為やと分かってたわ。けど自分でも知らないうちに、あなたには何の不満もないのに――」
「……いや、僕にも原因の一端はある。きみの気持ちを繋ぎとめておけなかったんだから」
「そんなことないわ」
「いいんだよ、本当に。自分の気持ちには正直になった方がいい。僕の方こそ、最後に女々しいところを見せて、きみに嫌な思いをさせてしまったね。決してそんなつもりはなかった。だからこそ、返事を聞いた時点で、潔く身を退くべきだった」
 そう言うと樋口は伝票を掴んで立ち上がった。「じゃあ、僕はこれで。今まで楽しかった。ありがとう。元気でね」
「……ごめんなさい。本当に」
 樋口は一度だけ首を振ると、微かな笑みを湛えた唇で「さよなら」と呟き、テーブルを離れて行った。
「……さよなら」
 これで全部終わったんだと仁美は思った。樋口とのことも、芹沢のことも、今、この瞬間に清算し終えたのだ。きっと、過ぎてしまえばいい思い出になる。今までもそうだったではないか。そのうち忘れるときが来る。男がいなくなったって死ぬわけでもなし――。
 泣くなり落ち込むなり自棄(やけ)を起こすなり、さんざんやったら、また一からやり直そう。
 仁美は味のしない紅茶を啜った。



 ロッカールームから玄関ロビーに出たところで、芹沢はちょうどエントランスの自動ドアを潜ってきた一人の男に目を留めた。見覚えのある人物だった。
「えっと――」
 記憶を手繰らせていると、後ろから鍋島が追いついた。芹沢の視線をたどり、男を眺めて言った。
「誰や」
「確か……」芹沢は顎に手を当てた。
 そのあいだに男は受付カウンターに向かおうとして、そこで芹沢の視線を感じたのか、ゆっくりと振り返った。目が大きく開く。
「――あ、辻野の彼氏だ」芹沢は言った。
「へえ」
 鍋島もあらためて男を見た。しかしそのただならぬ様子に気付き、「ヤバいかも」と言うと素早く芹沢の前に出た。芹沢は「え?」と顔をしかめた。
「ええっと、確か――辻野さんのお知り合いの方ですよね?」
 近付いてきた男に鍋島は明るく言った。「刑事課の鍋島です」
 男――つまり樋口は鍋島を一瞥し、後ろの芹沢に向かって言った。「俺はあんたに用があるんですよ」
「はい?」
 芹沢は首を傾げた。鍋島に目配せをし、彼に退くように促す。鍋島は従い、しかしその場に留まった。
 樋口は言った。「――愉しいですか? 仁美さんの気持ちを(もてあそ)んで」
「は?」芹沢は眉根を寄せた。
「……そういうことか」
 鍋島が小声で呟く。今まで何度も見聞きしてきたシチュエーションだ。だが、署まで乗り込んできたのは初めてだった。どんな風に辻野との仲が壊れたのかは分からないが、相当頭に来てるらしい。やっぱりヤバい。
「どういうことを仰っているのか――」
「しらばっくれないでよ。彼女の気持ちに気付いて、それを利用したんだろ」
 樋口は言って、芹沢に詰め寄った。周りにいた数名が、怪訝そうに彼らを眺める。すると一人の制服警官が腰の警棒に手を当てて近付いてきた。鍋島が手を上げてそれを制した。
「何を、どう利用するって?」芹沢が言った。
「やめとけ」鍋島が首を振る。
 樋口はふんと鼻を鳴らした。「……あんた、いい男だからさ。そうやって、気付かないふりしてても、女性はみんな自分に心を奪われるってこと、分かってるんだよね。それで、適当に相手して、相手がメロメロになってるのを確認して、得意になってるんだ」
 いや、そこまでこいつは腐ってないけどな、と鍋島は思った。だがそれでフラれた当事者がそう思うのはやむを得ないか。
「……しゃーしか……」芹沢は呟いた。
「え?」意味が分からない鍋島は首を傾げた。どうやら博多(はかた)弁のようだ。
「眠たいこと言ってんじゃねえよ」と芹沢は言った。
「なんだと……」樋口の顔が紅潮する。
「芹沢」鍋島が低く呟く。
「相手の気持ちをしっかり繫ぎ留められねえのをこっちのせいにして、のこのこ出向いてきたってわけか。惨めじゃねえのかよ」
「やめとけって――!」鍋島がうんざりした顔で吐き捨てる。「おまえは、なんでそうやって――」
「貴様ぁ!」
 樋口が手を握りしめて芹沢に向かってきた。その瞬間、鍋島は突っ立っている芹沢の腕を掴んで自分に引き寄せ、
「ちょっと我慢しろ」
 と言うと拳を作った右手を肩の後ろまで引き、大袈裟に振りかぶって彼の顎にストレートを一発見舞った。
 芹沢は大きく一歩下がり、「……ってぇ……」顎を押さえた。
 その様子を呆然と眺めている樋口に振り返り、鍋島はにこにこと笑いかけた。
「これでいいですかね。あなたがここでやると、公務執行妨害とか暴行とか、どっちでもええけどとにかく現行犯逮捕になるんで」
「……は、あ……」
「そうなるとめんどくさいでしょ。

に」
 そして鍋島は拳をさすりながら冷たい真顔で樋口を見た。「仕事、増やさんとってよ。帰るとこなんやから」
 樋口は俯いた。この刑事に守られたのだと分かって、悔しくて唇を噛んだ。
 鍋島は芹沢に振り返り、「おつかれ」と言うとさっさとエントランスに向かって行った。




※「しゃーしか」……しゃーしい(博多弁)。面倒くさい。
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