2 親の役目

文字数 4,595文字


 その病院は京都市左京区の南端近く、白川(しらかわ)通りと鹿(しし)(たに)通りの中間地点、市営住宅の北西にあった。東山(ひがしやま)を背に白い建物が静かに佇み、敷地内を行き交う人々もゆったりと穏やかだった。気のせいか、時間までゆっくり流れているように思える。大病院に無い、気品さえ感じられる静寂がそこにはあった。

 坂口郁代の母・蕗子(ふきこ)は鍋島を病室に迎えるなり、「すみません」という言葉を何度も口にした。
 娘が人を殺した罪で裁かれようとしていることに対する謝罪であることは明らかだった。おそらく彼女は、娘の過ちを自分のせいだと思っているのだろう。持田弁護士から聞いた話によると、彼女は郁代にとってあまりいい母親ではなかったようだ。いわゆる“毒親”に近い感じで、小さい頃から習い事だの塾だの、嫌がる郁代を無理矢理追い立て、教育を

た。友達関係にも口を出し、気に入らないことがあると厳しく叱責したという。そしてそれはすべて彼女の世間に対する見栄から来たもので、郁代は高校を卒業すると、とうとうそんな母親に反発して家を飛び出した。しかし母親はそのときでさえ、娘は東京の一流大学へ進学したのだと近所には嘘をついていたらしい。周りの非難に耐えきれずに自殺を図ったのは、彼女のそんな虚栄心が、娘からのしっぺ返しによって木端微塵(こっぱみじん)に打ち砕かれたからだろうと持田は言った。気の強い見栄っ張り――持田の母親評だ――の彼女が、娘の逮捕直後から突然気弱になったのがその証拠だと、持田はやりきれなさそうに鍋島たちに話してくれたのだった。

 意識が戻ったばかりで精神的にはまだまだ快復できていないせいか、蕗子はいくぶん落ち着きがなかったが、事前に持田から届いていた手紙――そこには郁代の最近の様子、郁代が無実である可能性が出てきたこと、いずれ訪ねて来るであろう西天満署の刑事を信用して話してほしいというようなことが書かれていたらしい――を手元に用意していて、すがるような眼差しで鍋島にベッドの脇の椅子を勧めた。
 一通りの見舞いの言葉を口にしたあと、鍋島は本題に入った。
「――郁代さんが無実ではないかとの疑問を最初に抱いたのは、事件とは無関係の一人の女性なんです」
「はあ、そうですか」蕗子はか細い声で言った。
「ところがその女性、つい先日いなくなってしまって――」鍋島はちらりと蕗子を見た。「友人に郁代さんの名前を書き残して」
「その方、どういう方なんです?」
「フリーライターです」
「ライター?」蕗子の顔色が変わった。「雑誌やなんかの記者さんということですか?」
「ええ、そうです。彼女は主に『関西タイム』に書いていました。お読みになったことはありませんか?」
「そ、その方のお名前は?」
 鍋島の質問には答えず、逆に蕗子の方が背に当てていた枕から身体を起こして訊いてきた。
「佐伯葉子さんと言います」
 蕗子はため息を漏らした。「……やっぱり」
「やっぱりって、どういうことですか? 何かご存じなんですか?」
「来られたんですよ、私のところにも」
「佐伯さんが?」と今度は鍋島が身を乗り出した。「いつです?」
「あれは――二月の末だったと思います。東大阪の私の家に、夜遅く訪ねて来られました。郁代が写った写真を持って」
「写真を?」
「ええ。写真にはもう一人、若い女の方が写っていました。その人は佐伯さんの友人だそうで、去年の秋ごろから連絡が途絶えているとおっしゃっていました。佐伯さんはその女性を捜しておられたようです。ちょうど今、おたくさんが佐伯さんを捜しておられるように」
「お母さんはその女性をご存じだったんですか?」
「いいえ、初めて見る女性でした。とても綺麗な方で――郁代とはどういう関係の方なんですかと訊いたら、一緒に暮らしてたことがあるとかで」
 村田江美子のことだ。いや、その名前はやはり偽名だったと持田があとで知らせてきたから、佐伯葉子なら本名を知っていた可能性はある。
「佐伯さんはその女性の名前を言ってましたか?」
「ちょっと待ってください」
 そう言うと蕗子はベッド脇にある小さなワゴンから革のポーチを取りだし、中から一枚の紙切れを抜き取った。
田村(たむら)芙美江(ふみえ)さん」
「タムラフミエ」鍋島は復唱した。「字はどう書くんですか?」
 蕗子は紙切れを鍋島に渡した。
 田村芙美江――村田江美子。名字と名前の字をそれぞれ逆転させ、別の漢字を付け加えただけの簡単な組み換えだ。
「佐伯さんはどうやって郁代さんのことを知ったんでしょう」
「郁代の顔がテレビやネットに出たとき、以前そのお友達から送られてきた写真に写っていたのと同一人物だと気付かれたそうです。さっき言った写真のことです」
「その写真は今は?」
「その方の写真はその一枚しかないそうで……私に預けたいけれどその方を捜すのに必要だからそれはできないって、佐伯さんも残念がっておられました。だからここには――」蕗子は首を振った。
「そうですか」
「佐伯さんは、私のところへ来る前に持田先生のところへ行って、郁代に面会したいと申し出られたそうです。けれども郁代との面会は当時は先生にだけしか許されていなかったので、それで私なら何か知っているかも知れないと思って会いに来られたんです。でも郁代は高校を出てからは家に寄りつこうとしませんでしたし、私も何も知りません。それよりも、娘が殺人を犯してしまったということでかなり動揺しておりましたので、佐伯さんにはそうお話ししてお帰り願ったんです」
 蕗子は当時の様子を思い出しているかのような暗い顔をして言った。
「持田先生にはそのことをお話しにならなかったんですか」
「ええ。先生にはマスコミ関係者の言うことには耳を貸さないようにと言われてましたから。私を気遣ってくださってたんです。ですから私も、あえて先生にそんな話をして、気を悪くされるようなことがあってはいけないと思って言いませんでした」
 そうですか、と鍋島はため息をついた。見栄っ張りの片鱗がここにもということだなと思った。
「ただ、郁代さんがアリバイ主張をされていることはご存知ですよね? 犯行時刻には高槻にいて、駅前で偶然知っている人物に会ったというものです。そして、その人物が郁代さんの同居人と何らかの関係があるらしいということも」
「ええ、聞いています」
「それならその同居人が、佐伯さんの捜している田村さんのことだとはお気づきにならなかったんですか?」
 蕗子は顔を上げた。「そうなんですか?」
 今頃気付いているようでは遅すぎる。鍋島は肩を落とした。
 そこへドアがノックされ、看護師が現れた。
「すいません、面会時間が過ぎましたので」
「あ、はい」
 看護師の毅然とした言い方に、鍋島は思わず腰を浮かせた。そして蕗子に振り返り、ありがとうございましたと頭を下げた。
「どうか郁代のことをよろしくお願いします」蕗子も深々と礼をした。「またいつでもいらしてください」
「坂口さんもお大事になさってください」
 そう言って鍋島は病室を出た。
 佐伯葉子がこの事件を探っていた理由が分かった。郁代の同居人だった村田江美子こと田村芙美江が、葉子の友人だったのだ。いったい、どの時期での友人だったのか。いずれにせよその芙美江の行方は葉子も知らないらしい。岡本殺しの容疑者として逮捕された郁代の顔を見て、そこから芙美江の行方を捜そうとしたのだろう。しかも、事件を調べているうちに郁代が犯人ではないかも知れないという疑念を抱いたようだ。葉子はもしかしたら村田江美子のことも知って、江美子が芙美江だと気付いたのではないだろうか。峰尾と内田を調べたのもそのせいかも知れない。しかし、辻野仁美に託したUSBに芙美江について何も記さなかったのには何か理由があるのだろうか。
 田村芙美江という人物を本格的に洗う必要が出てきたようだ。


 一方、芹沢は中津のバイクショップに赴き、岡本にバイクを壊されてトラブルになった可能性のある人物の特定を試みていた。
 岡本がバンド仲間の友人に借りたバイクを破損させたのは昨年十一月。それ以降で同機種もしくはそれに類似した機種の修理依頼は全部で五件あった。その一つ一つの修理記録を調べ、ライヴハウスの従業員から聴取した情報と照らし合わせて該当しないものを省いていくと、残ったのは一件。修理の依頼者は、ライヴハウスからは徒歩十分ほどの距離にある高層マンションに住む、三十一歳の会社経営者だった。
「—―覚えてるわ。確かボディを広範囲に擦られて、マフラーも破損してたな」
 五十歳という年齢よりはずっと若く見える社長は言った。「不細工な修理されてたよ。元に戻すのに、三十万近くかかったかな」
「この人――芝田(しばた)さん、どんな様子でした?」
「そうやなあ。意外と怒ってなかったな」
「そうなんだ?」
「うん。でもまあ、感情を抑えてただけかも知れんけどね。こっちは業者で、友達ってわけやないんやし」
 社長は白い歯を見せて笑った。「金は持ってそうやったから、数十万の金で解決するんなら大したことやないって思ってたんとちゃうのかな。そもそも、さほど乗り込んでない感じやったし、持ってることに意味があるって感じの人やったね」
「ふうん」バイク愛好家の芹沢には理解し難かった。
 すると、二人のすぐそばで修理の終わった原付バイクを磨いていた琉斗が、芹沢の気持ちを代弁するように言った。
「金持ちアピールのためのハーレーか。しょうもな」
「だな」と芹沢は笑った。「おまえ、言うね」
 琉斗はえへへ、と笑って立ち上がり、手にしたタオルを広げながら芹沢に訊いた。「その人が何かやったん?」
「琉斗」社長が咎めるように言った。
「あ、ごめんなさい。訊いたらあかんのやね」琉斗は人差し指を唇に添えた。「シュヒギム」
「それもあるけど、おまえ、もう時間やろ。着替えてお母さん迎えに行ってこい」社長は壁の時計を指差して言った。「遅れるぞ」
「――あ、ほんまや」
「何かあるの?」芹沢が訊いた。
「新学年の三者面談。おかんの仕事の都合が今日のこの時間しか合わへんから」
 そうなんだ、と芹沢は頷いた。琉斗はじゃあまたねと言って店の奥に消えた。
 その後姿を見守りながら、芹沢は社長に訊いた。「――あいつ、役に立ってますか」
「ああ、じゅうぶん。たいしたもんや。覚えも悪くないし、仕事も丁寧やし。センスあるよ」社長は芹沢を見上げた。「ええ子紹介してくれて、感謝してるよ」
「だったらいいけど」芹沢は嬉しそうに頷いた。
「勉強も頑張ってるみたいやしね。大学、そこそこええとこ行けるかもよ」
「へえ、そうなんですか」
「学費、奨学金借りるって言うてたけど、私立やとそれだけでは心細いみたいやし、足らんかったら俺が出してやってもええて思ってる。もちろん出世払いで返してもらうけど」
「でもそこまで――」
「俺んとこ子供おらんやろ。親御さんにはとうてい及ばんけど、親の真似事や。おこがましいよな」
 社長は笑って頭を掻いた。そしてすぐに神妙な顔に戻り、例のバイクのオーナーの顧客カードを芹沢にかざすと、声を落として言った。「メモして行って。何か分かるとええな」
 ありがとうございます、と芹沢は頭を下げた。
 正しい大人が見守り、寄り添い、背中に手を添え続けること。そうすれば子供は、迷ったり立ち止まったりしながらも、前を向いて歩いて行けるのだと芹沢は思った。


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