3 智の証言

文字数 2,863文字

 
 あらかじめ連絡を入れておいたので、川島智の母親は二人を丁寧に迎えてくれた。
 広い吹き抜けの玄関に通されると、まずは母親から先日の食事会へ息子が招待を受けたことの礼を受けた。そして母親はフロアに置かれた巨大な観葉植物の脇にあるアンティークの椅子に置いてあった紙袋を持って来ると、ほんの心ばかりですと言って差し出した。二人がそれは困ります、公務員なので絶対に受け取れませんと必死で断ったが、でもあれはプライベートの集まりだったと息子から聞いているし、食事を振舞ってもらった上に家まで送り届けてもらったのだから何のお返しもしないというわけにはいかないとなかなかのしつこさで食い下がられ、最後には納めてもらわないと私が主人に怒られると懇願されると、もはや抵抗は無理だと悟った二人は受け取った。
「……こういうことになるんだよな」
 母親に続いて廊下を進みながら、芹沢はごく小声で鍋島に言った。
「なんとなく想像ついてたけどな。この豪邸を見たとき」
 鍋島は肩をすくめた。

 庭先のサンルームに繋がるこれまた広いリビングに通されると、二人はそこで智の出迎えを受けた。母親は部屋には入らずに廊下を戻って行った。
「――いらっしゃい」
 智は満面の笑みで言うと丁寧にお辞儀をした。「この前はごちそうさまでした」
「おい、困るんだけどこれ」芹沢は紙袋を掲げた。「何?」
「ハンカチだと思います。大丈夫、きっとそんなに高くないから」
「値段やないねん」鍋島が言った。「立場上、受け取れへんの」
「でもあれは仕事やないでしょ?」智は笑みを浮かべたまま頷いた。「一条さんの誕生日パーティー」
「……まあ、そうだけど」
「芹沢さん、ちゃんと一条さんに渡してくださいね。他の女の人にあげないで」
 芹沢ははぁ? と眉を寄せて智を睨みつけた。鍋島はあははと笑った。
 智も愉しそうに笑うと二人にソファを勧め、自分はスタンドピアノの長椅子に跨り、足をぶらぶらさせながら言った。
「――で、今日はもちろんお仕事ですよね」
「ああ。この前きみから聞いた話のことでね。何度も悪いけど」
 そう言うと芹沢はふと時計を見た。「そう言えば今日は、学校は?」
「今日は謎の休校日。新学期って、スケジュールがなかなか定まらなくて」
 そこへ母親が紅茶とケーキを運んできて、智の行儀の悪さを諫め、二人に詫びを言うとさっさと出て行った。息子が刑事の訪問を受けたからと言って、心配して付き添うつもりはないらしい。さっきの玄関での態度とはずいぶん違うなと二人は思ったが、それだけ子供の教育に自信があることの表れなのだろう。
「きみに確認してもらいたいものがあるんだ」
「はい?」智はケーキを頬張りながら首を傾げた。
 芹沢はポケットから田村芙美江の写真を取り出し、智に向けてテーブルの端に置いた。「この写真の女性だけど」
「花嫁さん?」智は写真を覗き込んだ。「――あ、違う。その隣の女性(ひと)――」
「見覚えあるかい?」
「あるある、おおありや。この前、芹沢さんが見せてくれた写真の男性と一緒にいた人に間違いないと思う」
「確かに?」芹沢は峰尾の写真も出した。「もう一度よく見て。男はこの人物で間違いなかった?」
「そう、この人」と智は大きく頷き、芹沢に向かってさらに頷いた。「この二人がやたらと深刻な顔を突き合わせて、駅前のハンバーガーショップにいたんです」
「分かった。どうもありがとう」
 芹沢は鍋島と顔を見合わせた。
「それでね、僕、あれからずっとあの日のことを思い巡らせてみて、一つ思い出したことがあって」
「え、なんだ。それを早く言ってくれよ」
 ごめんなさい、と智は舌を出した。「その女の人、男の人からお金を受け取ることになってたみたい」
「金を?」と芹沢は片眉を上げた。「受け取るっていうのは、預かるのか、何かの報酬としてもらうのか、それとも巻き上げるのか、どんなニュアンスだった?」
「それははっきりとは分からへんけど――預かるっていう感じではなかったと思う。『お金はいつ渡してくれるの』って女の人が訊いて、男の人は『来月』って答えてました。食べ終えたトレーを返却に行くとき、ちらっとそれだけ聞こえて」
 智は言うと肩をすくめた。「たったそれだけのことなんやけど」
「いや、じゅうぶんさ。ありがとう」
「せっかくの休みやのに、時間取らせて悪かったね」と鍋島。
「いいんです。休みていうても予備校の試験が目白押しで、どうせ勉強でどっこも行けへんのやし、受験生には迷惑なだけ」と智は苦笑した。「それに、母もお礼がしたかったみたいやし」
 芹沢は気の毒そうに頷いた。「大変だろうけど、頑張ってよ」
「ありがとうございます。みんなそう言います」
 智はいくぶん白けたような笑顔で言うと、残りのケーキを掬って食べた。
 
 智に見送られて川島家を辞し、車に乗り込むと芹沢がすぐに訊いてきた。
「芙美江は峰尾から何の金を受け取ろうとしてたんだろ」
「聞きようによっちゃ脅迫っぽいけどな」鍋島は答えた。「それとも、何らかの仕事に対する報酬の要求か」
「その金ができるのは一月だと峰尾は答えた。こりゃますます、一月三十一日に峰尾が芙美江に会いにこの高槻に来てたことに疑いの余地はなさそうだな」
 鍋島は頷いた。「明日からここで芙美江探しや」
「できたら

姿

でお目にかかりたい」
 芹沢は言うとサイドブレーキを解いた。

 二人の刑事を家の外で見送り、智が戻ると母親が紅茶カップとケーキ皿をトレーに乗せてリビングから出てきた。智は黙って階段に向かおうとした。
「――なんだか、刑事さんらしくない人らやね」
 母親が声を掛けてきた。
「そうかな」
 智は階段の下で立ち止まり、そっけなく答えた。
「お返し、最初は受け取らへんって言わはるから困ったわ」
「ああいうの、もうやめてよ」
「どうして? 智ちゃんがお世話になったんやから、お礼はしとかんと」
 母親の屈託のない言い方に、智は一瞬むっとして、それからため息をついた。
「そういうつもりで呼んでくれはったんやないから」
「それでもね、親としてはきちんとしとかんとね」
 母親は言うと目を細め、頬を緩めた。「背の高い方の人、イケメンさんやったわね。びっくりしたわぁ」
 智はそれには答えず、黙って階段を上がった。この人は本当に何の悩みもない、幸せな人なんだなと思った。親父の愛人のことを知ったらどうなるんだろう。取り乱して絶望して、おかしくなっちゃうんだろうな。そうなったら自分はどう振舞えばいいのか。アメリカにいる兄に伝えて、戻ってきてもらうべきか――
 自室に入ると、智は机に向かって予備校のテキストを開いた。シャーペンを取り、ノートに数式を記す。
 考えても仕方がない。少し前までは医者の家に生まれた自分の運命を呪ったけど、今は開き直った。勉強して医学部に入って医者になって、早くこの家を出ていくんだ。そして、医療の行き届いていない地域でいろんな経験を積んで、休日にはバイクで遠出をしてたくさんの人と触れ合って――

 そのための勉強だ。絶対に受かってやる。


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