4 父の呪縛

文字数 2,711文字


 警察官になった動機を考えると、すぐには思い浮かんでこなかった。
 大半の人間は父親の影響だろうと言った。否定はできない。警官の家に生まれ、そこで育ったのだから、警官の家庭しか知らないのだ。警官である父親と警官の妻である母親に育てられた子供は、医者の家庭を知らないし、冒険家の生活も想像できない。警官の影響を受けて当然である。そういう意味では、父親の影響がないとは言い切れなかった。
 しかし、父親のようになりたいと思ったことは一度もなかった。
 ろくに家に帰らず、たまにいるかと思えばいつも苦虫を噛み潰したような顔で酒を飲み、庭先に出て煙草をふかしていた。息子や娘と

で話すことなど皆無に近かった。むしろ家族との一切の接触を拒否しているようなところが父にはあった。母が重い病に倒れたときも、それは同じだった。あと数日がやまと言うときになって初めて休暇を取り、それも結局は一日で返上して、また仕事に戻った。その結果、旅立つ妻の手を握ってその最期を看取ってやることもなく、弔いが終わると、何ごとも無かったかのようにまたあの暮らしへ戻っていった。
 こいつは鬼だ、と思った。社会正義のため、あるいは家族のために働いてきたんじゃない。自分のためだ。もっとはっきり言うと、人を捕まえるのが好きなのだ。それだけが自分の生まれてきた意味だとさえ思っているのだ。母も自分たち兄妹も単なる気休め、いわばおまけだ。だからこんなに冷たくできるのだ。そうとしか思えなかった。絶対にこの男のようにはならないと決めたのはそのときだった。
 警察官になることを選んだのは、むしろ父親のような警官を否定するためだったのかも知れない。自分なら、あんな警官にはならない。一流の警官、一流の家庭人になってみせる。その姿を見せることで、世の中から悪をなくすためだとか言って最も身近な家族を不幸にするような人間は、警察官になる資格など無かったのだと分からせてやって、そして今までの人生を悔悛させてやるのだと、そう思ったのかも知れない。ただ、今になって考えればそんな思いが浮かんでくるだけで、実際に警察官になることを決めたときはもっと曖昧で、他に思いつかなかったからただなんとなく、というのが正直なところだった。
 ところが、警察官になって初めて気づいたことは、馬鹿げたことだが自分は父親がどんな警官だったのかをまるで知らないということだった。自分が今まで持っていた父親の警官像は、すべて家庭での父から得たイメージだった。家庭人としては最低だと思っていた父を、そのまま警官としての父にも当てはめていたのだ。仕事でいろいろと迷いが出て、こんなとき、親父だったらどうしてたんだろう、あの父のようにならないためにはどうすればいいだろう、そう考えたとき、何も答えが出てこないことに気がついた。そしてとどのつまり、親父はどんな警官だったのだろうという、そんな情けない疑問だけが残ったのだった。
 
 この前大牟田に会ったとき、鍋島は父親を思い出した。
 父親も大牟田と同じく本部勤務が長かったため、つい父親のことが頭を過ったのだった。親父もこんな刑事だったのだろうか。自分が所轄署勤務や一係にこだわるのは、父親が二十年近くも本部捜査二課に勤務していたからなのは分かっていたが、あのとき大牟田と向き合って、自分の中で所轄署の刑事としての意識があらためて強くなったのを感じた。それと同時に、父親がもし大牟田のような刑事だったのだとしたら、今こそ自分が父に見せつけてやりたかったこと、俺はあんたとは違うのだということを、父親の代わりに大牟田を屈服させることで証明してやろうと心に誓ったのだった。それができたとき、自分は初めて父親の

から解放される。警察官と言う仕事が、自分の職業であって父親の職業ではないと晴れて思えるのだ。鍋島はそう確信していた。


 その日の午後、鍋島は一人で岡本信哉の交友関係の調査に向かった。別に芹沢が邪魔だったわけでも、二人で動いて大牟田に嗅ぎつけられるのを避けたかったわけでもない。この事件の捜査が自分にとっては単なる仕事の一つではなく、刑事の父親との決別だと考えてしまう以上、どうしても一人で動く時間が必要だったのだ。芹沢は岡本とバイクの修理のことでトラブルになった人物の特定に動いている。それに芹沢は、鍋島のこんな気持ちを呆れながらも理解してくれていた。

 アメリカ村にある地下の練習スタジオに、村上(むらかみ)(まさる)はバンド仲間とたむろしていた。
 地上から狭い急勾配の階段を下りて行くと、赤いペンキを塗った鉄のドアが階段と同じ幅で行く手を阻んでいた。ドアの目の高さの位置には『スタジオ・L』と書かれたプレートが貼り付けてある。鍋島は中に入り、受付カウンターらしき机の前に座っている男性に訊いた。
「あの、村上さんがここで練習なさってると伺ったんですが」
「村上? ああ、ユウのことか。その奥の第二スタジオにいますよ」
 前髪で左目が隠れた男性は鍋島の名前も訊かずに左手にある黒いドアを指差した。
「ありがとう」
 鍋島は示されたドアへと向かった。重い防音ドアで、右腕全部を使って把手を回し、少しの隙間が空いた瞬間にエレキギターの大音量が押し寄せてきた。そして素早く中に入ると、こんな音が外に漏れるとえらい迷惑だと言わんばかりに強くドアを閉めた。
 八帖ほどの部屋に、五人の人間がそれぞれに楽器を手にしてこちらを見ていた。
「だーれ?」
 すぐそばのキーボードの前に座った髪の長い女性が言った。
「鍋島と言うもんやけど、村上さんは?」
 黒いギターを肩から提げ、胸いっぱいに誰かの顔がプリントされたTシャツの背の高い男がゆっくりと顔を上げた。その拍子にTシャツの皺が広がり、プリントの顔が、70年代に活躍して『クイーン・オブ・パンク』と称されたアメリカのミュージシャンだと分かった。
「俺やけど」
 男はガムを噛み、気怠そうな眼差しで鍋島を見つめた。これが連中のポーズだ。
「殺された岡本信哉さんのことで、訊きたいことがあるんやけど」
「……あんた、誰?」とユウは言った。
「鍋島。鍋島勝也」あえて名前だけを名乗った。
「警察?」そう言うとユウはふっと笑った。「まさかな。あ、郁代ちゃんの男か?」
「……まあ、そんなとこかな」
「郁代ちゃんが自分は信哉を殺してないって言うてるのは知ってるけど、あの日のことは俺は何も知らんよ」
「分かってる。けど、他に訊きたいことがあるんや。ここでは何やし、ちょっと外へ出られへんかな」
 ユウは肩をすくめた。隣のドラム・セットの男に振り返ると、金髪のドラマーは頷いて言った。
「十五分休憩」

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