第18話 オリーブと潮の香り

文字数 3,376文字


 一晩休んだらナオは元気を取り戻した。朝の挨拶を交わすと、ナオは「昨日はほんとにごめんなさい」とすまなそうに頭を下げた。
「少しは眠れた?」
「はい」とナオは小さく頷いた。「昨日案内できなかったから、今日これから島を案内してもいいですか? 検事さんとの約束は明日やし、高松には夜までに着けばええかなって」

 家族との朝食の時間もナオは精一杯明るく振る舞っていた。きっとそれがいつものナオの姿なのだろう。十歳も年の離れた弟の隼人(はやと)は「ナオ、ナオ」と呼びながら、ごく自然にお姉ちゃんに甘えるようにナオに接している。
 出発の時間が近づいた頃、「帰りはこっちに寄らんで、高松からまっすぐ帰るかもしれん」とナオがいきなり言うので、弟は「うそやん」と泣きそうな顔を見せ、家族の口からも溜息が漏れた。一斉にボクの顔に注がれる視線が痛い。
 別れ際、ナオの両親にお世話になったお礼を言うと、「この子のこと、よろしゅうお願いします」と深々と頭を下げられた。
 隼人にまで「ナオのこと、ちゃんと守ってな」と言われたので、「おぅ。まかせとき」とボクは自己流の西日本訛りで応えた。

 ナオは長い間プルリの助手席から手を振っていたが、家族の姿が見えなくなったのか前に向き直って窓を閉めた。
「昨日はほんとにすみません。レイのためにも、もっとしっかりしなくちゃって反省しました」
「ボクも反省した。ナオちゃんの気持ち想像してみたら、どんなに不安で怖ろしかったか、少しわかった気がする」
「ありがとう。でも、わたしはこうして元気にしてるし、純さんや、家族や、石川さん、沢山の人が助けてくれるから」
「レイくんのことを思うと居たたまれないけど、今のボクたちには追い風が吹いてると思うんだ。逸美さんも信じて任せてくれたし」
「はい。わたしもそう感じます。でもほんとに純さんが来てくれてよかった。わたし一人だったら何も出来なかったから」
「ボクで出来ることなら何でもするよ」
「うん……」と言ったあと、ナオは少し間を置いてボクを見つめながら口を開いた。「でも、そんな純さんに一つだけクレームがあります」
 言われる前に察しがついた。
「ごめん。お母さんに盗撮事件のことを少し話した」と自分から謝った。「昨日のナオの様子を見てみんな心配してたから、お母さんにだけはほんとうのことを言ったほうが良いかなって……」
「被害届を出したとき、親には伝えないでほしいって警察に頼んでたから、帰ったらちゃんとわたしから話そうと思ってた」
「そうだったんだ。ほんとにごめん」
「でも、母だけに話してくれてありがとう。父が知ったら大騒ぎするから。今朝、母から聞かれたときはビックリしたけど、レイの事件との関係もちゃんと伝えられたし」

 ナオに案内されるまま、ボクはプルリをナオたちの母校の前に駐めた。
「ここが私たちの中学」
「校舎が想像とかなり違っててビックリした。島の学校って『二十四の瞳』みたいなのをイメージしてたから」
「えー? なにそれ」とナオに笑われた。
「いったい、どこの話?」と言うナオの言葉は『こ』にアクセントがあった。ボクとの会話でもいつもの標準語じゃなく、すっかり地元のイントネーションになっている。
「生徒は何人くらいなの?」
「どんどん減ってるみたいだけど、わたしたちの頃は特別支援学級も入れて、全校で三百人くらいかな?」
 ボクはカメラをナオに向け、動画のシャッターをオンにする。
「あんまり寄らないでね。顔色悪いから」と言いながらも、ナオは自然な笑顔を見せ、学校の前を歩き始めた。朝一番に見せた元気が無理をしていただけじゃないと判って、少しホッとしながら、ボクはナオをフォローする。
「中に入ってみますか?」とナオが言うので、ボクはカメラを止めた。
「事前に約束してないとまずいでしょ?」
「純さんは慎重すぎる。何か言われたら、卒業生ですって言えば問題ないのに」
「ボクは卒業生じゃない。単なる不審者だよ」と言うと、ナオはお腹を抱えて笑った。

 ナオの母校を後にしたボクたちは、前日予定していたオリーブ公園に向かった。開花は五月の下旬頃だからオリーブはまだ蕾だとナオは言うが、青葉の匂いに混じって花が咲き始める前の爽やかな香りが、開いたサイドウィンドウから車内に入り込みボクたちを包み込んだ。
 ナオの案内に従って道の駅にプルリを駐めたが、オリーブ公園と聞いて小さな公園をイメージしていたボクは、温泉や宿泊施設まであることに驚いていた。撮影スポットも山ほどありそうだ。
 ロッジの前にある小さな鐘を鳴らすナオの姿を動画に収め、こちらに向き直ったタイミングでズームインすると、ナオはカメラの前に手をかざして顔を隠した。
「寄っちゃダメ。寝不足だし、メイクもちゃんとしてないから」
 昨日のショックが尾を引いているのかもしれない——と心配したボクはカメラを止めようとしたが、ナオは「撮っちゃダメ」とは言ってない。再び歩き始めたナオをフォローしながらしばらく歩き続けた。
 ゴールデンウィークとあって観光客が多く、あちこちでほうきに跨がってジャンプする姿が目に入る。景色は抜群なのに、曇り空の下でほうきとじゃれ合う人々の姿は、動画に映るとなんとも滑稽に見えてボクはカメラを止めた。
「ここは『魔女の宅急便』のロケ地だったから、魔法のほうきの貸出があるの」
「あぁ、それでみんな跳び上がって写真撮ってるんだ? でも『魔女の宅急便』ってアニメじゃなかった?」
「実写映画もあるの。純さんが知らないなんて驚き」と笑うナオの表情を見てボクは安堵した。
 ボクはもう一度カメラを覗いてみた。これで空が青かったらさぞかし綺麗な写真が撮れるだろう。
「ナオもほうきに跨がって写真撮る?」
「えー、恥ずかしい」
「でも、それなりの歳の人もやってるよ」
「オリーブ記念館で貸し出してるから、ちょっと行ってみる?」
 無料貸出だという「魔法のほうき」は、残念ながら全て貸し出し中だった。でも、ディズニーランドのようなテーマパーク感と言ったら良いのか? ここはちょっと出来過ぎな感じもする。大勢の人が訪れるこの時期よりも、ちょうど開花の季節の平日にそっと来て、周りを囲むオリーブ畑でナオを撮影したい、とボクはそんなふうに思った。
 公園内のレストランで、小豆島名産の(はも)のどんぶりと、「オリーブ豚」と呼ばれるブランド豚の焼き豚丼を注文し、二人で半分ずつ頂いた。逸美さんのパスタも美味だったが、これはこれで悪くない。
 外を眺めると、少しずつ雲が晴れて、顔を出した青空から光が射し込み、辺りはどんどん明るくなっていく。
「ちゃんとした撮影機材を持って来てれば、ナオをモデルにいろいろ撮影できたね」
「でも連休中は人が多すぎるし……」
「公園よりもオリーブ畑で撮影したいな。許可が必要だろうけど」
「純さんはすぐお仕事モードになっちゃうから」とナオは苦笑している。「午後はもうカメラを置いて、リラックスして島の空気を味わってね」
「そうだね」ボクは手にしていたカメラの電源を切ってテーブルに置いた。「さっきはいきなりカメラ向けてごめんね」
「ううん。レンズがこっち向いてるとわたしもついその気になっちゃうから」
 よく見るとナオの目の下にはうっすらと隈が見える。ボクが守る——と口では言いながら、知らず知らずナオに負担をかけていることを、ボクは心の中でレイに詫びた。

 午後は五月晴れと言うより初夏のような日差しになった。ナオはストローハットを持っていたから、思い切ってプルリのソフトトップをオープンにする。ボクたちは全身に紫外線を浴びながら夕方まで島を巡った。

 小豆島から高松に向かうフェリーの港は主に二つ。ナオの実家から歩いて行ける小豆島町の池田港と、同じ土庄町と言ってもボクたちが着いた大部港からは遠く離れた島の西端に位置する土庄港。ボクたちは四年前の四月にレイが高松の高校に通った国際両備フェリーで、池田港から高松港を目指すことにした。
 フェリーから望む海面は夕日に染まり、海を見つめるナオの頬を紅く照らす。ボクはナオの姿をファインダーに捉えたが、シャッターを切らずにレンズを海に向けた。そうやって船の上から瀬戸内の海を眺めていると無性に血が騒ぐ。何故だろう? ボクの先祖もこの潮の香りを嗅いでいたからかもしれない。
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