8 分不相応だった男

文字数 5,190文字


 署に着くと、今日は先に来ていた鍋島が刑事部屋のデスクで芹沢を迎えた。一係のデスクには彼しかいなかった。
「内田が来てる」と鍋島は言った。
「内田が?」
「空き巣の犯人は自分やて。自首してきたというわけや」
「そりゃ感心だな」芹沢は小さく頷いた。「で、どこに?」
「小会議室。おまえが来るのを待ってたんや」
 鍋島は立ち上がると芹沢を見た。「行こか」


 この前会ったときとは別人のようだった。
 同じように洒落た身なりをしてはいたが、それが今日はすっかりくたびれて見えた。どんよりと濁った眼をしてその下の皮膚を大きく窪ませ、後悔と絶望に背中を丸め、じっと審判を待っているような姿だった。時折鼻から漏らすため息は、取り返しのつかない事態へと自分を追いやった峰尾と、自分自身に対する嘲りの吐息にも聞こえた。今や、内田啓介は長かった破滅への道を、ここへきてようやく走り終えた落伍者そのものの姿を、彼の前に冷酷なまでの静けさを(まと)いながら立ちはだかる二人の刑事に(さら)しているのだった。

「――今月の五日、東天満の『ロイヤルエクセレントハイツ』の三〇一号室に空き巣に入ったのはあなたですね」
 内田の斜め向かいに座った鍋島が訊いた。
「……ええ。厳密に言えば、六日の――午前一時頃です」
「いわゆる素人なのに、よく成功しましたね」
「実は何度か下見をして分かったことですが、あのマンションは、表の出入口こそセキュリティはしっかりしているが他はそうでもない。防犯カメラも少ないし、何箇所か死角がありました。そこで非常階段からバルコニーに忍び込んでガラスを割り、中に入ったんです。今はネットやテレビで頻繁にピッキングや空き巣の手口を紹介しているでしょう。ああいうものを見て、僕なりに研究したんです」
 ふうん、と鍋島は椅子に身体を預けて腕組みした。そして続けた。
「その少し前に事前の偵察に来ていたのもあなたですか。確か、一日の午後十時前後のことのようですが」
「はい。そのときに佐伯さんの部屋を確認したんです。彼女が窓際に立ったのが見えたので、あの部屋だと分かったんです。部屋には他にも誰かいたみたいでした。彼女がその誰かに向かって話しているのも見えましたし」
「そこがそもそものあなたが犯した最初の大きな間違いなんですよ」
「は?」と内田は顔を上げて鍋島を見た。
「やっぱり、気付いてないようですね」鍋島は落ち着き払った声で言った。「あの部屋は佐伯さんの部屋ではないんですよ」
「えっ――」
「佐伯さんの部屋はその隣、つまり一つ奥です。佐伯さんは三〇一号室の女性とは友人関係で、あの夜はその女性を部屋に訪ねていたんですよ」
「……そうだったんですか」
 内田は呆然と目の前の長机を見下ろし、呟いた。「……迂闊だった」
「下見をしたり、ネットで調べたりしても、やはり素人ですね」鍋島はふんと頷いた。「空き巣の目的は?」
「佐伯さんがどこまで真相に近付いているのかを調べるためと――あと、脅しのつもりでした」
「余計なことを調べるな、と」
「はい」
「その四日後にも、今度はマンションの廊下に潜んで、あの部屋に帰ってきた女性を背後から羽交い絞めにしてナイフで脅迫した。『坂口郁代の件から手を引け』と言ってね。それもあなたの仕業ですか」
「いいえ」内田は激しく頭を振った。「そんなことはしてません」
 芹沢が顔を上げた。鍋島と視線を交わす。
「――違う?」鍋島が内田に向き直って訊いた。
「ええ。やってません。あのマンションの中まで入ったのは空き巣のときだけです」
 内田は言って、鍋島と芹沢の両方を交互に見た。「本当です、信じてください。ここまで来て今さら嘘は言いません」

 フランケンシュタインは別人か。誰だ? やはり、岡本信哉を殺した真犯人か――

「ではその日は何をしていましたか?」
「いつのことですか?」
「九日です。午後十時ごろ」
 内田は俯いて拳を口に当て、真剣な眼差しで考え込んだ。そしてすぐに顔を上げた。
「……心斎橋(しんさいばし)の居酒屋で飲んでました。一人でです」
「店の名前と場所は憶えていますか?」
「はい。『串大将』って店です」
「あとで確認します」鍋島は頷いた。「話を戻します。空き巣に入ったのは峰尾の指示ですか」
「具体的にどう実行するかは、僕が考えました。峰尾部長にはただ『おまえの責任で何とかしろ』と言われただけです。というのも、最初に彼女の取材を受けたのは部長じゃなくて僕だったんです。そのときの僕はまるで動揺してたんで、それで佐伯さんは何かおかしいと感じたようです。だから部長は僕に解決しろと」
 それから内田は後ろのドアをぼんやりと見つめながら言った。「――一月三十日のことが偽証とばれると大変なことになる。ただの偽証というだけでなく、僕は横領という大きな罪を抱えてるのだからと部長は言って――当然、自分の犯した罪については僕にも隠していました。高槻には、表沙汰になっては困る人物に会いに行ったとだけ言ったんです。例の贈賄疑惑の関連なんだと思いました。そう、僕はまんまと利用されたんですよ」
「そういうことになるんですかね」と鍋島は気のない様子で頷いた。「当日は、あなたはどこで何をしてたんですか。峰尾と口裏を合わせるにしても、別の誰かと会っていたのでは無理でしょう」
「あの日は一日中家でごろごろしていました。家族も出払っていましたし、部長のお宅に行ったことにするにはまさに好都合だったんです。警察に訊かれてもボロが出ないよう、僕と部長は何度も打ち合わせをしました。実際、そのおかげでアリバイ証言としてはほぼ完璧だったようで、警察は信じてくれました」
「ところが、佐伯さんはそうではなかった」
「ええ。さっきも言いましたように最初の僕の応対の様子が気になったようで、そのあとも何かと僕の周りを嗅ぎ回っている様子でした。そしてとうとう慶子のところにまで来たと聞いて、何とかしなければと思いました。それでああいう手段を取ったんです」
「しかし、佐伯さんは一度や二度の脅迫で取材を断念して姿を消すような人物ではないようです。あなたは、彼女に何か相当のことをしたんじゃないですか。彼女が怯えきって逃げ出してしまうような何かを」
「……空き巣に入る前に一度、脅迫めいた手紙を送りつけましたけど――それが特にひどいことだったという自覚はありません。あえて丁寧な言葉を選びました」
「それだけですか?」
「それだけです」
 内田は言うとまた視線を遠ざけた。「……佐伯さんは芙美江の幼馴染みだったそうですね。僕のところに取材に来たときにそう言ってました」
「連絡の途絶えた田村さんを探すうち、坂口郁代さんが逮捕された事件にぶつかったようですね」
「そうですか」
「ところが恐ろしい偶然もあるもので、その田村さんは坂口さんの事件があったと同じ一月三十日に峰尾に殺されていた」
 芹沢が言って、内田をじっと見た。
「……知らなかったんです」内田は頭を抱え、机に突っ伏した。「――まさか、部長があの日芙美江を手に掛けていたなんて――」
「いつ知ったんですか」と芹沢は尖った口調で訊いた。
「昨日です。部長が逮捕されたのは贈賄罪ではなさそうだと分かっていましたが、てっきり偽証がばれたんだと思いました。ところがそのうち同僚が殺人だと聞きつけてきて、もう腰も抜けんばかりに驚いて――殺した相手が誰なのかは聞くまでもなく分かりました。あなた方が僕を訪ねてこられたとき、津和野の地名を口にされていたでしょう。それでお二人が芙美江のことも知ってるんだと、あのときから分かっていたんです。この一件にはどこかで芙美江が関係しているんだと思っていました」
「それは勘がいいな」と芹沢は口許を緩めた。「俺たちはあの時点では、津和野が田村さんの出身地だとは知らなかったんです」
「そうなんですか」と内田も小さく笑った。「それももう、今となってはどうでもいいことです」
 鍋島が腕を組みかえた。上体を椅子から起こして、小さく一つ咳払いをした。
「あなたは婚約者の石川さんに自分の横領話を打ち明けたとき、自分がやったという証拠は残ってないと言って彼女を安心させようとしていますね。本当にそう思っていたんですか」
「はい。芙美江がそう言ってましたから」
「罪悪感ってもんがないんですね」
「ありましたよ。でも、とにかくあの頃のことはもう忘れたかったんです。部長には相変わらずそれをネタにいいように利用されてはいましたが、せめてそれ以外ではあのことを忘れていたいと思ったんです。だから慶子に訊かれてもそう言いました。同時に、芙美江という女も、もう自分とは無関係の人間にしてしまいたかった」
「そこまでしてあなたに尽くした女性なのに?」
「……勝手な話ですけどね、刑事さん」内田は鍋島を見た。「ああいう女は、男を駄目にしてしまうんです」
 鍋島はまた椅子の背にもたれた。何言うてんねんこいつ、とその顔が呆れていた。
「それが言い過ぎなら、男を滅入らせてしまうとでも言えばいいでしょうか。美人で社内でも評判の彼女は、その他の点でも申し分のない女性でした。控えめで、よく気が付いて、しかも頭がいい。僕のことを全身全霊で慕ってくれたし、本当に僕はいい相手に恵まれたと思っていました。彼女が本当の親の顔を知らずに育ったと知っても、僕はそういう事情をすべてひっくるめて彼女を受け入れるつもりでした。けどそれは、二人の関係がうまくいっているときだけの話です」
「苦境に立ってからは気持ちが変わったとでも言いたいんですか。そのときにこそ、彼女は違法行為までしてあなたを必死で庇ってくれようとしたのに」
「まさにそこです。僕があの接触事故を起こしたのを、彼女がすべて処理してくれて以来、僕は――自分に自信を無くしてしまったんです」
「いや知らんがな」
 鍋島は思わず言った。芹沢がははっと笑う。それを見て内田は首を折り、ぼそぼそと続けた。
「――僕を頼りにしていると思っていた彼女が、違法とはいえ、首尾よく処理してくれたんですからね。その後も彼女は今まで通り僕を立ててくれましたが、僕の方が気にするようになったんです――」
「ちょ、ちょっと待ってください、ちょっと」鍋島は内田の前に手を翳して彼を止めた。
「いいよ、喋らせろ」芹沢がさらに鍋島を止める。
「いやごめん、ちょっと俺、分からんねん」
 鍋島は芹沢に向かって首を捻り、それから内田に振り返って言った。「すいません、あのこれ、俺個人がひっかかってるだけなんやけど、答えてもらえます?」
「あ――何でしょう」
「その、『その後も彼女は今まで通り僕を立ててくれましたが』って、なに?」鍋島は大真面目だった。「それをされて、嬉しいってこと?」
「は?」内田はポカンと口を開けた。
「いいって鍋島。おまえにゃ――俺もかな――分からねえんだって」芹沢が強めに言った。「そこ突っ込むな。終わんねえわ」
「……分かったよ」
 言葉とは裏腹に、鍋島は納得のいかない表情を浮かべたまま内田に言った。「気にするようになって、それで?」
「……あ、それで―― 彼女の言葉や態度の一つ一つが、僕を嘲笑っているように思えてきて――息が詰まるようにさえなっていました。それでだんだんとギクシャクし始めて、つい、つまらないことで喧嘩して……彼女はそれがストレスとなって、会社帰りに万引きをしてしまった。魔が刺したとしか言いようがありません。その上、それを峰尾部長に目撃されてしまった。こともあろうにあの部長にです。僕は、彼女のとことん不運な人生に身震いしました。そして、嫌悪感さえ覚えました。この女と一緒にいると自分まで不幸になってしまう。もしかしたらあの事故も、そんな不幸の始まりだったのかも知れないと、そう思うようになったんです」
 内田は一気に話すと、すとんと肩を落とした。「……結局、別れる頃には、僕ももっと大きな不運に呑み込まれてしまったあとだったんです」
 鍋島はその姿を見て、前に会ったときに自分が彼に対して抱いていた、勝ち組気取りの男という印象を、今はまったく感じずにいることに気付いた。大人の人間として最も卑怯で弱い素顔を曝け出し、極めて無様な格好で縮こまっている。なんだ、と思うと同時に、憐みの気持ちすら沸いてきそうだった。
 ふと芹沢を見ると、相変わらずの冷たい視線で内田を眺めている。所詮は自分の手に余る女を相手にしたおまえがバカなんだろと、心の中で言い放っているのが聞こえてきそうだった。
「――内田さん。あなたを逮捕することになります。容疑は器物破損と住居侵入です」鍋島は言った。
「分かりました」内田は頷いた。

 甘えと噓、その二つが原因となって起こる不安と恐怖、そして長い長い後悔の日々。そのすべてが終わったのだと悟っている顔には、穏やかな微笑みさえ浮かんでいた。

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