8 因縁の相手、その息子

文字数 3,457文字

 鍋島の父親が捜査二課にいたのは、今からだいたい十七年から十二年ほど前のあいだだ。配属になった最初の年に母親が亡くなったから、鍋島はそれをよく憶えていた。
「何があったんですか、父と大牟田さんのあいだに」
「今から十四年前の冬やった。北区の銀行に勤めてる男が自宅で殺された。男の遺体に争った形跡がなく、犯人は男と顔見知りやという筋立てがなされた。男の生活状況や仕事ぶりを調べろということになって、そこで捜二の登場や。分かるやろ。被害者は銀行員やからな。経済犯罪が絡んでる可能性がある。二課から、親父さんが率いる一つの班が捜査本部入りして、我々一課に協力することになったんや。当然、一課も二課も、犯人(ホシ)を挙げるのは絶対に自分らやという意識が働く。ようある話や。所轄と本部が火花を散らすのと同じことや。とりわけ、わしら一課はその気持ちが強かった。何と言うても殺人は一課の専門やったし、それを詐欺やの横領やの、あるいは選挙違反やのと、電卓叩いて起きる事件を扱うてる二課の連中に挙げられてるようでは一課の沽券にかかわると、わしら課長にどやされた。それがあったからやろうな。有力容疑者が浮かんだとき、一課の若手が三人、上の指示なし、もちろん令状なしでその容疑者のアパートに踏み込んだんや。わしもその中の一人やった。令状なしではあとで不味いことになると考えへんかったわけやないが、とにかく二課に手柄を持って行かれとうないとしか頭になかった。二課の連中にも内緒で踏み込んだんや。結果的にそいつは犯行を認めた。課長は部下の無謀な捜査に青うなったけど、そのとき、犯人が逃亡の準備をしていたという幸運もあって、緊急逮捕で決着させようということになった。これで一課の勝ちや、面目が維持できたんや。わしらは実に誇らしい気分やった――」
 大牟田はそのときのことを思い出すかのように目を細めた。
「ところがや。そのことを知ったおまえの親父らが、二課長と共に刑事部長に直訴した。わしらにはひとことの抗議もせんとや。令状なしの違法捜査はもちろん、自分ら二課に対する明らかな裏切り行為やと言うたらしい。こんなことばかりされると、今後は一課への協力はでけんと言うて部長に対処を迫って、その事件の以降の捜査はすべて二課の主導で行えるように仕組みやがったんや……!」
 大牟田は苦々しく吐き捨て、そして急に肩を落とした。「当然、手柄は二課のもんや。その結果、専門外の事件を見事に解決したとして、連中は表彰まで受けた。逆にわしらは部長にこっぴどく絞られた。班長は左遷や。わしらは表向きには始末書を書かされただけで済んだけど、減点方式の組織の中では、出世の道は大きく遠のいた。当時巡査長で、昇進条件を満たしてたわしが巡査部長になれたのは、それから七年後、つまり今から七年前のことや」
 鍋島はいくぶんふらついた足取りで、そばの植え込みブロックの端に腰を下ろした。麗子がゆっくりと歩み寄る。
 大牟田は二本目の煙草に火を点け、長い煙を吐くと鍋島を見つめて言った。
「――その鍋島警部の息子が、まさにちょうど七年前に府警に入ったのは知ってた。ああ、その頃には警部はとっくに警視殿にお成りやったな。息子が制服警官を一年かそこらやっただけで巡査部長に昇進したというのも、当時わしと同じ処分を受けた刑事から聞いた。その頃には、こっちもいろんな経験を積んだあとやったし、何年も前の屈辱的な思いはすっかり薄れてたから、知り合いの息子が警察官になった程度にしか受け止めてへんかった。――それがや。この前、おまえがわしの前に現れた。そしてこともあろうにわしが解決した事件にいちゃもんを付けた。それどころか、こっちの再三の警告にもかかわらず、事件を洗い直し始めた」
 鍋島は足下の一点を見つめたままだった。大牟田は続けた。
「長いこと胸の奥にしまい込んで振り返らへんようにしてた怒りと憎しみが、一気に湧き上がってきた。親子で馬鹿にされてたまるかと思た。ここで会うたが百年目や、絶対にこの息子に苦汁を味わわせてやると、そう決心した。捜査には自信があった。いや、今でもある」
 大牟田は鍋島の前に立ちはだかった。鍋島は怯えたような目で大牟田を見上げた。
「あんたはさっき、処分は怖くないて言うた。同じ処分をされるにしても、最後まで納得のいく捜査を続けることが自分にとっては大事やて、そう言うたな。それは、処分の怖さを分かってないもんの言うことや。わしみたいに、たった一枚の始末書のために七年も昇進でけへんだ人間は、そんなこと絶対に言わへん。いや、怖くて言えへんもんなんや。もっと言うたら、警察OBである親の加護というありがたいバックなんてないほとんどの警察官はそうや。厳しい職務規定に耐え、その中での重労働に耐え、さらにはその報酬の低さに耐えて、それでやっと一つ階級が上がるんや。それでもおまえの親父みたいなやつに邪魔されたら、一瞬でその苦労が泡となって消える。たいがいの警察官はみなそうや。おまえらみたいな、思い上がった世間知らずとは違う」
「……階級を上げることが警察官の職務なんですか。犯罪を未然に防ぎ、事件の犯人を挙げて、社会の安全と平穏を保つことが、本当の職務と違うんですか」鍋島は言った。
「それが世間知らずと言うんや」と大牟田は鼻白んだ。「説明が足らんようやな。なんで階級を上げる必要があるのか。偉くなって威張り散らしたいからやない。家族を養うためや。女房を、子供を、年老いた親を食べさせるために、稼がんとあかんからや」
「そんなこと――」
「しょうもないことやと思うやろ? そら、そっちにはそのお嬢さんみたいに、綺麗で頭のええ相手がいてるからや。その人の人生に対して何の責任も――影響すら感じてへんやろな」
 麗子が大きくため息をついた。かろうじて反論を我慢しているようだ。
「これだけ言うてもまだあの事件を追うつもりなんやったら、わしももう何も言わん。その代わり、必ず結果を出せよ。もし何の成果も上げられへんようやったら――まあそうに決まってるけど――そのときはどんな事態が待ってるか、よう覚悟しとくんやな。たかだか越権行為やと軽んじてると、えらい後悔することになるぞ。あの生意気な相棒にも言うとけ」
「分かってます」
「分かってたらええ。わしもこれ以上何も言うまい。時間取らせたな」
 そう言うと大牟田は麗子に顔を向け、「せっかくのところを邪魔して申し訳なかった。堪忍してや」と頭を下げ、煙草を携帯灰皿に入れて見せると、さっさと来た道を戻って行った。
 鍋島は大牟田の後姿が街並みに混ざっていくまでじっと見つめていた。着たきり雀の古ぼけたスーツが、そのときだけはなぜかさまになって見えた。
 鍋島は髪を掻き、そのままその手で顔をざらっと拭うと、身体を折って膝に両腕を置いて大きく息を吐いた。涙は出なかったが、胸から鳩尾(みぞおち)のあたりが締め付けられるように詰まって、もう少しで吐きそうだった。
 鍋島の背中に手を添えて、麗子はゆっくりと撫でた。鍋島は黙って頷いた。
「いろいろ言われちゃったわね」
「……うん」鍋島は小さく笑った。
「あたし――勝也のお父さまは間違ってなかったと思う。あなたのお父さまだからって言うんじゃないのよ。確かに、結果としてはあの刑事さんたちには辛い処分を負わせることになったけど、彼らが違法捜査をしたことには違いはないんだもの。それに、お父さまはことが大きくならないように最大限の努力をされたんだと思うわ。違法捜査の事実が露見するのが起訴後になってたら、始末書や左遷どころでは済まなかったはずよ。あの人だって、今頃刑事をやってなかったかも」
「……そうやな」
 麗子の言うことも間違いではないだろうと鍋島は思った。ただ、その話を聞かされて、今、自分が思うことは、刑事部長に直訴する前に、父親にはひとこと、一課の刑事たちに直接抗議して欲しかったということだ。それはまさに今、大牟田が西天満署長に抗議するよりも先に自分たちに警告してきているのと同じことだ。そうすれば大牟田たち一課の刑事も、父親たちに何らかの弁明や謝罪をしたはずだ。それをあっさりと上層部(うえ)に報告してしまうとは、堅物の親父らしいやり方やなと鍋島は改めて思った。
 やがて鍋島は立ち上がり、麗子に向き直った。
「……なあ、頼みがあるんやけど」
「なあに?」
「今夜は、俺んとこに来てくれるか」
「今さらなに?」と麗子は腕を組んで微笑んだ。「お安い御用よ」



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み