2 信頼か、忖度か

文字数 3,358文字



「――自分の仕事をよく分かっているつもりですがね」鍋島は言った。「よそでは喋りませんよ」
 福井は頷いた。「結核に(かか)りましてね」
 結核か。少し拍子抜けした――と言っては大変不謹慎だが、それよりももっと重い、不治の病にでも罹ったのかと思った。
 そんな鍋島の思いを察したかのように、福井は続けた。
「その感染による卵管閉塞が生じたんです」
「ランカンヘイソク?」
「排卵のとき、卵子が通って精子を迎える、あの卵管です。受精したあともその管を通って受精卵が子宮に入る。そこが狭くなって、通りが悪くなるらしいんです」
「はあ」詳しいことは分からないが、大変なことのようだ。
「結核も、治るには治るが時間がかかるし、卵管閉塞の治療も苦痛を伴うそうです」
「そうなんですか」
「おまけに筋腫までできてしまって、その摘出手術を繰り返すうちに……その……不妊に」
 鍋島は気が滅入ってきた。しかし福井はお構いなしに話す。
「仕事中に何度も倒れたことがあったらしいんです。でもそのときの上司が厳しい人物で……ヒットを飛ばす彼女がいなくなると他紙に追い抜かれるって、休ませてくれなかったそうですよ。自分の出世と天秤にかけていたんでしょう」
 福井は大きくため息をついて、悩ましく首を振った。「――で、会社としてはその負い目があるのか、パワハラ被害で訴えられたり暴露されたりするのをを恐れてか、フリーになった彼女の記事を面倒見るように、ウチにそれとなく根回しして来たんです」
「佐伯さんは、そのことを知っているんですかね」
「さあ、どうでしょうね。けど優秀な彼女のことだから、何も疑っていないということはないと思いますよ」福井は肩をすくめた。「それでもあえて受け入れた、ってことでしょう。ジャーナリストとしては大きな矛盾を抱えることになりますが、彼女だって生きて行かなくちゃならない。会社はそこに付け込んだんじゃないですか。その上司は、社内で力を持っていましたから」
 どこにでもそういうクズはいるものだ。鍋島は話題を替えた。
「佐伯さんはどうして、記事にするまで何も語らなかったんでしょうね。ラターと呼ばれる方は、皆さんそうなんですか?」
「まあ、それぞれですけど――そりゃあ誰にでもぺらぺらと喋るようなことはしませんが、デスクくらいには話しますね。そこでさらに内容を詰めて、良い記事になることもままあります」福井は足を組んだ。「彼女が何も話さなかったのは、ライバルを出し抜いたり出し抜かれたりの、ブン屋時代の名残りじゃないかって、うちの連中は言ってましたけど」
 鍋島は頷いた。「彼女の書く記事に、何か特徴や傾向は見られましたか」
「そうですね――だいたいは近畿地区、もうちょっと広く見積もって関西一円で起こった出来事や事件を記事にしていることが多かったですね。あとえ社会問題になっているような大きなテーマを取り上げるにしても、真正面からメスを入れるんじゃなくて、それを取り巻くごく小規模なグループからの視点で見るっていうのが、一つのパターンではありました」
「トレンドは追わないということですね」
「その通り。ですから、誰かのインタビューを取るにしても、マイナーな人物に絞っていたと言っていいでしょうね。ま、それがここが首都圏ではないという、地方のハンデがあるのかも知れませんけどーー僕自身は彼女がもう、そういう最先端と言われる領域に嫌気がさしたんじゃないかと思ってるんです」
「ネタとしては、具体的にどの手のものが多かったんですか? 政治ネタ、社会ネタ、経済、芸能・スポーツなどいろいろあると思いますけど」
「そりゃあ、ブン屋時代の所属から言って社会ネタが圧倒的に多かったですね。その中でも――そう、刑事事件の被告人の取材が多かったかな」
「事件の被告人?」
「ええ、それもほとんどが殺人事件でしたね。犯人逮捕のずっとあと、つまり、公判開始前後に取材を始めて、結審か、あるいは判決まで見守ってから記事にするんです。取材としては結構長丁場ですよ」
「ほとんどの媒体が報道しなくなる時期ということですね」
 福井は誇らしげに微笑んだ。「それが雑誌の役目ですから」
 鍋島は手帳を閉じた。「お手数でなければ、佐伯さんが今まで書かれた記事を読ませてもらいたいんですが」
「データはあるとは思いますが……彼女の記事だけ、となると難しいかも知れませんね。バックナンバーを持って来ましょう」
 福井は言うと立ち上がり、部屋を出て行った。

 刑事事件の被告人。それもほとんどが殺人事件。渡りに船、こっちの領分だと鍋島は思った。
 それにしても、佐伯葉子は編集部の人間を信用していなかったのだろうか。それとも自分の書く記事に絶対の自信があったのか。福井は記者時代の名残りだと単純な解釈をしているが、鍋島にはそれだけには思えなかった。確かに、フリーランスの身なのだから記事をどこの雑誌に掲載しても構わないのだし、そういう場合に備えて一誌だけを相手に最初から手の内を全部見せてしまうようなことは避けていたのかも知れない。それにしても、編集長さえほとんど知らないとは――しかも今までずっとそうだったという。いくら親会社での実績があり、そこから直々の推薦を受けたライターだとは言え、ずいぶん信用されたものだ。いや、それともその逆か。つまり佐伯葉子はいわば天下り的性格を持つライターだ。どんなものを書いて来ようと、どうせボツには出来ないのだから、あえて自由にやらせていたのではないか。それくらいの心構えでいると、案外彼女の記事は出来が良く見えたのかも知れない。そう考えるのは穿ちすぎか。
 
 そこへ静かにドアが開いて、芹沢が戻って来た。鍋島を見ると軽く頷き、隣に座った。
「どうやった」
「今夜、リッツカールトンのロビーラウンジに八時。『ビルボードライブ』に行きたいんだってよ」
「誰がおまえのナンパの成否を訊いてる。聞き込みの成果や」
「そっちはイマイチだな」芹沢は首を捻った。「彼女、ここの連中とはそう深い付き合いは無かったみたいだぜ。二年ほど前までいた女性記者とは仲が良かったらしいけど、結婚して海外のどこかに行っちまったって」
「カナダや」
「何だ、知ってるのか」と芹沢は肩をすくめた。「こっちはそれだけ。そっちは?」
 鍋島は福井から聞いた話を芹沢に説明した。
「――今回の取材対象も、きっと殺しだぜ」
 鍋島の話を聞き終わったあと、芹沢は悟り切った表情で言った。「荒っぽいやり方で脅迫するようなやつが関わってるんだからな」
 そこへ福井が戻って来た。両手で数十冊の雑誌を抱え、肩を使ってドアを開くと、今度はそれを足で閉めた。
「お待たせしました。いや、バックナンバーは全部揃ってるんですが、その中から彼女の記事が載っているものを選び出すのに手間が掛かっちゃって」
「お手数かけて申し訳ありません」
 いいえ、と福井はテーブルを回ってきて芹沢を見た。「あ、どうも」
「芹沢です」
「これで全部だと思います」
 福井は雑誌をテーブルにどんと置くと、立ったまま鍋島を見て言った。「それで、申し訳ありませんが、僕はここで失礼させていただいてもよろしいでしょうか」
「あ、最後に一つ。福井さんはサカグチイクヨ、ミネオショウイチ、ウチダケイスケという人物に心当たりはありませんか?」
 福井は腕を組んだ。「サカグチイクヨ、ミネオ……」
「ショウイチ。それにウチダケイスケです」
「……心当たりはありませんね。申し訳ない」
「いえ、結構ですよ。どうもご協力ありがとうございました」
「コピーを取りたいときには、お願いすればやってもらえますか?」芹沢が訊いた。
「あ、どうぞこれ全部お持ち帰りください」
「いいんですか?」
「ええ。別にありますから」と福井は笑みを浮かべた。「それじゃ、僕はこれで」
「失礼します」
 福井が出て行き、二人は目の前の雑誌の山を眺めて大きなため息をついた。
「どうするよ」
「持って帰って調べなしゃあない。近いからって、歩いて()んで良かった」
 そう言うと鍋島は積まれた雑誌の半分を自分の前に引き寄せた。芹沢は残りの十五、六冊のうちのわずか四冊ほどを右手で掴んだだけだった。
「え、何でや」
「まだ引き攣るんだ」
 芹沢は包帯を巻いた左手を上げてにやりと笑った。

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