第17話 オリーブの島

文字数 3,951文字


 始発のフェリーで小豆島に向かい、ボクたちはプルリと共に朝八時半に大部港(おおべこう)に着いた。いつも四国の側から島に渡るナオが本州と結ぶフェリーに乗ったのは、小学生の頃に父親の運転するクルマで京都に旅行したとき以来だという。
 レイの生家もナオの実家も小豆島町で、土庄町(とのしょうちょう)にある大部港とは島の反対側になる。ボクたちはプルリで島の西側を半周して、オリーブ公園で一息ついてから十時半頃に訪ねる計画を立てていたが、下船して間もなくナオのスマホに着信があった。
「レイのお母さんが、用事がなければすぐに来て欲しいって」とナオは言う。
「ナオもそうしたい?」と聞くと、こくりと頷いた。
 ボクは予定とは逆の方角にプルリの鼻先を向け、島の東側の海岸沿いに県道26号をぐるっと半周して、四十分後には小豆島町に到着した。この辺りで多摩ナンバーを見かけることなど滅多にないのだろう。道の途中で行き交う人が、オレンジ色の小さなクルマのナンバープレートに驚きの表情を見せていた。

 レイの生家には母親の逸美さんが一人で暮らしていた。一人っ子だったレイが幼い頃に両親は離婚し、父親は高松で叔母にあたる逸美さんの妹と再婚した。レイは亡くなる直前からその父親の家に下宿し始めた——ボクはナオからそう聞かされていた。
「今でも後悔しとるんよ。通学が大変でもここから通わせれば良かったって」と、焼香を終えたボクたちにお茶を入れながら逸美さんが話してくれた。「あの子は賢い子じゃけん、父親の家族とも上手くやっていけるってそう言うとったけど、自分捨てて出て行った父親が母親の妹と仲良う暮らしとる姿……近うで見るんはきっと辛かった思うん。そんなん言うと、後ろを向くなってレイに叱られそうやけどな」
 しばらく写真アルバムを開きながら、ナオと二人で思い出話に花を咲かせたあと、逸美さんは突然切り出した。
「三回忌のとき、あの子が殺されたって言うたけん、ナオちゃんビックリしたやろ?」
「でも……」ナオはしばらく間を置いてから続けた。「今はわたしもそう思うん」
 逸美さんは深く頷く。
「藤本っていったっけ? そいつに問い詰めればわかるんじゃないかな?」と一言、ボクは挟んでしまった。ナオは何も言わなかったが、逸美さんが反応した。
「藤本いうその子、中学の先輩や言うてレイにお参りしたいってここに来よった。名前聞いてピンときたけん、追い払って塩撒いたわ」
「よぅこの家の敷居がまたげるわ」と言いながらナオはうっすらと目に涙を溜めていた。「あいつに遭わなかったら、レイはここにいたはずなのに」
「ナオちゃんから電話貰うてからね……」と逸美さんは一枚の名刺を見せた。「こんな人が訪ねて来たんよ」
 名刺には『高松地方検察庁検事 木村 有紗(ありさ)』とあり、その下に手書きで携帯電話の番号が記されている。
「ずいぶん若い子やったけん、あんたが検事さん? ってびっくりしたけど、東大の法学部出身やて」と言いながら逸美さんはレイの遺影に視線を移す。「殺人容疑では不起訴になったけど、不審な点があったけん性犯罪として起訴できるかも知れんって。ちょうどあの子の三回忌の年に刑法が改正されて、性犯罪は被害者の告訴がなくても起訴できるようになったんやて。百十年ぶり言う大幅改正が、あの子の命日の翌月に国会で成立したんは、レイがあの世から働きよったんやない?」
「きっとそうですね」と言いながらボクもレイの遺影を見つめた。あらためて見ると宝塚の男役のような整った顔立ちをしている。レイとナオが並んで歩く姿はさぞかし美しかったに違いない。二人を『エイリアン』と呼んだ藤本は、きっとレイとナオの美しさに嫉妬していたのだろう。
「連休明けに高松でレイの足取りを調べたいから協力してくれへんかって言われたけど……。いろいろ判ったかてレイが生き返るわけやないし、うちは高松にはもう帰りとうないん」と逸美さんは苦笑したが、急に思い出したようにナオに呼びかけた。「ナオちゃんたち、高松にはいつまでいるん? その検事さん、四日には高松に戻る予定や言うとった」
「五日の夕方にはここに戻って来る予定なんです」とボクは応えたが、ナオがそれを訂正した。
「六日にこちらを発つ予定やから、それまでは高松にいれますよ」
「今、電話しよか?」と、逸美さんは名刺に貼られた付箋を見ながら携帯のボタンをプッシュする。電話は繋がらなかったが、しばらくすると先方からの着信があった。
 逸美さんは電話の向こうの木村検事としばらく話をしていたが、最後に携帯をナオに渡した。
「黒島ナオです。……はい、八木レイさんの同級生です。……ほんとですか? わかりました。それじゃ、四日の十六時に高松港で……」と受け答えし、ナオは最後に自分の携帯番号を伝えていた。聞こえてきた返答だけで大凡の話の流れは理解できた。

                 〇

 ボクたちが帰り支度をはじめたとき、逸美さんがナオに訊ねた。
「ナオちゃん、今日は実家に帰るの?」
「はい。このあと彼を案内しながら島巡りして、夕方には」とナオは答える。
「お昼はどうするん? よかったら家で食べてって。毎日一人じゃ寂しいけん」と逸美さんはボクたちを引き留めた。「オリーブ公園のレストランよりうちのパスタの方が美味しい思うよ」
 ナオはまんざらでもなさそうだったから、ボクも素直にご相伴にあずかることにした。
 オリーブオイルをタップリ使ったお手製パスタは、自慢するだけあってなかなかの美味だった。ボクがお替わりまで完食して、三人で食後のコーヒーを飲み始めたときだった。
「さっきな、検事さんと長う話っしょったろ?」と逸美さんが語り始めた。「四年前、取り調べ受けたの二人おるって話はナオちゃんも知っとるよね?」
「名前はわからんのやよね」とナオは応える。
「被害者の家族には教えられんって理不尽やな。それがな、そのうちの一人と検事さんが東京で会うてきたんやて」
「東京で?」
「なんでも盗撮かなんかで捕まって服役中って言うてた」
「その男、山本信治って名前じゃないですか?」とボクの口から咄嗟に名前が出た。
 ナオが飲みかけたコーヒーを喉に詰まらせて大きく咽せた。ボクが背中を摩るとナオは少し落ち着いたようだったが、顔を覗き込むと大きく目を見開いていたまま、瞼も睫もピクリとも動かさない。頬からは血の気が失せて、唇は紫色になっていた。
「名前までは知らんけど、検事さんに会うたら教えてくれんかな?」と言うと、逸美さんもナオの異変に気づいた。「ナオちゃん、どうしたん?」

 四年前のまま綺麗に整えられたレイの部屋のベッドで、ナオは少し休ませてもらうことになった。逸美さんと二人になった時に、ナオの盗撮事件の事を伝えるべきか迷ったが、まだその男が山本と決まったわけじゃない。結局ボクは何も言わなかった。
「お母さん……」
「逸美でええわ」
「逸美さん、ボクは不思議なんですけど、レイさんがこんなひどい目に遭ったのに、どうしてそんなに穏やかにいられるんですか?」
「うちが穏やかに見える?」と逸美さんは微笑んだ。「一年前までは憎しみと怒りが抑えきれなかったん。今のうちが冷静に見えるとしたらお寺のおかげやな」
「お寺?」
「ときどきお寺で祈ってるの。そうするとレイがいろいろ教えてくれる。恨みや憎しみや怒りはお母さんを不幸にするだけだから、ボクのことは振り返らずに前に進んで行って欲しいってレイが言うのよ」
「亡くなったレイさんが?」
「変なこと言うおばちゃんって思うたでしょ? でも、うちはレイの言葉を信じとる」

 ナオの回復を待って、ボクたちはレイの実家をあとにした。その日の島巡りは諦めて真っ直ぐナオの実家に向かう。けれど、ナオは心ここにあらずという感じでほとんど口を利かない。一家はボクたちのために豪華な夕げを準備してくれていたが、ナオはほとんど口も付けないまま部屋に引き籠もってしまった。
「ごめんなさいね。あの子、お客さん連れて来とるのにどうしたのかしら」と言う家族に、ボクはどこまでナオのことを話していいか悩んでいた。少なくとも、本人がいないところで事件のことをご両親に話すのはナオが望まないだろう。ボクは「お母さんだけは最初から理解者だった」とナオが話してくれたことを思い出した。お祖母さんの部屋に案内されたあと、ボクは布団を敷区のを手伝いながら、その日のことや盗撮事件のことをナオの母親に少しだけ話した。
「あの子、なんも教えてくれんけん……」とお母さんは悲しそうな顔をする。
「心配させたくなかったんだと思います。でも、ボクがナオさんを守りますから」
「レイちゃんもそう言ってくれとった」と言ってから、ナオの母親は自分の言葉を否定した。「あぁ、そう言う意味じゃのうて……あんたのことはナオが信じとるけん、私たちも信じとるよ」

 一人湯船に浸かりながら、ボクは逸美さんの言葉を思い出していた。盗撮で捕まって服役中——という男は、きっと山本に違いない。それにしても不思議だ。山本はナオを追って東京まで来ていたのか? それはレイとナオの関係を知ってのことだったのか? そんな奴が隣の部屋に住み着いて、毎日言動を監視されていたら、いったいどんな気持ちになるだろう。そう考えたら、ナオの恐怖や不安は痛いほど理解できた。
 犯人の正体は木村有紗という検察官に会えば判るだろう。藤本という先輩がレイの焼香に訪れたということは、いくらかは人の心が残っているに違いないし、その男から証言を得ることは難しくないようにも思える。刑法が改正されたのは追い風だ。きっとレイは、母親の逸美さんではなくボクたちに真実を託したかったに違いない。
 ボクはレイに誓った——ボクがナオを全力で守る。
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