1 愛しさとせつなさと後ろめたさと

文字数 3,802文字

 翌朝、芹沢が目覚めたとき、一条は隣で寝息を立てて眠っていた。芹沢の手にしっかりと指を絡めて、華奢な肩を微かに上下させている。迷いを抱えて恋人のもとへ来て、その思いを包み込んでもらえたことですっかり安心したのか、安らかな表情で目を閉じていた。芹沢は上体を起こし、彼女の頬にキスをすると、丁寧に手を離してベッドから出た。
 シャワーを浴びているあいだ、彼女を手放したくないという思いが頭と心をかけめぐっていた。今の状態はそう簡単に変えられないし、結婚という言葉も自分には現実的に捉えられない。ただ、この先どうなっていこうと、周りにどれだけ責められようと、俺はどうしても――

 離れられないし、離したくない。どうしようもなく愛おしい。

 みちるが必要なんだと確信した。彼女のいない世界なんて考えたくない。
 それがとてつもなく罪深いことだと分かっていながら。
 だったら、いい加減に心を決めないとなと思った。


 キッチンでコーヒーを淹れていると、一条がドアを開けて入って来た。
「おはよう」
 一条はピアスを付けながらにっこりと笑った。持参したパーカースタイルのルームウエアを着ている。
「早いんだな。ゆっくり寝てればいいのに」
 芹沢は手元から視線を上げずに言った。
「貴志が仕事に行くの、お見送りしないと」
「そんなのいいよ」と芹沢は笑った。「コーヒー飲む?」
「うん、飲む」
 一条はカウンターの椅子に座った。洗顔の直後のせいか、おでこがつるんと光っていた。
「朝メシ、冷蔵庫のもの適当に使っていいから」
「貴志は?」
「俺はいい。朝はあんま食べないんだ」
「ちゃんと食べないとダメよ。作ろうか?」
「いいよ。時間もないし」
 一条はふうん、と頷き、パーカーのポケットからスマートフォンを取り出して手元に置いた。
「明日は食事に連れてってくれるのよね?」
「ああ、ちょうど非番だし。どこがいいかリサーチしといてくれよ。プレゼントも」
「……今、やってる」
 一条は言うと両手で頬杖を突いて芹沢をじっと見た。
 マグカップにコーヒーを注いで、芹沢は一条の前に置いた。ミルクはと訊いて、要らないと答えた彼女に頷き、自分のカップにも注いだ。
「ねえ」
 マグカップを両手で持ち、コーヒーをひと口飲んだ一条が、にこにこと笑顔を浮かべて言った。
「うん?」芹沢も口元に運ぶ。
「美味しかった? 


 芹沢はブッ、とコーヒーを吹き出した。一条は飛んできた飛沫を素早くかわし、目を細めて芹沢を見た。
「……やっぱりね」
「な、なんだよ?」芹沢は口を拭った。「……なんのこと?」
「しっらじらしい。女と行ったんでしょ」
「い、行ってね――」
「証拠は挙がってるのよ」
 そう言って一条はカップを置くと、スマートフォンを取って画面を開き、手を伸ばして芹沢に見せた。「女がSNSに上げてるわ」
 芹沢は恐る恐る画面を覗いた。
 あのときの女性が、レストランの外観や食事の写真を、動画と写真の共有アプリに公開していた。
「実はずっと、明日行きたい店を調べてたの。『西天満』『レストラン』で検索かけてたら、たくさん上がってきた。それでね――引っかかったのよ。ほら――この彼女『#堂島』『#フレンチ』『#西天満署』『#イケメン』『#おまわりさん』って、いっぱいハッシュタグつけてる。注目されたくて仕方ないようね」
 一条は淡々と言った。まるで犯行を否認する容疑者に証拠を突きつけているかのように。
「彼女の自撮りもあるわよ」一条は写真をスクロールした。「綺麗な女性(ひと)ね。どういう関係?」
 芹沢は写真を見ずに俯いた。返事などできるはずがない。
「美味しそうなお料理の乗ったお皿の向こうに、あなたの手が写り込んでるし」
「俺の手じゃないよ」
「いいえ、あなたの手だし、あなたの指よ。わたしは間違えないわ」
 一条はすかさず言うと芹沢をじっと見た。「何なら今、手を出して写真と比べてみる?」
「……いや、遠慮しとく」
「コメントも書いてあるわよ。『ずっと来たかったレストラン。雰囲気も味も最高! しかも、デートの相手は超イケメン刑事のSくん。タイホされたい♡』だって」
「イケメン刑事のSくんなんて、いっぱいいるだろ」
「だから、西天満署のハッシュタグがあるって言ってるじゃない」
 芹沢は観念し、頭を下げた。「……ごめんなさい」
 一条はため息をついた。「……食事だけ?」
「もちろん。それは絶対」
「とは言え食事だけならいいって感覚、分からないわ」
「だって、ただの友達だから」
「ただの友達とこんな雰囲気のいいお店に行くかしら? 彼女はあなたに『タイホされたい♡』のよ。あ、もしかしたらそういう擬似プレイが好きなのかもね」
「もういいよ」
「いいか悪いか、決めるのはわたしよ――!」
 一条はスマートフォンを手元にバン! と置いて芹沢を睨みつけた。「……言っとくけどこの代償、高くつくわよ」
 芹沢は黙って頷き、コーヒーを飲むと大きくため息をついた。
「ため息つきたいのはこっちよ」一条が言った。
 自分が悪かったとはいえ、昨夜の彼女とはえらい違いだなと、芹沢はコーヒーのそれとは違う、明らかな苦味を感じた。そして、さっきまで自分が抱いていた彼女への想いを少しではあったが疑いそうになっていた。

 家を出る時刻になり、一条は玄関先で芹沢を見送った。
「――帰る前に連絡ちょうだいね。ごはん作っておくから」
「あ、そういうのいいよ」
「なにそれ。何か警戒してる?」一条は腰に手を当てた。「どうせ不味いとか思ってるんでしょ?」
「不味いとは思ってねえけど、バカみたいに作るだろとは思ってる」
「え?」一条は顔をしかめた。
「あ、すいません」芹沢は反射的に謝った。
「……量の問題か」一条は呟いた。「そこは調節するわ」
 怒ったんじゃなくて、ピンと来なかっただけのようだ。分かると素直に受け入れる。芹沢はちょっと呆れると同時に、こういうところが可愛いんだよなと思った。
「ホント大丈夫だから。みちるは自由にしてていいよ。近所に食べに行ったっていいんだし」
「とにかく連絡ちょうだい。どうするかは、わたしが決める」
「……分かった」
 それじゃあ行ってらっしゃい、気をつけてねと言って一条は芹沢を送り出した。行ってらっしゃいのキスでもあるのかなとどこかで期待していた芹沢は、それが無かったのでやっぱり怒ってるんだなと思って少し落ち込んだ。自業自得のくせに。


 出勤し、刑事部屋に着いた芹沢は、自分の席に座ると大きくため息をついてデスクに突っ伏した。
「――はぁ。キツいわ」
「会うの二ヶ月ぶりやて言うてたな。そら

やろ」
 隣の鍋島がスマートフォンを操作しながら言った。
「いや、そういうんじゃねえ。いろいろと――メンタルが上下してよ」
 ふうん、と鍋島は気のない返事をした。「堂島のレストランがバレたんか」
 芹沢は顔を上げた。「おまえがチクったのか?」
「アホ言え」と鍋島は笑った。「つーか、バレたんや」
 芹沢はもう一度顔を伏せた。「……もう、恐ろしく鋭いのよ。女の勘っていうか、捜査能力っていうか」
「おまえの脇が甘いんと違うんか? 遠距離やからって侮ってるから」
 鍋島はスマートフォンをかざした。「今の時代、こーゆーのがあると距離なんて無きに等しいで。警部にとっては鬼に金棒や」
「……おっしゃる通りですよ鍋島さん」
 芹沢は緩々と顔を上げると、今度は眉間に手を当ててため息をついた。「……給料が出たとこで良かった」
「高くつきそうやな」
「おまけに誕生日だし。住宅ローン払えるかな」
「身から出た錆や。せいぜい反省しろ」
 鍋島はスマートフォンをデスクに置くと、首をぐるぐると回しながら言った。「それで、今日はどうする」
「バイク屋が例のバイクの修理者リストを見せてくれるらしい。行って、特定出来たら話を聞いてくる」
「任せてもええか」
「いいよ。おまえはどうする」
「坂口の母親が意識を回復したらしいから、会うてくる」
「何か知ってるかな」
「さあな。でもとにかく、ちょっとでも可能性のあるとこは全部当たらなしゃあない」
「そうだな」芹沢はこめかみを掻いた。「可能性か――」
「岡本の周辺、坂口の周辺、峰尾と内田の周辺」鍋島は順に指を立てた。「村田って名乗ってる女も」
 芹沢は目を細めて鍋島を見た。「そこまで行くと無限だ」
 鍋島は頷いた。「今日中にちょっとは目途をつけたいな。明日は休みやし」
「休みか――」芹沢は天井を仰いだ。「なんか

休みになりそうだ」
「……おまえ、警部に殺されるぞ」
「そんな簡単に殺してくれねえよ」
 そう芹沢が言ったタイミングで、彼のスマートフォンに通知が入った。画面のポップアップを覗くと、一条から画像が送られてきたとの表示があった。
「……見たくねえわー」芹沢は顔をしかめて言った。
「見た方がええぞ。とりあえず既読だけはつけろ」
「……分かった」
 送られてきたのはサンダルの画像だった。足首にベルトの施されたやや厚底の上品なエスパドリーユタイプだ。イタリアのハイブランドのもので、値段は参考価格で十三万円だった。
「わーなにコレ。俺の目がおかしいのかな」
「しかもサンダル。夏の晴れた日限定でしか穿かへんやつに十三万やて」
「……な。()っちまったらこんなの買わせらんねえだろ」芹沢は画像を指差した。「俺の月収の三分の一だ」
「むしろご愁傷さま」
 鍋島は手を合わせて頭を下げた。


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