4 父と母、故郷

文字数 4,054文字

 その日は、萩市から葉子の叔父が来阪していた。葉子の捜索状況を尋ねに西天満署を訪れ、そのあとマンションにもやってきた。前日に連絡を受けた仁美は、マンションで落ち合う約束をしていた。
 葉子の両親はすでに他界していなかった。父親は報道カメラマンで、二十三年前のアフリカで起きたアメリカ大使館爆破事件の取材のために中東を取材中、記者とともに消息を絶った。おそらくは武装派ゲリラ組織によって殺害されたとみられ、当時、一日だけ父親と同行取材したというアメリカ人記者が、彼が佐伯カメラマンと一緒に写した写真を葉子の母親に送ってきたのはその二年後のことだった。葉子はまだ十一歳だったが、そのとき密かに将来は父親の跡を継ごうと決めたのだった。
 父親は消息を絶つ二年前から中東諸国へ取材に出かけていた。そこからアフリカへも足を延ばしたらしい。その際、母親は葉子を連れて故郷の萩に戻って夫の帰りを待った。結果的に夫は帰らぬ人となり、母親はその十年後に病気で亡くなった。夫の分まで、という思いで懸命に働き、無理がたたったせいだった。
 叔父はその母親の弟だった。姉の死後、葉子の親代わりとして何かと彼女の支えになってくれていると、仁美はかつて葉子から聞いたことがあったが、叔父はそうは言わなかった。
「――いいえ、あの子は本当に手の掛からない子でね」
 マンションの葉子の部屋のテーブルの前に正座して、野間(のま)耕造(こうぞう)はまるで懐かしむように言った。
「気丈で賢い子でしたから、私たち夫婦に何の苦労も心配も掛けたことはありませんでしたよ」
「それでも、叔父さんたちは葉子さんには心の支えだったようですよ。こういう街での一人暮らしは何かと気が滅入ることが多いから、そんなときは電車の切符を買って、萩へ帰りたくなるんやって」
 そうですか、と野間は微かに笑った。「私たちは何もしてやれませんでした。親代わりなんて言いながら、滅多にあの子の様子を伺いに大阪へ来ることもしなかったし……いい加減なものです」
 仁美は首を振った。「小さな子供ならさておき、三十を過ぎた大人になると、身内の存在だけでも心強く感じるものなんです。私もここで一人暮らしをしてますが、親が京都にいるというだけでどこか安心して、特に何がしてほしいとは思いませんから」
「母親が亡くなったとき、父方の親戚は皆、あの子を引き取ることに難色を示したんです。それで私が預かることにしたんですが――そのへんの事情を知っていたあの子は、私たちに気を遣っていたのかも知れません」
 そう言うと野間はぐるりと部屋を見回した。「……いったい、どこへ行ったんでしょう」
「警察では何か分かりましたか?」
「生活安全課の刑事さんが応対してくださいましたが、まだ有力な手掛かりはないそうです。若い女性の失踪は最近多いとかで。ひどい男から逃げたり、夜遊びや買い物で知らず知らずのうちに膨れ上がった借金から逃げる場合がほとんどだと聞きましたが、葉子に借金はありませんでした。でも交際相手のことまでは――」
「そういう問題は抱えてなかったと思います」仁美は答えた。「刑事課では?」
「何も。ただ、その生活安全課の刑事さんから、葉子が何かの事件の取材を途中でやめて失踪したらしいので、刑事課がその事件を調べているとだけ聞かされました」
「そうですか」
 警察としても、まだ正式に葉子が坂口郁代の事件との関連で失踪したとは断定していないらしい。現時点では鍋島と芹沢のところで留まっているのだろう。
「――辻野さんは、いなくなる前に葉子に会われてるって、警察が言ってましたけど」
「ええ。実は隣の私の部屋に空き巣が入りまして、それを葉子さんが気遣って訪ねてくださったんです」
「そのときの葉子に、何か変わったことはなかったでしょうか」野間は神妙な顔で訊いてきた。
「いえ、特に――」はっきりしないことは言わない方がいい。
「その前は津和野に出かけてたとか」
「そう言うておられましたけど」
「津和野には、あの子の母親が勤めていた会社があって、最初は萩から車で通っていたんですが、さすがに遠いということで親子で近くに部屋を借りて引っ越して行ったんです。あの子もその近所の小学校に通っていましたけど――何か関係があるんでしょうか」
「さあ。小学生ではちょっと古い話ですので、何とも言えないような気もしますけど」
 愛想のない答えばかりで申し訳ないなと思いながらも、仁美は多くを語らないようにした。
「いなくなって、もう二週間くらい経つんですよね」と野間は顔を強張らせて仁美をまっすぐに見た。「まさか、取り返しのつかないことになってるなんてことは――」
「野間さん、そんなこと考えてはだめですよ」と仁美は即座に言った。「葉子さんに限って、そんな」
「だといいんですが……」
 そう言うと野間は唇を噛んだ。

 野間は七時過ぎの新幹線に乗ると言って帰って行った。仁美はマンションの玄関まで野間を見送り、自分の部屋に戻った。
 自分は葉子のために何をしてきたのだろうと思った。彼女が途中で挫折せざるを得なくなった大仕事を、警察の手を借りてはいるものの、徐々にではあるが果たしつつある。それなのに仁美の心は晴れるどころか、どんどん暗く沈んでいった。葉子の行方が依然として分からないからだ。彼女の叔父が心配している『取り返しのつかないこと』の可能性さえも、自分は全く考えていないと言えば噓になる。果たして、これで葉子の役に立っていると言えるのだろうか。それだけではない。さっき、野間から両親を亡くした後の葉子の話を聞いて強く感じたことだが、自分は彼女の何を知っていたのだろうという、自責にも似た問い掛けが仁美の頭を巡ったのだった。
 ――親友面して、あんたは葉子の何も知らへんのと違うの?――
 そう考えたとき、いてもたってもいられない気持ちになった。
 部屋を出て、西天満署に向かった。


 署の玄関まで来たところで、仁美は偶然、階段を下りてくる鍋島に出くわした。
「ああ」
 鍋島は仁美に気付くと、口許に穏やかな笑みを浮かべて下りてきた。彼はいつもそうだ。人と話していないときは、その幼さの残る顔に頑ななまでの厳しさと意志の強さを湛えているが、いったんその視界に知った顔を認めると、それはたちまち引っ込められ、柔らかさが顔を出す。どこまでも真っ直ぐな男なのだなと仁美は思った。
「こんにちは――って言うか、こんばんは」
 仁美は言うと階段の下で鍋島を待った。
「会社の帰り?」鍋島は訊いた。
「今日は日曜日よ」
「あっそうやった」
「関係ないもんね。そっちには」
 仁美は少し気の毒そうな表情を作った。「葉子の叔父さんが萩から来られてて、葉子の部屋を見たいとおっしゃったから、マンションまで行ってたの」
(ここ)にも来たらしいな。生安課から聞いた」鍋島は頷いた。「それで? 何か特別なこと言うてたか」
「ううん、特に。とにかく心配してらっしゃったわ」
大阪(こっち)にはいつまでいてるって?」
「帰られたわよ、もう」
「なんや。心配してる割にはさっさと帰るんやな」
「大学生の娘さんが、通学途中に交通事故に遭って入院してはるんやて。明日、手術があるらしいわ」
「……みんな実の子が心配ってか」
「え、何?」
「いや、こっちの話。それで、今日は何?」
「――いえ……別に――」
 仁美は目を逸らし、何気なく鍋島の後ろの玄関を見た。
 鍋島はその様子をじっと見て言った。「――芹沢か?」
「あ、いえ、特に急ぐ用と違うんやけど……その、あたし……ちょっと彼に迷惑をかけてしまって」
「あいつなら帰ったよ」
「あ――そうなんや」
「メシ食って帰るって言うてたな」
 鍋島は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。「電話しよか?」
「あ、別にええのよ、急いでないし」
「金欠やから、行くとしたら――」
 鍋島は頭を掻きながら北の方向を向き、そしてすぐに仁美に振り返って言った。「あそこやないかな、曽根崎の食堂。お初天神商店街のアーケードを――」
「あ、知ってる。ちょっと前にここへ来たとき、連れて行かれた」
「たぶんそこ。あいつのお気に入りの店。安くて美味い」
 そう言うと鍋島はもう一度仁美をじっと見据えた。「……行くんか?」
「え、あ、まあ――じゃ、ちょっと行ってみようかな。ダメ元で」
「そうか」
 鍋島は頷いた。そして仁美が評価する彼の性格そのものの真っ直ぐな眼差しで彼女を見ると、落ち着いた口調で言った。
「……自分で確かめなしゃあないよな」
「――えっ――」
「会うて確かめてみたら。本気で気持ちが動いたのか、ただの一時の気の迷いか」
「鍋島さん――」
 ――まさか、どういう意味?
「ただ、辛くなるだけやけどな」鍋島は厳しい表情になった。「でも――そうせんことには先には進めへんやろうから」
 仁美は黙って頷いた。――そうか。彼に先に気付かれていたのか。
 鍋島はスマートフォンを戻し、親指で西方向を指した。「ほな、俺こっちやし」
「おつかれさま」仁美は力なく笑った。
「おつかれ」
 鍋島は通りを淀屋橋方面に歩き出した。仁美に見送られているのを背中で感じながら、今度は悔しそうに唇を嚙んで、それから吐き捨てた。
「……ったく、あいつめ」

 一方の仁美は、そんな鍋島を眺めながらしばらく立ち尽くしていた。
 鍋島に指摘された通り、一時的な期の迷いではないのか。樋口に結婚を申し込まれ、今一つ踏ん切りがついていないときに何度も続けて芹沢に会ったから、まるで逃げるように彼へと心が動いたのではないか。それにだいいち、自分は彼の何を知っているというのか。会話の内容と言えば、事件に関することと、中学生のような憎まれ口だけ。だから、彼がどんな人間なのかも知らずにこんな気持ちを持ってしまうのは、とてもまともとは思えない――
 それでも、確かめるしかないと仁美は思った。それが自分の性分だ。
 腕時計は七時十五分を指していた。葉子の叔父はもう新幹線に乗っただろうか――
 仁美は曾根崎方面へ向かって歩き始めた。

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