4 胸糞悪い話(前)

文字数 4,541文字


「――芙美江さんは社内でも評判の美人で、啓介さんとは彼が芙美江さんのいる経理部に配属になってすぐに付き合い始めたそうです。確か三年半くらい前のことだったと思うけど。二人はお似合いのカップルだったとか。ところが、一年ほど経った頃から突然、様子がおかしくなったんです。二人ともとても沈んだ感じで、別れたわけではなさそうなのに、ギクシャクして、そのうちほとんど話もしなくなって……周囲に対しても同じだったそうです。なぜなのかは誰にも分からなかったけど、そのうち、芙美江さんにとんでもない噂が立つようになったんです」
「そんでもない噂?」
「峰尾部長と不倫してるらしいっていう噂です」
「――出てきたな」芹沢は小さく頷いた。
「けど、内田さんとは別れてるわけじゃなかったんでしょ?」
「ええ。だからこそ、みんなはただの噂なんやって思ってました」
「でも、実際はそうじゃなかった」芹沢が言った。
「……ええ。私は後になって啓介さんから聞かされて知りました。噂は本当やったって」
「ということは、芙美江さんは内田さんと付き合いながら峰尾部長とも不倫してたってわけ?」と仁美。
「いいえ、その噂が立ち始めたのが二年前の十一月で、啓介さんが真相を知ったのはそのひと月ほど後だそうです」
「芙美江さんが峰尾部長とそういう関係になったのは何で? 良好だった内田さんとの関係が悪くなったから?」
「具体的なことは聞いてません。ただ――」
「ただ?」
「辻野さんは、峰尾部長にお会いになったことはありますか」
「あたしはないけど――」仁美は芹沢に振り返った。
「俺もないけど、俺の相棒が会ったことがある。紳士ぶってるけど、裏に何かあるって分かるおっさんだったって」
「その通りです」慶子は強く頷いた。「……あの方は、表向きは紳士的で温厚な理想の上司を装ってるけど、本当は全然違うんです。やり手で、四十代に入ってすぐに人事部長になったんですけど、出世のためには手段を(えら)ばず、これまでにあの方の陰で何人もの社員が泣いてきたって話です。エリートって言われる人にとってそんなことは当たり前の話なのかも知れませんが、表と裏の違いが大きすぎる人としては、あの部長はちょっと他に例がないって。啓介さんがそう言ってました。だからきっと、芙美江さんのことも何か卑怯な手を使って関係を迫ったんだと思います」
「と言うことは、峰尾部長は女性関係にもマメだった?」仁美は芹沢を見ながら言った。
「それが、そうでもなかったそうなんですが、芙美江さんは特別でしたから。さっきも言うたように、綺麗で、頭が良くて、よく気が付いて――後輩の面倒見もいいし、とにかくあの人を悪く言う人間は誰もいませんでした。男も女も。だから峰尾部長とのことも、誰も本当だとは思わなかったんです」
「峰尾の妻は重い病気で長期入院してる。きっと

もあったんだろうな」
「それで、芙美江さんは結局どうなったの?」
「啓介さんと別れてすぐに退職しました。それからはどうされているのか……」
「去年の一月から十一月まで、坂口郁代さんとルームシェアしてたことは分かってるんです」芹沢が答えた。
「あ、それで坂口さんという方は峰尾部長を知ってたんですね。だから高槻の駅前で見たって」
「そう。でも峰尾はそれを否定した。当日はあなたの婚約者が自宅に来てたらしいですね。仲人を頼みに」
「ねえ、それって嘘やないの? 内田さん、あなたに何か言うてなかった?」
 慶子は首を振った。「確かに部長の家に行ったって」
「……やっぱりそう言うか。当然と言えば当然ね」
「仮に嘘でも、婚約者だからって彼女に本当のことを言うわけにはいかねえよ」
 芹沢はため息交じりに言うと慶子に振り返った。「村田江美子って名前に心当たりはありませんか」
「さあ。どなたですか?」
「芙美江さんが使っていた偽名です。坂口郁代ともその名前で暮らしてました。彼女がなぜ偽名を使うつもりになったのか、そこが分からないんです。犯罪にでも関わっていたのなら別だけど」
 慶子は俯いて考え込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「……私、心当たりがあります」
「えっ?」芹沢と仁美は同時に言った。
「さっき刑事さんが、いくら婚約者でも何でも話すわけにはいかないとおっしゃってましたよね。啓介さんは、さすがに一月三十日の真相だけは言いませんけど、他のことは私に話してくれました。それが結局、私に彼と別れる決心をさせたんですが」
「それはどういうこと?」
 慶子はじっと俯いていた。話すべきかどうかを迷っていると言うより、内田のことを想って胸を詰まらせているという様子だった。そのうち何度も瞬きをするようになり、長い睫毛の先が光り始めた。
「……ごめんなさいね。あたしたち、あなたの気持ちも構わずに嫌な質問ばっかり――」
 慶子は頭を振った。その拍子に左目から涙が落ちた。
 仁美が芹沢に振り返ると、彼はしかめ面をして目配せを返してきた。(何とかしろ)という意味のようだった。
「こんなときだけ女子が苦手になるわけ?」仁美は小声で言った。
「仕方ねえだろ」芹沢も小声で返す。
 やがて慶子は肩を使ってふうっと大きく息を吐くと、冷めてしまった紅茶に手を伸ばしてひと口飲んだ。
「あ、冷めちゃったね。淹れ替えるわ」仁美は慶子のカップを取った。
「いえ、大丈夫です。お構いなく」
「ううん、遠慮しないで。まだあるから」
 そう言うと仁美は芹沢のカップに視線を移した。「そっちは? 要る?」
「どちらでも」芹沢は答えた。
 じゃあ、と仁美はトレーにすべてのカップを乗せ、立ち上がってキッチンに向かった。その機会に休憩を入れようと思った芹沢は、バッグからハンカチを取り出して目元を押さえている慶子に明るい口調で訊いた。
「石川さんは今、お仕事は?」
三宮(さんのみや)のアパレル会社に派遣で働いてます。自宅が東灘(ひがしなだ)なので」慶子は答えた。「結婚して、子供が出来たら辞めてもいいかなって、考えてました」
「そうなんだ」
「……自分の人生は自分で自由に決められるって、当たり前みたいに思ってましたけど、そうじゃないってことですよね」
「いや、決められると思うけど」芹沢は首を捻った。「ただ、簡単にはいかないこともあるってだけで」
「そうですよね。そんなことすら深く考えないで――いろいろ間違ってたんですね」慶子は俯いた。「……私、どこが悪かったのかな」
「石川さんは何も悪くないでしょ」芹沢は言った。「普通じゃん」
「え?」
 慶子は顔を上げた。軽い口調で言われたのが意外だったようだ。
「普通に思うよね。ハイスペックな男性から交際申し込まれたら、普通にオッケーするでしょ。それで付き合って、まあ不満はなくて、そのうちプロポーズされたら、普通にイエスって言う。それ、どこも悪くないよ」
 芹沢は軽さを強調するようにリズミカルに言い、そしてにっこり笑った。「みんなそうでしょ。それが普通」
「はあ……」
「――ちょっと、そんな言い方しないの」
 紅茶を運んできた仁美が言った。「普通普通って。自分は特別って言いたいわけ?」
「別に」芹沢は肩をすくめた。
「ここまで男前に胡坐掻いてる人間、初めて見たわ」仁美は芹沢を睨み付けた。「クズイケメン」
「掻いてねえし」芹沢はむっとした。「だから、容姿のことは言うなって」
 そして芹沢は慶子に「ね?」と微笑んだ。慶子も小さく笑って、そして訊いた。
「お二人は、お友達なんですか」
「ううん、違うけど」仁美が答えた。「この部屋に空き巣が入ってね。それでこの人が担当」
「空き巣――」
「そう。それも実は――」
 仁美が言いかけたところで、芹沢が彼女の前に手を翳してそれを制した。余計なことは言うな、ということらしい。
「まあとにかく、いろいろ担当してるんです。人手不足なもので」
 芹沢は言って、紅茶を飲んだ。「――じゃ、続きを話していただけますか」
「分かりました」
 慶子は頷き、話し始めた。
「――実は、あの人、啓介さん、芙美江さんと付き合い始めて一年ほど経った頃の夏、仕事中に車で事故を起こしてしまったんです。お盆明けで市内の道路はどこも大渋滞で、仕事の相手を待たせてたから急いでたらしいんです。とは言っても彼の不注意ではなかったし、事故も大したものではなかったそうなんですけど、その……相手がちょっと――」
「ヤクザだった」と芹沢が言った。
「ええ、そうです。そのヤクザが、会社に乗り込まれたくなかったら三百万出せって彼を脅したんです。しかも、五日以内に用意しないとあと二百万上乗せだって。そんな大金、急に用意しろって言われたって無理でしょう。それで彼、悩んで……貯金はその少し前に自分の車を買うのにはたいてしまってました。親に相談すれば警察に駆け込まれるに決まってますし、会社には内緒にしてたから、結局はその要求を呑むしかなくて、仕方なく消費者金融でお金を借りたんです」
 芹沢はやれやれと言わんばかりにため息をついて椅子の背に身体を預けた。「そこでいともあっさり進む方向を間違えるんだよな」
「警察に相談すべきだったってこと?」仁美が言った。
「当たり前だろ」芹沢はにべもなく言った。「とりあえずどうにかなるなんて思ったんだとしたら、浅はかもいいとこだ」
「ちょっと」と仁美は顔をしかめた。
「あ、ごめん、石川さんの婚約者だった」芹沢は片目を閉じた。
「いえ、いいんです」慶子は苦笑した。
「それだけ警察があてにならへんってことでしょ」仁美は芹沢に言った。「そこの責任は痛烈に感じて欲しいわね」
「あてにならねえかどうかは、相談してから言ってくれ」
「相談したけど、民事不介入でどうにもならへんって撥ね付けられたあたしが言ってるんやから確かです」
 仁美は強く言って芹沢を睨み付け、そして慶子に向き直った。「それで、どうなったの?」
「期日通りに払ったのにもかかわらず、ヤクザは結局もう二百万上乗せして来たんです。それでまた、別の消費者金融から借金をして――」
 芹沢は呆れたように天井を仰いでため息をついた。「甘いんだよ。そうなることがなんで分からねえかな」
「……さすがにあたしもそれは分かる」仁美は言った。「二百万は期日を守れなかったことのペナルティなんかじゃなくて、最初から取るつもりだったってこと」
「脅迫はその後も続いたんですか?」芹沢が訊いた。
「いえ、そこで終わったようです。これ以上要求して警察に駆け込まれることを恐れたんだと思うって、啓介さんは言ってました。相手はそういう道のプロで、引き際が分かっていると」
「妙にそこだけ納得するんだな」芹沢は肩をすくめた。「――で、消費者金融に借金だけが残った」
「ええ。ところがその、二件目の消費者金融が悪どいところで――法外な利子が付いて、返すどころかどんどん膨れ上がって」
「要するに闇金」
「芙美江さんはそれを知ってたわけ?」仁美が訊いた。
 慶子は頷いた。「――彼にそのことを打ち明けられた芙美江さんは、ある提案をしたんです」
 仁美は慶子をじっと見た。紅茶カップを取り、ひと口含むとごくりと飲んで静かに言った。
「……もう、嫌な予感しかしないんやけど」
「経理部だもんな」
 芹沢は両手を頭の後ろに回し、納得したように頷いた。


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