3 謎の女
文字数 3,016文字
その日初めて西天満署に顔を出した二人を待っていたのは、持田弁護士からの伝言だった。
鍋島のデスクに残されたメモには、同じ一係の
『――モチダ弁護士より電話あり
伝えたいことがあるので至急連絡されたしとのこと
午後には別件の公判へ出かけるのでできればそれまでに
一係のトラブルメーカー二人組へ 10:10 島崎
(P.S. おまえら、せめてどっちかケータイの電源入れとけ!)――』
とあった。鍋島はジーパンのポケットからスマートフォンを取り出し、持田の番号を呼び出して耳に当てた。
三回コールが鳴って、持田の声が出た。
《――はい、持田です》
「あ、先生、鍋島です」
《鍋島さん。待ってましたよ》
持田の声は弾んでいた。弾むとは言っても、喜びで弾んでいるというより、焦りによるものだと鍋島は確信した。
《鍋島さん、良い報せと悪い報せ、一つずつあります。どっち先に聞きたいですか?》
この事態に何のおふざけだ。どっちでもええから、早よ話せ。それからどうやらこの弁護士先生は、焦ると映画に出て来る
「ほな、良い報せから」
嫌なことは先送りにしたがる鍋島の性格の現れだった。
《今朝、京都の病院から連絡が入りましてね。坂口の母親が意識を取り戻したそうです。今日はまだ無理ですけど、あと二日もすれば話を聞けるそうです》
「そうですか。ほな数日のうちに行ってみます」鍋島はメモ用紙とボールペンを引き寄せた。「病院の所在地は?」
《えっと――京都市
大学生活を京都で送った鍋島にはだいたいの場所の見当はついた。『哲学の道』の西側あたりだ。
「で、良くない報せと言うのは?」
《昨日あれから早速、僕なりに調べてみたんです。ほら、峰尾氏と坂口を結び付けている村田江美子のことですよ。彼女の居場所を突き止めて、峰尾氏とどういう関係だったかを訊き出そうと思って。それで、彼女が坂口と同居していたマンションの大家に会って、当時の彼女たちの賃貸契約書を見せてもらい、提出されているはずの住民票から本籍や現在の所在を辿ろうとしたんです》
それが津和野か、と鍋島は期待を抱いた。
《――マンションを借りる当時の村田の住所は大阪市
津和野でなかったことに少しがっかりした鍋島は小さなため息をついた。「……ええ」
《その住所、まったくのでたらめだったんです》
「でたらめ?」
《ええ。まったく別の家族のもので、しかも三十年前から変わらないそうです》
「つまり、賃貸契約を結ぶ際に提出した住民票は偽造ってことですか?」
《そこですよ。彼女が坂口とルームシェアした理由は》
「というと?」
持田は咳払いをして、ゆっくりと話し出した。
《――確かに、賃貸契約は二人を対象に締結されているなんですけど、主たる契約者は坂口なんです。ルームシェアの契約には、代表者一人が契約書を作成する代表者契約と、部屋に住む全員の契約書を用意する連名契約の二種類が一般的です。今は説明を省きますが、それぞれにメリットとデメリットがあります。で、坂口と村田の場合は坂口を代表とする代表者契約でした。だから、所得証明や身元確認のための公的書類は坂口の分だけしか提出されてなかったんです。実際、家賃と収入のバランスは坂口一人だけでもさほど無理がなかったようですし、大家もそれで納得済みだったそうですよ。ほら、例えば結婚を前提としたカップルが入籍前に部屋を借りるときなんかは、契約者はたいてい一人で、その人物の身元や収入の
「なるほど」
《この二人の場合も、そういう例に倣ったようです。若い女性の収入と、住みたいと希望する部屋の家賃は、釣り合いが取れない場合が多々あります。それでもみんないいマンションに住みたがる。まあ、セキュリティ面で女性ならではの苦労があるのも事実ですが。だからああして同居人を捜すんですよ。貸す方もそれをよく分かってて、一人より二人の方が家賃滞納の心配も軽減されますし、保証金あるいは保証人をきっちり取り、その分、身元確認なんかはうるさく言わないようにした。僕からしたらその方が怖いと思うんですが、そこはビジネスですから、優先順位はそれぞれです》
持田は一息ついて、またすぐに喋り出した。《村田はそこに目を付けたんでしょう。港区役所からすぐに拘置所へ行って、坂口にそのあたりのことを訊いたんですが、案の定、村田の方から同居を申し出てきたそうです》
「二人はどこで知り合ったんですか?」
《不動産屋の営業所です。坂口がそのマンションの部屋を借りるかどうか思案していたときに、村田が声を掛けてきて、自分もあのマンションに住みたいのだけど、家賃が予算より高くて悩んでると。そこで、同じマンションのもう一回り広い部屋を借りる代わりにルームシェアしないかって言ってきたそうです。坂口の名前で借りてくれるんだったら、家賃を多めに払ってもいいって。坂口は迷いましたが、一日考えて承諾したそうです。当時住んでいた部屋の家賃より出費が抑えられて、市内の3LDKのマンションに住めるんだったら、儲けものだと》
「村田がどうして家賃負担の配分を多く請け負ってまで自分が主たる契約者になることを避けたかったのか、坂口さんは訊かへんかったんですか」
《ええ。男から逃げてるんじゃないかと、その程度には思ってたらしいですけど》
「坂口さんて方は、おおらかな性格のようですね」
鍋島は苦笑しながら言った。会ったことはないが、少しだけ気に入った。
《だから岡本のような男にポンと百五十万も貸してしまうんですよ》と持田も笑った。《村田との同居も、なかなかうまく行っていたそうですよ。お互いの生活には決して干渉せず、それでいてときには一緒に食事をしたり買い物に出かけたりね。村田は坂口とは正反対の性格で、真面目で奥ゆかしくて、しかもなかなかの美人だったそうです》
「そんな彼女と、峰尾はどういう知り合いやったんでしょう」
《まあ、ただの顔見知り程度とは思えませんよね。わざわざマンションに訪ねてくるくらいだから》
そこで持田は大きくため息をついた。《……それも、今となってはもう調べようがありません。峰尾氏はああして否定しているし、村田の方は手がかりが途絶えてしまったんですから。僕がもっとちゃんとやっていれば――》
今さら遅いでと鍋島は思った。
《あ――!》と持田が声を上げた。
「どうしたんですか」
《いや、彼女がでたらめに書いたという港区の住所ですがね。そこには村田江美子とう人物の痕跡はなかったけど、まったく滅茶苦茶な住所ってわけではなかった。ちゃんと住民基本台帳には載ってるんですからね。ということはつまり、彼女は少なくともその付近の町名や番地には詳しい人物だとは考えられませんか?》
「そう考えていいでしょうね」
《だったら、もう一度区役所へ行って、村田江美子という人物を調べてみたらどうでしょう。ええ、きっといますよ。その嘘の住所からそう遠く離れてはいないところに》
「無駄でしょうね」
持田の興奮に水を差すかのように、鍋島は冷ややかに言った。
《どうしてですか?》
「十中八九、村田江美子ってのも偽名ですよ」