1 立ちはだかる男

文字数 4,325文字


 五月も最後の週を迎えた、今年もまた快晴の一日だった。

 東口から駅を出て、住宅街の緩やかな坂をのんびりと上ったり少し下りたりしながらいつもの花屋を訪ねた。出迎えた店主は年に一度この日に現れる彼の顔を憶えていて、名乗らずとも「ああどうも久しぶり」とでもいうような表情で会釈すると、奥の部屋からあらかじめ電話で頼んでおいた花束を持って来て、彼に向けて見せてくれた。
「――今年はね。いろんな種類が入荷してて――少し変わったものも入れておきました」
 定番のオレンジ色に黄色の縁取りの八重咲のものを中心に、濃緋赤色の一重咲のもの、コスモスに似たレモン色の小花、そしていっそう目を引く鞠のような大輪の種類まで、それらがちょうどバランスよく組み合わさって一つの花束ができていた。一般的に、この花は花壇やプランターでの地植えかアレンジメントフラワーに使われることが多く、この花だけで花束をというのはあまり請け負ったことがないと、最初に注文に訪れたときに聞かされた。しかし彼はそこをあえてお願いしますと言って頭を下げた。この花は――彼女の好きだった花だから、命日にお墓に供えてあげたいのだと――。
 すると店主は黙って頷き、額に汗を滲ませながら黙々と花束を作ってくれた。彼はその様子を眺めながら、知らないあいだに涙を流していた。
 三年ほど前、この花の名をタイトルにした歌が爆発的にヒットしたときは、辛くてテレビやラジオを点けられなかった。今はもうそういうことはなくなったが、それでも街で不意にその曲が流れてきたときは、胸の中心が少し痛む。申し訳ないが歌っているアーティストも苦手になった。
「今年で――何年になりますか」
 レジでお釣りを取り出しながら、店主は言った。
「九年です。亡くなってからは十年」彼は答えた。
「九年……もうそんなに」店主は目を細めた。「早いですね」
 彼は困ったように微笑んで首を傾げた。「僕には長かった」
 そうですよね、すみませんと店主は頭を下げ、お釣りとレシートを渡してきた。

 店先で花束を受け取り、「いってらっしゃい」と言う店主のいつもの言葉を肩越しに聞いて、彼はまた坂を上った。花屋に寄ったことで結果的に回り道をしながら、それでもいつものように、人生最悪のあの日のこと、そのあとの地獄のような約一年、そして暗い闇の中を歩いているようなそれ以降の日々を思い巡らせて目的地の入口までやってきた。見渡す限りの青い空。あの日と同じだった。

 車一台が通れるくらいのなだらかな坂道を歩いて、管理事務所の前に差し掛かったときだった。斜め向かいの寺の門塀に立っている男に目がいった。

 ――あまりにも意外な人物だった。

 瞬時に頭をフル回転させた。なんで、あいつが。偶然ということは絶対にない。俺のことを待っていたのだ。そう言えば今あいつが住んでいるのは駅の反対側のエリアだ。土地勘はある。だからってどうやって今日、俺がここに来ることが分かる?――ああそうか、なるほど。
 すると相手は、手に持ったスマートフォンからちらりと視線を上げて彼を確認するとまた画面に目線を落とし、一度だけタップすると上着の内ポケットにしまいながらこちらに近付いていた。彼は静かに怒りを湛えてその様子を見守った。


「お疲れさまです」
 目の前まで来ると、二宮は明るい声で言った。
 芹沢は黙って彼を睨みつけ、そのまま速足で歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」二宮は慌てて追いかけてきた。「朝からずっと待ってたんですよ」
 芹沢は立ち止まって振り返った。「……また違法行為(ハッキング)か」
「言いっこなしですって。時間の無駄です」二宮は平然と答えた。
「だったら帰れ。これ以上無駄にするな」
「そういうのも無駄ですよ」二宮は腕組みしてほくそ笑んだ。「僕は、帰らない」
 芹沢もふんと笑った。「……なるほど。俺に殺されてえわけだ」
「悪い冗談ですね。お寺とお墓の前で」
「ふざけてんのはそっちだろ――」
「とにかく」二宮は強く言った。「帰らない。あなたに話がある」
 そして二宮は芹沢が持っている花束に目線を移し、手を差し伸べた。「どうしますか。先に話してもいいし、お参りを済ませてからでもいい。ただしその場合はお墓までついて行きますよ」
 意外にも強気の二宮を見て、芹沢は小さく舌打ちした。それでも腕づくで拒否すればとりあえずは済むと分かっていたが、同時に相手がわざわざここまで来ているという事実が、今日はやり過ごしたとしてもいずれまた同じことが繰り返されることを芹沢に分からせていた。
 とはいえ二宮の用件まで分かっているわけではなかった。確かにここ最近で互いの距離は縮まった感覚はあるが、相手の行動や考えていることを予測できたり、言い当てられたりするほどの仲ではまだない。でも、だからこそはっきりしているのは、間違いなくそれが横浜(ここ)絡みの用件であるということだ。横浜――つまりみちるのことだ――それを除いて自分が相手と共有する事案(テーマ)は今のところ見当たらない。
「……分かったよ」
 芹沢はため息をついた。そして管理事務所の隣に設置された給水施設に振り返り、「花が弱る。水、汲んできてくれよ」と言った。
「そのあいだ逃げないでくださいよ?」二宮は目を細めた。
「どうせ無駄なんだろ?」芹沢は肩をすくめた。「観念してやるよ」
 二宮は頷き、給水施設に行ってバケツに水を汲んだ。戻ってきて芹沢に渡そうとすると、芹沢はその中に花束を入れ、「おまえが持て。ひっくり返すなよ」と言って上着のポケットに両手を突っ込み、顎をしゃくって二宮を見た。
「さあ話せ」
「え、ここじゃ話し辛いですよ。道端だし、邪魔になる」
 二宮は言って、目の前に広がる墓地を見渡し、その一角にある庵のような形をした休憩所を指差した。「――あそこにしましょう。ちょうど誰もいない」
 二宮はすたすたと歩きだした。芹沢はそのあとに続き、バケツが揺れたことで水が零れるのを見て「揺らすなよ。零れてんじゃん」と文句を言った。

 休憩所に着くと、中のベンチに『危険 故障中』と貼紙がしてあった。
「壊れてんぞ」芹沢は言った。
 二宮は黙ってその貼紙を取り、躊躇なく座ると何度かベンチを叩いて芹沢を見上げた。「大丈夫ですよ」
「……おまえの仕業か」芹沢は小さくため息をついた。「用意周到だな」
 二宮は得意気な笑顔を浮かべて貼紙を丸め、そばの屑籠に放り投げた。
 そして足元に置いたバケツの花束を見下ろすと、小刻みに頷きながら言った。
「可愛い花だ。全部同じ花なんですね」目線を芹沢に移す。「その女性(ひと)の好きな花ですか」
「おまえ――」
「最初に言っておきます」と二宮は手を挙げた。「僕が今日ここに来たことは、警部は何も知りません。もちろん話の内容も知らないし、僕が

知ったという事実にも、おそらく彼女は気付いていません」
 二宮は少し身体をずらして芹沢に向き直った。「すべて僕の一存です」
 芹沢は小さく頷いた。「でないと来れねえよな」
 ええ、と二宮は笑った。「それと、ここで待ってたのは、いわゆる

をしてあなたの位置情報を手に入れたとかではありません。今日がどういう日か分かっていたからです。つまり、あなたは今日必ずここに現れる。でも時間までは分からなかったから、結構早くから待ってたんですよ」
 知るか、と芹沢は顔を背けた。そしてそのまま目の前に広がる景色を見て言った。「それで? 何を、どこまで知ってんだ」
「――確かに、きっかけは警部でした」二宮は言った。「あれは――一か月ちょっと前のことでした。捜査に出ようとして車に乗り込んだときに、警部のスマホに電話の着信があって――相手を確認した警部は車を降りて、少し離れたところで話し始めたんです。その警部の深刻な様子が、何と言うか……ただ深刻なだけじゃなくて、どこか怯えていると言うか、悲痛と言うか」
 そのときのことを思い出しているのか、二宮は小さく首を振った。「それで――僕は咄嗟に調べました。警部に電話を掛けてきた人物は誰なのか。厳密に言うと、それこそ

で、

に調査を依頼したんです」
 芹沢は面白くなさそうに唇を歪めた。しかしすぐにまあいいか、と肩をすくめ、二宮に振り返った。「それで? 相手は誰だったんだ」
「県警本部の人間です。とりあえず今は――S氏としておきます」
「なるほど」と芹沢は頷いた。二宮も満足げに頷く。そして続けた。
「四カ月ほど前――一月の半ばだったかな、管内で殺人事件が起きて、署に

が立ったんです。事件は発生の二日後に犯人が逮捕されて、極めて早期に解決した事案だったんですけど、状況そのものはかなり悲惨でした。アル中の上にクスリまで打って完全な錯乱状態に陥った男が街をうろついて、出くわした人たち数人を包丁で刺した。一名が一週間後に亡くなって、一名が今も意識のない状態。けど捕まった男は、刑務所ではなく医療施設に送られることになるでしょうね。責任能力の無い人間は何をやっても罪に問われることがないという、

法律のおかげです。我々――特に芹沢さん、あなたにとってはまるでありがたくない法律です」
 二宮は言うと芹沢の横顔を見た。一切の感情を読み取ることができない、まったくの無表情だった。二宮はまた続けた。
「そのときの帳場に、捜一のベテラン刑事がいたんです。当然のことですが経験と知識が豊富で、経験の浅い警部や僕は大いに勉強になりました。警部に掛かってきた電話はその人物からだったんです」
 二宮は小さくため息をついた。「警部の様子が気になった僕は、早速その刑事に連絡を取りました。たった二日の帳場でしたが、一緒に仕事をしてそこそこ親しくなっていましたから、僕のことも憶えてくれてました。それで――会ったんです。警部が休みを取って、大阪へ行っているあいだに」
 芹沢はゆっくりと振り返って二宮を見つめた。瞳に非難の色が滲んでいた。
「出しゃばるな、と言いたいんでしょ。でも結果としてそれで良かったと思ってます」
 そう言うと二宮もまた咎めるような表情で芹沢を見た。お互い、静かに睨み合う。風が吹いて、花束の包装紙がガサガサを音を立てた。
 やがて二宮が言った。
「――芹沢さん。あなたは間違ってる」
「……そんなの分かってる」芹沢はふんと笑った。「ほっとけ。おまえに関係ない」
「もちろん関係ない。だけど僕は警察官です」二宮は芹沢に向き直った。「だから、知った以上は止めなきゃならない。あなたが――

殺人者になろうとしていることを」
 芹沢の眼に、今度は明らかな怒りが、まるで色のついた水滴のように広がった。

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