2 男の暗躍

文字数 4,026文字

「――十万以内の現金による送金の場合、伝票に虚偽の名前や住所をお書きになっても、振込先の口座番号と名義が正しいのであれば、あとでトラブルにならない限りは、うちとしてはちょっと確認のしようが……」
 支店長は言った。四月だというのに初夏に近いような陽気の日だったが、きちんとスーツを着て、髪にも綺麗に櫛が入っている。いつもながらに、この業種の連中の隙のなさには恐れ入る。
 支店長は伝票綴りを開いて二人に差し出した。「確かに、一月十八日に当行弁天町支店の田村明弘様の総合口座あてに五万円のご送金がございました。窓口での取扱いです。お振込人の名義は田村芙美江様。ご住所は――」
 芙美江の住所は高槻市真上町となっていた。果たして、本当にそこにいるかどうか。
「では、同じ田村芙美江で口座はありませんか。それと、村田江美子という名義の口座も調べていただきたいんですが」芹沢は支店長に言った。
「お調べします。少々お時間を頂戴しますが――」
「構いません。待ってます」芹沢は言うと、支店長の隣に座っている三人の女子行員を見た。「そのあいだに、そちらの方々からお話を伺いたいのですが」
 支店長は三人の部下の一人に目配せをした。そして手元の資料の一枚を取って立ち上がると刑事たちに一礼し、応接室を出て行った。
「送金を担当していらっしゃったのはどなたですか?」鍋島が訊いた。
「主に私です」
 支店長がいた席の隣に座った行員が答えた。左胸の名札に『森田(もりた)』と刻まれている。
「お昼休みには、この二人のどちらかが交代で担当してくれています」
 この二人と紹介された行員が頭を下げた。それぞれ『岡崎(おかざき)』と『吉岡(よしおか)』の名札を付けていた。
「では、さっきの伝票を取り扱われたのもあなたですか」鍋島は森田に訊いた。
「そうだと思います。伝票に私の受付印が押してありましたから」
「そのときのこと、憶えてらっしゃいますか」
「……申し訳ありませんが、送金だけでも一日に百件以上の処理をしておりますので、ちょっと――」
「でしょうね」と鍋島は諦めたように頷いた。「三ヶ月も前の話ですからね」
 芹沢が芙美江の写真を三人の方に向けてテーブルに置いた。「この写真の左側の女性に見覚えはありませんか? 青いワンピースの女性です」
 森田が写真を取り上げ、残りの二人も覗き込んだ。
「あたしは見覚えがないけど――」森田が言った。「ミキちゃんは?」
 ミキちゃんと呼ばれた吉岡は首を振った。「あたしも知りません」
「岡崎さんはどうです? よく見てください」
 芹沢に名指しで質問された岡崎ははにかんだように頬を緩めると、俯き加減で言った。「さあ……ないと思います」
「一見のお客様は、来られてたとしても覚えきれませんので」と吉岡。
「そうですか」
「とても綺麗な方ですし、何度も来られていたら記憶に残るはずです」
 森田は言うと写真を返してきた。
「分かりました。お忙しいところにお時間を割いていただいてありがとうございます」
 芹沢はにっこりと笑って言うと三人を見た。その笑顔を見られただけでも忙しい月曜の朝の仕事を中断した甲斐があったとでも言うように、三人は満足げに頷いた。
「――刑事さん、残念ながらありませんでした」
 支店長が戻ってきて言った。「田村芙美江様も村田江美子様も、当行ではお取引いただいていないようです」

 結局、振込伝票に書かれた芙美江の住所はでたらめだと分かり――当該地点にはファミリーレストランが建っていた――電話番号も使用されていない架空の番号だった。
 その後、高槻中央署へと足を運び、すでに西天満署からの依頼を受けたという担当刑事に会って、芙美江の生い立ちと分かっている限りの経歴などを説明した。刑事は早速、今日からでも不動産屋に情報収集をかけると約束してくれた。それから芙美江の写真を持って高槻駅を中心に周辺の店舗や施設を聞き込んで回り、予想通りそれは徒労に終わった。
 掻き込むようにして夕食を済ませ、署に戻ったときは九時を回っていた。

 刑事部屋では、二人が戻るのを待っていた高野と島崎の出迎えを受けた。他には別の班の刑事が数人残っているだけだった。
「――ご苦労さん」
 島崎が二人にコーヒーを振舞った。
 鍋島は会釈してコーヒーを受け取った。「どうでした? 引越し屋の手応えは」
「まだ二十軒も回ってへんから、成果なしや」島崎は答えた。「独り暮らしの引越しなんて、かえって業者には頼まへんみたいやな。自分でやるか、家族や友達に手伝(てつど)うてもろて終わりや。それだけに彼女みたいな依頼は目立つし、見つかりさえすれば業者もきっと憶えてると思うんやけど」
「銀行の方は不発でしたから、明日から俺たちも業者を回りますよ」
「その銀行に口座は無かったか」
「ええ。そもそも現金による送金でしたからね。金額も小さいし、手数料さえ払えば誰だってできる」
「でも、半年に一度は十万円送られてきてたんやろ。その金額を現金で送金するとなるとATMでは不可能で、窓口やとエビデンスを求められる。そうなると口座からの送金のはずやが」
「ええ。だからきっと、別の銀行に口座を持ってたんじゃないかと。さしずめ東栄商事で働いてたときの給与振込口座とか」
「調べたんか」
「まだです。あそこに照会をかけるには、かなり慎重にいかないと」
 ああなるほど、と島崎は頷き、隣の島崎に振り返った。
 高野も小さく頷き返し、二人の若い刑事に言った。
「ところで例の峰尾のことやけどな。思い出したで」
「はい」鍋島は高野に向き直った。
「東栄商事の峰尾昭一。今の物流なんたらいう部署の部長に就く前は、医療機器部門の部長や儀られてるとかで。ったらしいな」
「ええ。東栄商事はもともと医療機器の専門商社でしたが、今ではその部門は他社に業界の主導権を握られてるとかで、ずいぶん縮小されたそうですけど」芹沢が答えた。
「ところが一年半ほど前、最後のひと花とばかりに大きな案件を成功させてるのを知ってるか」
「いいえ。なんですか」
「当時、ある国立系の病院が肥満の子供を対象にした一種のカウンセリング施設のようなものを作ったらしいんやが、そのとき、施設に置く体格分析装置をどこのメーカーのものにするか、だいぶもめたんや。いろんな商社がメーカーとともに名乗りを上げ、最終的には東栄商事と東京の大手医療機器専門商社の一騎打ちとなった。関係者の予想では、老舗とはいえ東栄商事はすでに医療機器部門の第一線からは退いてるわけやし、東京の商社の方が俄然有利と言われてたんや。病院も何度も会議を開いて検討したらしい。けど両社とも甲乙つけがたいというんで、結局はその施設の最高責任者に予定されてた一人の医師に最終判断を委ねたそうや」
「……危なっかしいな」鍋島が呟いた。
「その通り。どや、この先の展開が読めるやろ」
「贈収賄ですね」
「せや。医者いうのんは、開業でもせんかぎりさほど金には恵まれへんからな。よほど有名な外科医なんかやと話は別やろうが、国立病院の関連施設の責任者程度では、豪邸も高級車も遠い夢や。業者がそこに目を付けへんはずがない」
 鍋島は川島智の荘厳な自宅を思い浮かべた。智の父親は経済的には『勝ち組の医者』だ。
「――で、結果は」鍋島は訊いた。
「東栄商事の勝ちやった」
「つまり峰尾は、その医者に賄賂を贈ったんですね」
「実はさっき、偶然メシ屋で一緒になった顔見知りのブン屋にちょこっと聞き込んだんやけど、金は両社から医者に流れたはずやと言うてた。せやから東栄商事が勝つには、その医者には金の他にも何らかの便宜を図ったんやないかということや」
「金以外に、何が?」
「――その医者には、あんまり出来の良うない娘が一人おってな。当時高校三年生で、その先の進路が一向に決まらんと、金ばっかり使って親をほとほと困らせてたらしい」
「その娘を東栄商事で引き取ったんですか」
「それで済むんやったら、たいした話やない」ここで島崎が答えた。「親は医者や。娘にも大学に行ってほしいというプライドがあったんやろな」
「つまり――」鍋島は高野に振り返った。
「四月に、娘は神戸文化芸術に入学した」高野は答えた。
「難関じゃないですか」
「そうや。わずか設立十年の芸大でありながら、その入試の難易度はかなり高いので有名や。出身者も、有名新進デザイナーから海外で活躍するアーティスト、伝統芸能の御曹司まで、実に幅広い。人気は自ずと上がり、それに比例して偏差値もかなりの高さに跳ね上がった」
「そこへその放蕩娘が難なく合格したんや。おかしいとは思わへんか」島崎が付け加える。
「……裏口か」芹沢が呟いて高野を見た。「けど、峰尾にどうしてそんなことができたんです? やり手とはいえ、やつはただの一商社の部長に過ぎないんですよ」
「峰尾の妻の兄が、文化芸術大の総務部長をやってるんや」
「なるほど」
「東栄商事が東京の大手商社に競り勝ったというこの一件は、当時、業界ではそこそこ話題になったそうや。もちろん、贈収賄が絡んでるんやないかという意味でな。一時はマスコミも目をつけて、いろいろ書き立てた。わしが峰尾の名前を憶えてたのもそのせいや。が、結局は決定的な決め手がなくて有耶無耶(うやむや)に終わってしもた。あともうちょっとで地検が腰を上げるとこやったのにと、そのブン屋も悔しがってたわ」
「峰尾ってやつは、叩けば相当の埃が出る男やで」島崎が言った。
「どうや。一年ちょっと前――つまり去年の二月前後の話というたら、田村芙美江はとうに峰尾の女になってたやろ」高野は二人を見た。「そこでどういうことが考えられる?」
「つまり、田村はそのあたりの事情を知ってたんだ。それで、去年何か金の要る事情ができたとき、それをネタに峰尾を脅迫したってわけか」芹沢が言った。
「――で、消された」と鍋島。
「ちょっと強引かも知れんけど、そう考えたらつじつまが合うのと違うか」
 高野は言って、冷めたコーヒーを口に運んだ。

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