5 胸糞悪い話(後)

文字数 4,867文字


「――おそらく、ご想像の通りです」
 慶子は心底失望したというようなため息をつき、がっくりと肩を落とした。「膨れ上がる借金の返済に追い詰められた啓介さんを助けるために、芙美江さんは、会社のお金を――」
「横領したのね」仁美は低い声で言った。
 ええ、と慶子は頷いた。「当時、芙美江さんは部長のアシスタントの仕事を担ってて、経費申請されるすべての書類に部長の承認印を押せる立場にあったそうです。だから自分なら疑われずにうまくやれるって。それで彼女が架空の伝票を作って、五百万引き出したんです」
「一度に五百万を?」
「いいえ、さすがにそれはできません。高額の申請は稟議書を作成した上に部長の決裁が必要ですから。少額の架空伝票を何枚も作ったんです」
「芙美江さんは仕事ができる分、上司の信頼を得てたのね」
「そうだと思います」
「彼女が後に偽名を使ったのは、横領が露見したときに備えて逃げるまでの時間稼ぎだったのかも知れないな。石川さんが心当たりがあるって言ったのも、そういうことですよね?」
「そうです。そして、そうなったときに彼はおそらく芙美江さん一人に罪を擦り付けるつもりなんだと思います。どういうことなのかはっきり分かりませんが、『僕がやったって証拠は残ってない』って言うてましたから。芙美江さんもそれが分かってたのかしら。それで偽名を――」
「……何て卑怯な男」
 仁美は吐き捨てたが、すぐに慶子に振り返って言った。「あ、ごめんなさいね」
「いいんです。もうあの人と別れる決心がつきましたから」
 そう言うと慶子は俯いた。「一時は、このまま彼と結婚しようと思ってたんです。彼がやったって証拠が残ってないんやったら、別にいいかなって、安易なことを。最初に言いましたように、彼が結婚するには適格者やという思いがありましたし。でも、本当は逆ですよね。昔の恋人に対してそういうことをする人が、私に対してはそうしない保証なんてどこにもないって考えると、自分がこのまま結婚しようとしてたことがいかに馬鹿なことか、今さらながらに分かってきて……それで佐伯さんにお話しする決心がついたんです」
「じゃあ以前に葉子に取材を申し込まれたときは、まだ彼と結婚するつもりでいたのね」
「ええ。あのときは彼からこの話を聞く前でしたから」
「でも、何だって内田は今になってあなたに打ち明ける気になったんだろ」
「私がいろいろとしつこく問い詰めたからです。佐伯さんから『坂口郁代さんが逮捕された件で、会って話が聞きたい』と言われて、断ったものの気になっていたんです。もしかしたら峰尾部長が嘘をついていて、彼は口裏を合わせているのかも知れないって思って。峰尾部長ならやりかねないと思いましたし。そうしたら私、啓介さんはどうして自分の恋人だった女性を奪った男に、いまだにああして忠実なんやろうと、遅ればせながら強く疑問に思えてきて。それまでは、会社組織で生き抜くためにはそういうことにも耐えて行かないとダメなのかなって思ってましたけど、そのうち、耐えて仕えているというより、何かに怯えているように見えてもきて。それで私、これはきっと裏に何かあるのだと思いました。それで、思い切って訊いてみたんです。どうして峰尾部長にそこまで従順なのって。あの人はあなたの恋人を強引に奪った人と違うのって、そこまで訊きました。正直に話してくれないのなら、結婚なんてできないと言ったんです」
 芹沢と仁美は黙って聞いていた。
「――そうしたら彼、やっと打ち明けてくれました。今の横領の話を」
 慶子は言うと、寂しそうにふふっと笑った。「峰尾部長はそのことを芙美江さんから聞いて知っていたようです。それで、新しい部署の部長に就いたときに彼を引き抜いて自分の下に置き、その横領の話をちらつかせては彼をうまく利用しているようです。自分は逃げられないところに置かれてる、まるで籠の鳥だと言って、啓介さん、そう言って情けなさそうに笑ってました」
 慶子は一気に話し、ふうっと息をついた。そして疲れたように言った。
「……可哀想だと思うのと同時に、すごく失望して――私は彼の何を見てきたんやろうって思いました」
「許せへん。なんて男、峰尾ってやつは」仁美は憤慨した。
 芹沢が慶子に言った。「実は、去年の暮れに峰尾が高槻で女性と一緒にいたって証言があるんです。俺たちはその女性が芙美江さんだと思ってるんだけど、彼女が高槻にいるようなこと、内田さんから聞いたことありませんか」
「……ありません。芙美江さんが会社を辞めてからのことは、啓介さんもよく知らないそうですし」
「そうですか」と芹沢は頷いた。「ありがとう。言い辛いことをよく話してくれましたね。感謝します」
「……大丈夫? さぞ辛い思いをしたんでしょうね」仁美は慶子の腕に手を添えた。
「平気です。いっぺんに話したら、少しは気が軽くなりましたから」
 慶子は鼻をすすりながら貌を上げ、微かに笑った。「ありがとうございます」
「で、その彼とは婚約解消で話がついたの?」
「おい、そんなことまで訊くことねえって」芹沢が顔をしかめた。
「だって心配やん。もし相手が承知しなかったら、石川さんは余計に辛い思いをすることになるんやから」
「だからって、ここで部外者が何か言ったってしょうがねえだろ」
「……そうやけど」
「――佐伯さん、どこへ行かれたんでしょう」慶子が唐突に言った。
「分からない。けど大丈夫です、必ず戻ってこれるよう、我々が真実を突き止めます」
「……私が取材をお断りしたのがいけなかったんでしょうか」
「まさか。あなたの責任と違うわよ」仁美は激しく首を振った。
 慶子は目を閉じて頷き、顔を上げると穏やかな表情で言った。
「私――彼には失望しましたけど、本当はまだどこかで期待を持っているところもあるんです。知ってることを全部話して、一から出直してほしいって。そしてそのときもしまだ私を必要としているなら、私、彼の力になってあげたいって。無理なことかも知れませんが、そんな風に思うこともあるんです」
 芹沢と仁美はやりきれなさそうに視線を交わした。

 慶子が帰ったあと、二人は葉子の部屋に入って固定電話の留守番メッセージとファックスをチェックした。特に気になる点はなく、相変わらず彼女の行方に関しての手掛かりは見つからなかった。
「――何か、どっと疲れたわ」
 エレベーターを待ちながら仁美が呟いた。
「気が滅入るな。ああいう陰湿な話は」
 芹沢は言うと小さく舌打ちした。「御堂筋沿いにでけえビル建ててるからって、中の連中はすっかり勝ち組のつもりでいるようだけど、やってることは下品なもんじゃねえか。いい年して部下の女を横取りしたり、反社の罠にあっさり(はま)って会社の金ネコババしたりよ。挙げ句は人を殺人犯に追い立てといて、知らんぷりだ。これだから、日本人は国際社会でいつまでも相手にされないんだ」
「単なる僻みなんじゃないの」と仁美は鼻白んだ。
「言ってくれるな。俺は一度だって羨ましいと思ったことはねえよ」
「だいたい元はと言えば、そのヤクザが悪いんやない。それを野放しにしてるのはまるっきり警察の怠慢でしょ。『民事不介入』とか言ってのんびり構えてるうちに、そうやって泣き寝入りしてる市民がゴマンといるのよ」
「じゃあ何かよ。内田が横領を働いたのは警察のせいだって言うのか? ふうん。ってことはよ、誰かが岡本を殺したのも、元を質せば警察の責任なのか?」
「そんなことまで言うてないやん」
 仁美は到着したエレベーターに乗り込んで、中のボタンを押しながら言った。「乗るの、乗らへんの。乗らへんのやったら閉めるけど」
 芹沢は腹立たし気に乗ってきた。
「――石川さん、可哀想やと思わへん? ここへ来るまでにどんなに苦しんだかと思うと」
「男を見る目がねえってことだろ」芹沢は言い捨てた。
 仁美はなんてことを、という表情でゆっくりと芹沢を見上げた。
「……あんたって、ホンマに酷いこと言う人ね。さっきは彼女の前で優しい男ぶってたくせに」
「仕事だよ」と芹沢は肩をすくめた。「知ってることを喋らせるためには、そういう演出も必要さ」
「本気で言うてるの?」
 芹沢はほくそ笑んで頷き、仁美を見下ろした。「イケメン商社マンってのに釣られるような彼女には、効果てきめんだったろ」
「……信じられへん」
 仁美は顔を歪めて首を振った。

 エレベーターを降り、エントランスの自動ドアに近付いたところで、仁美が急に立ち止まった。
「あ――」
「どうしたんだよ」
 芹沢が仁美の視線を辿ると、ドアの向こうに一人の男性が立っていた。男性はセキュリティシステムの部屋番号を押しており、やがてこちらの視線を感じたのか、おもむろに振り返った。
 仁美を見た男性の口が「あ」と言った。
「樋口さん……」
 仁美はぼんやりと言った。ゆっくりと振り返ると、ドアが開いた。
「仁美さん」
 樋口は(やっと会えた)という表情で仁美に近付いてきた。
「純一さん、どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと気になって――」
 樋口は言いかけて、芹沢が仁美の連れだと気付いた。そして警戒の色を浮かべて仁美に訊いた。「仁美さん、この人は――?」
「あ、あの、刑事さんなの」
 仁美は慌てたように言った。――嫌だ、なんでこんなに焦るわけ?
「刑事?」樋口はもう一度芹沢を見た。「ああ、空き巣の件で」
「そう。まだ犯人が捕まらへんでしょ」
 そして仁美は芹沢に向き直り、「樋口さんです」と、それだけではよく分からない紹介をした。
「西天満署刑事課の芹沢です」芹沢は落ち着き払って言った。
「ほ、ほら、もう一度現場を見せてほしいっておっしゃって――」
 仁美は言って恐る恐る芹沢を見た。芹沢は白けた顔でよそ見をしていた。
「樋口です。仁美さんがお世話になっています」なぜか挑戦的だった。
「いいえ。こちらこそ、辻野さんには何かとご面倒をおかけして、申し訳なく思ってるんですよ」逆に芹沢はにこにこ笑っていた。
「まだ犯人が捕まらないんですか?」
「こっちも全力で捜査に当たってるんですが、なかなか有力な手掛かりが無くて、困ってるんです」
「だからって、いつまでも仁美さんを煩わせるようなことはしないでもらいたいな」樋口は不満げに言った。「たかだか空き巣の捜査くらいで、なぜそんなに何度も被害者の協力を求めるんですか。仁美さんだって迷惑ですよ」
「純一さん、違うのよ――」
 仁美は慌てた。樋口には今でも空き巣の件しか話していないので、彼がそう言うのも無理はなかったが、芹沢はそうとは知らない。それなのに、会ったばかりの相手にこんなことを言われたら、きっと彼は反論するだろう。「冗談じゃねえ、この女が捜査に首を突っ込んで出来てるんだ。迷惑なのはこっちだ」と。
 ところが――
「ご迷惑なのは承知なんですが、現場を見せていただくためには、どうしても辻野さんに立ち会っていただかないわけにはいきませんので。本当に何度もご足労かけて、申し訳なく思っています」
 芹沢は相変わらず笑顔を絶やさず、そして極めて低姿勢で言うと、そのままの表情で仁美に振り返った。「辻野さん、今日はありがとうございました」
「……いえ、こちらこそ……」仁美はバツの悪そうな顔で答えた。
「それじゃ、失礼します」
 芹沢は樋口にも会釈をして、マンションを出て行った。
 その後姿を見送りながら、仁美はどういうわけかひどく心細い気持ちになった。樋口がそばにいたし、一人でもないのにとても孤独に感じた。――ねえ、なんでそんなにあっさりと帰ってしまうの? あたしのついた嘘をすんなり受け入れたりして、あなたらしくない。おかげであたしは助かったけど、あなたはそれでいいの? それに――それにねえ、分かってたはずよ。この人、あたしの彼氏なんやから……。
「いい男だね」樋口がぽつりと言った。
「え? ああ――」仁美は誰もいない表通りを見た。「……そういえば、そうね」

 この気持ちは何だろうと、仁美は考えた。答えは出ていたけれど。

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