5 タルタルソースが欲しくなった…のです(前)

文字数 3,412文字

  七時半を過ぎて、夜空がようやくその存在を際立たせていた。昼間の街は休日のせいで平日とは違った平和な空気に包まれていたが、夜はまるでお構いなしだ。採光きらめくブラックホールとなって、喜びも哀しみも富も貧困も、過去も未来も善も悪も、すべてその造られた輝きの中に吞み込んでしまう。どうしても受け付けられなかった本物の不要物は、翌日、太陽が昇るころには吐き出され、その醜態を露わにするのだ。路地裏の生ゴミ、大通りの事故車両、高架下の路上生活者。ときには泥酔者の亡骸だってある。誰もがいつそれにとって代わるかも分からない。それがある限り、決して楽園とは言い難かったが、都会に棲みついて離れようとしない者は皆、街のそういった光と影の両方の存在を受け入れているのだろうと仁美は思っていた。
 彼女はお初天神の北側の通りを歩きながら、コンクリートの壁に囲まれた神社の入口を眺めた。夕方の雨が遺していった湿った大気が、ゆっくりと漂うように絡みついてくる。ときどき、風が吹いて生暖かいその忘れ物は遠くへ追いやられるが、またすぐに別の一団がやってきて、だらだらと鼻先を掠めていくのだった。
 神社を過ぎて右に折れ、百メートルも歩くとあの大衆食堂へと続く路地の入口に来た。アーケード街を外れ、ごつごつした舗装の狭い路地を東へ進む。軒下に赤提灯の並ぶ居酒屋や、洒落た外壁にイタリア語の店名が刻まれたビストロ、外にまで活気が溢れてきそうなホルモン焼き店に紛れて、あの大衆食堂は営業していた。
 仁美は一つ大きな深呼吸をすると、暖簾をくぐって格子戸を開けた。


 目の前に現れた仁美に驚いて、芹沢はもう少しでグラスに注いでいたビールを溢れさせてしまうところだった。
「ああ、零れる零れる」
 仁美が言って、芹沢はギリギリのところで瓶の口を上げた。そしてグラスを口許に運ぶと、仁美をじっと見上げながら一気にビールを飲んだ。仁美は立ったままその様子を眺めた。
「――どうしてここが分かった?」
 グラスを空にすると、芹沢は手の甲で口を拭いながら言った。
「その前に、座ってもいい?」
 仁美は向かい側の椅子を指差した。芹沢は黙って頷いた。
「鍋島さんが教えてくれたから。たぶんここやって」
「署に行ったのか」
「……うん」
「……あいつ」
 芹沢は舌打ちすると、テーブルの端に置いてあるソースの瓶を取ってアジフライにかけた。
「ソース派なんや」仁美が言った。
「えっ?」
「アジフライ」
 ああ、と芹沢は頷いた。「他に何があるんだよ」
「タルタルとか」
 芹沢はふんと笑った。「この店のどこにそんなもんが置いてあるんだ」
 まあね、と仁美は肩をすくめた。それからフロアを忙しそうに動き回っていた店員に声をかけ、芹沢の料理を指差して同じものを、と注文した。そして――
「あの、タルタルソースってお願いできます?」
 お冷やを運んできた店員に仁美が訊いたのを見て、芹沢はポカンと口を開けた。
「やってないですね」
 アルバイトの学生らしき店員は無表情で答えた。
「そうですか、ならいいです」
 店員が立ち去り、芹沢は仁美に言った。「無いって分かってて訊いたろ」
 違うわよ、と仁美は首を振った。「だって、エビフライもメニューにあるし」
「エビフライには添えてくるんだろ」
「じゃあアジフライにも添えてくれたらいいやん」
「値段に入ってねえんだよ」
「なるほど。シビアね」
 仁美はひょいと肩をすくめた。いやいや、違う。こんなしょうもない話をしたいんじゃない。でも、だからって、今さらどんな話をすれば――
「結局、京都には帰らなかったんだな」
 仁美の焦りをよそに、味噌汁を飲みながら芹沢は言った。器に目線を落とし、静かにかき混ぜて口元に運ぶ。揃った睫毛と細く通った鼻筋が絵画のように美しい。仁美の心臓は

と脈打っていた。
 ――やだ、我ながら暗示に掛かり易いったら。
「……か、帰ったわよ。でも葉子の叔父さんから連絡が来て、マンションで会うてたの」
「そういや来てたらしいな」芹沢は仁美を見た。「で、どうだった」
「あ、えっと――」
 仁美は野間とのやりとりを説明した。
「――津和野で佐伯さんと田村芙美江が知り合ったのは間違いなさそうだな」芹沢は言った。「子供のころだ。田村は六歳で大阪に来てる」
 仁美は頷いた。「葉子が大阪に来てからも、二人は交流があったのかな」
「考えにくいな。田村は養子縁組で来てるから、途中で途絶えてる可能性の方が高い。だから佐伯さんは探してたんだろ」
「結局はまだ分からないことだらけか……」
 仁美はため息をついた。そこへ彼女の分のアジフライ定食が運ばれてきた。
「あ――」
 仁美の表情が明るくなった。芹沢も「あ」と言う。
 付け合わせの千切りキャベツの脇に、隠すようにタルタルソースが添えてあった。
 仁美は運んできた店員を見上げた。店員は口の端だけで笑い、ウィンクして去っていった。
 仁美は嬉しそうに店員の背中を見送ると、箸を割っていただきますと合掌し、タルタルソースをすくってアジフライに付けながら言った。
「……ヤバい。“惚れてまうやろー”ってやつ」
「タルタル一つで惚れるなんて、()っすい恋心だな」芹沢は笑った。
「ほっといてよ」
 仁美はアジフライをかじった。サクッとした噛み応えで中の身はふっくらとして美味しい。自家製と思われるタルタルも酸味が程よく効いていて、フライに合っていた。この前来たときのどて焼きもそうだったが、この味であの値段(だいたいワンコイン前後)なら、鍋島が好評価をし、芹沢のお気に入りの店というのも納得できる。
「――それで? 用件は今日のその報告だけか」
 芹沢は付け合わせのきんぴらごぼうを口に運びながら言った。
「あ、その……昨日は悪かったなと思って。ほら、口裏合わせてくれたやん、あの人に嫌なこと言われたのに」
「あんなとこで言い返してもしょうがねえだろ。どうせ相手は全部知らねえんだと思ったし」
「助かった。ごめんね」仁美は素直に謝った。
「それはいいけど、どうしてある程度説明しとかねえんだよ。こっちにとっちゃそっちの方がありがたいけど、何もかも口止めはしねえのに」
「心配かけへん方がええかなと思って」――なんでこんなこと言うんだろう。
「どうだか」と芹沢は短く笑った。「そんな風に思ってるようには見えなかったぜ」
「えっ?」――まさか、何か(さと)られるようなことを無意識にしてた?
「まあいいさ、けどそれをわざわざ言いに来るなんて、意外と細かいこと気にする性質(たち)なんだな」
「そうでも、ないけど――」
「――ま、大きなお世話か」
 そう言うと芹沢は食べ終わった食器の乗ったトレーを少し脇にずらし、グラスを取って口許に運んだ。「ちょっと特殊なシチュエーションでもあったし」
「そ、そうよ。想定外だっただけ」
「ただ、なんで俺が巻き込まれてんだとは思うけど」
「巻き込んでる?」
「だって、実際こうやって貴重なプライベートの時間を割かれてるわけじゃん」
「…………」
 仁美は何も言えなかった。そう思われているのが正直ショックだった。でも、自分と芹沢の関係を考えると、至極まっとうな意見だ。
「……分かってるわよ。せやから謝ったやない」
 仁美は自棄になってフライにタルタルソースを塗った。


 食堂を出ると、小雨が降っていた。仁美は折り畳み傘を取り出して広げ、芹沢が出てくるのを待った。
 ――彼は傘を持っているんだろうか――
 すると芹沢が出てきて、「あれ、雨だ」と言って空を見上げた。
「……あ、こ、これちょっと小さいけど――」
 仁美が傘を差し出そうとすると、芹沢は格子戸の脇に置かれた傘立てから一本のビニール傘を取り、戸を開けて中の誰かに「これ、借りるよ」と言って向き直り、傘を開いた。柄の部分に店の名前を書いたテープが巻かれていた。
 ――良かったような、ちょっと残念だったような――
「さあ、じゃちょっと酒飲みに行くか」
「え――でも」と思わず仁美は尻込みをした。「貴重なプライベートの時間なんでしょ?」 
「もういいよ。この際だから一杯付き合えよ」
 そう言うと芹沢は仁美の肩に手を回してきた。仁美はドキッとしたが、芹沢にはまるで特別な意味はなさそうだった。それどころか、「いいから行こうぜ、お姉さん」などと言ってふざけている。なんだ、と仁美は拍子抜けするとともに少し腹が立った。
 だけど、すぐに嬉しくなった。――ああ、私ってもう――

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