第33話 リスタート

文字数 2,634文字


 ナオの再出発の日、ボクは駅まで送って行くことにした。
「荷物はみんな宅配便で送っちゃったし、あとはこれだけ」と小さなバッグ一つで玄関を出たナオは、泣きそうな顔のボクとは対照的に笑っていた。
「今までお世話になりました。ほんとにありがとう」と立ち止まって頭を下げ、ナオはボクに鍵を渡す。「思い出すと泣きそうになるから、過去のことはもう振り返らない。最後にこれだけ。どんな困難も希望を持って進めば必ず乗り越えられる。だから純さんもベストを尽くして」

 プルリをバックに駐車場で何枚も記念写真を撮った。さすがにナオも過去を振り返らずにいられなかったのだろう。
「プルリとはほんとに沢山たくさーん……思い出があるね」
「君が見つけたクルマだからね」
 ナオは名残惜しそうにそのオレンジ色のボディを見つめていた。

 新種のウイルスが日本にも少しずつ流行り始めていた。
「都心は大丈夫なのかな」と心配するボクに、ナオはまた少し困った笑い顔を見せた。
「純さんは心配性ね」
 駅前に着いたプルリの助手席でナオは一言ボクに告げた。
「いつか女優として私を使ってね」
 ボクは黙って頷いた。
「元気でね」
「純さんも」
 別れの言葉はたったそれだけだった。なぜもっと気の利いた言葉を掛けてあげられなかったのだろう……。ボクは心の中で自分を責めた。

 ナオを駅まで送り届けた帰り道、納車以来一度も故障したことのなかった愛車——ナオがプルリと名付けた——シトロエンC3プルリエルが突然止まった。
 ボンネットの下から金属がぶつかり合うような激しい異音がして、エンジンがウンともスンとも言わなくなった。その瞬間、山下さんの忠告を思い出した。
 バス通りで通行の妨げになってしまったのを見かねて、数人の男性が路肩まで押してくれたが、その中の一人がこんなことを話してくれた。
「前に乗ってたんですよ、シトロエン。良いクルマですよね。僕はC4でしたけど故障が多くて、結局手放しました」
「このクルマには一年半乗ってるんです。でも今まで一度も故障はなかったんですよ」とボクは少し自慢げに応えた。
「それは当たりですね。それならきっと直りますよ」

 ロードサービスに連絡してレッカー車で運んでもらったプルリは、正規ディーラーのサービス工場でボンネットを開いたまましばらくじっとしていた。
 冷めたコーヒーを飲みながら待っていたボクのところに、黒い油まみれの手を拭きながらメカニックがやってきた。すでにサービスは時間外になっていた。
「残念ですが、あのエンジンはもう直りませんね。タイミングベルトが切れていましたから」
 あんなに納車時に念を押されていたのに、ボクは自分に都合の良いアドバイスに従って、交換を後回しにした。それでもダメ押しのように言ってみた。
「ベルトが切れるような音じゃなく、金属がぶつかり合うような激しい音がしたんです。それにさっきボンネットを覗いたとき、切れてるようには見えなかったんですけど」
「ベルトが切断されたわけじゃなくて、コマ欠けって言ってバルブを動かしてるベルトのコマが崩れちゃったんです。金属音は、たぶんタイミングが合わなくなってバルブクラッシュした音でしょう。そうなってしまうと、もう元には直せないんですよ」
 それは「ご臨終です」という言葉以外の何ものでもなかった。ナオとの別れの日にプルリは死んだのだ。
「わかりました。もっと早く交換しておくべきでした」
「国産車なら十万キロくらいで交換って言われますが、輸入車はそんなに保たないんです」とメカニックも残念そうな顔をする。「エンジンを載せ替えるのも不可能ではないですが、車両自体を買い換えた方が安いので、廃車にするのが良いと思いますよ。下取りには出来ると思いますので、良かったら営業と相談してみてください」
「いろいろすみません。次のクルマは少し時間をおいてから考えます。でももし廃車になるなら、シートだけでも外して持って帰れたら……」そこまで言いかけて、ナオとの思い出に固執している自分に気づいた。「やっぱりやめておきます。普通に廃車の手続きをお願いします」

 結局、ボクはプルリを下取りに出すことにした。
 手続きのために再度ディーラーを訪ねたとき、C5ツアラーというステーションワゴンの中古車が展示されていた。ディーラーのお客さんが大事に乗っていたクルマだと言うが、日本語で「艶消しの象牙」を意味するマティポワールというフランス車独特の外装色とベージュの内装は、プルリとは対照的に大人の色気を感じさせる。二十代で乗るには渋すぎるだろうか?
 試乗させてもらって、その乗り心地の良さに驚いた。「魔法の絨毯」と呼ばれるシトロエン独特のハイドロニューマチックサスペンションを持つ最後の車種——と、助手席で営業マンが説明してくれた。
「C5はすでに製造を終えているので、シトロエンらしいこの乗り心地がもう中古車でしか手に入れられないのは残念ですが」
 C3プルリエルのように奇抜な変化は楽しめない地味で普通のクルマだが、大型犬を乗せられるくらい広い荷室には沢山の機材を積むことが出来そうだ。傷や汚れも殆どなく、ボクは心の中で決めていたが、一つだけ気になったことがあった。
「走行距離が7万キロになってますけれど、タイミングベルトは交換済みですか?」
「プリンスエンジンと呼ばれるこのクルマのエンジンはタイミングチェーンなので交換は不要です」
「プリンスエンジン?」
「プジョー・シトロエンがBMWと共同開発した1.6リッターエンジンの愛称ですが、タイミングベルトのように切れることはありませんからご安心ください」
 ボクはその日のうちに契約書にサインした。

 ナオが出ていったあと、ボクは以前のナオの部屋をスタジオ兼機材室に改装した。
 自分の動画配信よりも、人の配信を手伝ったり、システムの構築や機材のセットアップを頼まれる機会が増えて、機材を置くスペースに困っていた。そのため、衣食住と仕事のスペースをきっちり分けることにした。
 漸く覚悟が決まったボクは、ずっと休学中だった大学に退学届を提出した。ウイルスによるパンデミックの影響を受けて、ゴールデンウィークの頃からコンサートやライブが次々と中止になり、やがてそれは無観客イベントへと変化していった。動画配信をサポートするボクの仕事は増え続け、三人の学生アルバイトを雇って、かつてナオと暮らしたマンションを事務所にして新たな会社をスタートした。

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