第7話 性別のない星

文字数 3,189文字


 晴天に恵まれた日曜日、湘南での二度目の撮影で、ボクはナオをモデルにドローン三台の比較テストを実施した。
 葉山のペンションで三十分近くかけてプルリをオープンカーにコンバートし、一番大きなパーツ——左右のサイドアーチをガレージに預けて、ボクたちは逗子海岸を抜け、由比ガ浜、稲村ヶ崎、七里ヶ浜と、湘南の海岸を流しながら最適なロケーションを探した。
 ナオが見つけてくれた海の見える脇道で、フルオープンにしたプルリを何度も往復させ、上からドローンで追いかける。しかし走行するオープンカーを空撮するボクのアイディアは、小型のドローンにはハードルが高すぎて、要求に応えてくれたのは定番と言われる一機種だけだった。
 その後も七里ヶ浜の砂浜を歩くナオを空から捉えたり、ビーチボールを追いかける姿をフォローさせたりと、ボクはドローンのテスト撮影を続けた。秋も深まってきたその日の風は冷たく、長く続けるとナオの負担になりそうだったから、撮影はほどほどで切り上げた。
 仕事の後の楽しみは前回適わなかった海辺での自由時間で、この日をボクはナオとの四回目のデートと考えていた。

 葉山に戻ったボクたちは、十年前まで銀座でシェフをしていたというペンションのオーナーが腕を振るうランチで空腹を満たし、淹れたてのコーヒーとデザートで英気を養った。そのあとボクたちにはちょっと骨の折れる一仕事が待っている。
 ガレージに預けてあったサイドアーチをナオと二人で運び、プルリの両脇に置く。三郷で初めて出会った日に山下さんが格闘していたそのパーツは、左右一つずつが重さ十キロ以上ある。リアシートのカバーを外して一旦トランクに収め、二人がかりで左右のサイドアーチを固定し、最後にトランクに収納していたリアウィンドウと幌を元の位置に戻す。朝、取り外した時に要領を掴んでいたから、ボクたちは十五分ほどで作業を終え、プルリは元のクーペスタイルに変身した。
 ランチの支払いを済ませてオーナーに謝礼を渡すと、ボクたちはプルリの鼻先を三浦半島の反対側に向けた。

 海辺の駐車場にプルリを駐めて東京湾を望むと対岸には房総半島が見える。三浦海岸の砂浜は湘南よりも砂の色が白い。午前中もこちらで撮影すれば良かったと少し後悔しながら、ボクは鮮やかなオレンジ色のプルリをバックに、いつものカメラでブログやインスタグラム用にナオの動画やスナップを撮影した。
 仕事から解放されたボクはカメラを車内に置いて、ナオと二人で人気の少ない海岸を目的もなく歩きはじめた。
「もう撮影はしないんですか?」
「今日は充分撮影したしたからフォニッシュ。ナオも疲れたでしょ?」
「ううん、全然! お天気も良いし、楽しかったです」
 ナオの笑顔にボクは安心した。
「ありがとう。ナオには感謝してるよ」
「純さんもお疲れさまでした」
 歩きながら二人の手の甲が一瞬触れ、それをきっかけにボクは思いきってナオの手を握った。拒否されたらどうしようと不安に思っていたら、そのまま握り返してくれた。そうしてボクたちは手を繋いでしばらく海岸を歩き続けた。
 すると、何も言わずに歩き続けていたナオが突然足を止めた。ボクも歩を止めてナオの顔を見る。胸が締め付けられるような切なさを感じたボクは、ナオのもう一方の手を取って真っ直ぐに向き合った。ナオはじっとボクを見つめている。潤んだ瞳が意味するものをボクは好意的に受け取った。まるで自然に吸い込まれるようにナオの唇に自分の唇を重ねたが、ナオの唇は、肩は、背中は、ずっと小刻みに震えていた。そして互いの唇が離れたときに、ナオは呟くように言った。
「わたしたち友だちじゃなかったの?」
「君みたいに素敵な子と手を繋いで海辺を歩いていたら、ただの友だちではいられなくなるよ」
 苦しい言い訳だったけど、ボクは強引に唇を奪ったわけじゃない。二人は何気なく立ち止まって自然と向き合い、どちらからともなく唇を重ねたのではなあったのか?
 ナオの滑らかな白い頬を透明な涙がすーっと流れ落ちる。ボクはそれを黙って見つめていた。どうやら、ボクの言い訳はナオを追い詰めてしまったようだった。
「ずっと友だちでいたかった」
 悲しそうな表情を見つめていたらボクの胸は張り裂けそうになった。今さら「ごめん」とはとても言えない。しかし、謝ったのはナオのほうだった。
「ごめんなさい。わたしは純さんの彼女にはなれないの」
 ボクは現実に引き戻された。
「彼氏がいるの?」ボクは最悪のケースを想定していた。「もしかして結婚してる?」
 ナオは強く頭を振る。
「ナオがどんな悩みや問題を抱えていても、ボクは受け止めるつもりだよ」
「純さんは……きっとわたしの名前、本名を聞いたら失望する」
 ナオの言葉にボクは安堵し、そして笑いがこみ上げてきた。なんだそんなことかと、勝手に思い込んでいた。
「ボクは国粋主義者じゃないし、差別は大嫌いだ。ナオがどこの国の人でも気にしないよ」
「そんなことならずっと楽だった」蚊の鳴くような声でナオは続ける。「わたしの本名は……黒島ナオ……」
「ごめん。よく聞こえなかった」とボクは聞き返した。「今、なんて言ったの?」
「尚は尚更の尚。それに人という字を書いて尚人……わたしの本名は黒島尚人」ナオは嗚咽しながら必死に次に続く言葉を紡ぎ出した。「わたし……女の子じゃないの」
 青天の霹靂のような告白にボクは言葉を失った。ずっと一緒にいたのにまったく気づかなかったから。
「ほんとにごめんなさい」ナオの頬を大粒の涙が幾重にも流れ落ちた。「黙っているつもりはなかった。でも、ほんとのことを言ったら嫌われるんじゃないかと思って、ずっと言い出せなくて。今日こそは言わなきゃって思ってたのに……」
 たぶんほんの数秒——でも、それが永遠に感じられるほどの長い空白がボクたちの間に流れた。
 沈黙を破るようにボクはナオを抱き寄せ、そして強く抱きしめた。
「ナオはどんな女の子よりも女らしいよ」とボクは本音を口にしたが、それは却ってナオを傷つけるだけだった。君を思う気持ちは変わらない——そう口にしたかったのに、ナオの下腹の膨らみが少し硬くなっていることを察知したボクの身体は、無意識に反応して、ほんの一瞬、ほんのわずかにナオの身体を遠ざけた。
「ごめん」と言葉が口を突いた。ナオはボクの困惑を敏感に感じ取っていた。言葉に出さなくてもボクにはそれがわかる。
「だからずっと友だちでいたかった。友だちなら純さんを傷つけずに済んだから」
「傷ついてなんかないよ」とボクは言った。傷ついてるのはナオのほうじゃないか——と言いたかったが、その言葉はもうナオの心には届かない。
 海の向こうに視線を移しながらナオは呟いた。
「性別のない星に生まれたかった」

 三浦海岸からの帰り道。ナオは一言も喋らず、プルリの助手席から外の景色をじっと眺めていた。ボクも何も言わずに黙ってハンドルを握っていた。思いついたことや考えたことを言葉にしたところで、それがナオの心をなおさら傷つけてしまうことが想像できたから。
 ボクはナオを女性として好きになった。ナオはそれを痛いほど理解していて、男と女という性別の狭間で苦しんでいる。
 ボクと一緒に過ごした時間、ナオはどんな気持ちでいたのだろう? そう考えるといたたまれなくなってくる。
 あの日、水族館でずっとクラゲを眺めていたとき、それまでの(しがらみ)から解放されて、ナオの心はミズクラゲと一緒に水槽の中を自由に泳ぎ回っていたのだろう。

「純さんにはいつかちゃんと説明します」と言ってくれたナオ。ネットのバッシングを心配していたナオは、今までに沢山の辛い経験を重ねてきたに違いない。
 友だちになって欲しい。友だちでいて欲しい、友だちとして理解して欲しい——そう願っていたナオの心をボクは無理矢理こじ開けてしまった。
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