最終話 ウィスパーボイス

文字数 2,970文字

 パンデミックはいっこうに収まらず、芸能界も放送・映画業界も大きな打撃を受けた。女優として出発したばかりのナオも、映画が公開延期になったり、予定していたテレビ番組の内容が突然変わって降板されたりと、かなり翻弄されていた。
 放送や映画業界に逆行するように事業が軌道に乗り始めたボクは、前に渡し損ねた小豆島の写真や動画のリンクを記し、陣中見舞いの意味も込めてナオに暑中見舞いのメールを送った。
 翌日届いたナオからの返信メールには、「誕生日までに名実ともに女性としての一歩を踏み出します」と決意が記され、添えられていた画像の耳たぶにピアスホールが見えた。

 二十一歳の誕生日に何を贈ろうか考えながらインターネットでジュエリーを探していたとき、ふと美澪さんから貰ったゴールドのピアスを思い出した。
 義姉の形見をナオに贈るわけにはいかないが、ボクの手元には以前かなり熱中したシルバーアクセサリーの自作キットがあった。美澪さんのピアスの型を取り、ボクは一組の純銀製ピアスを完成させた。ケースだけをネットショップで注文し、その中に出来上がったピアスを収めると、どこかのジュエリーショップに並んでいてもおかしくないとさえ思えた。オリジナルのゴールドよりもシルバーのそれはナオに似合いそうだった。
 ところがじっと見つめていると、今更こんな手作りのプレゼントを喜んでくれるだろうか? 一生忘れないと言ってくれたのはリップサービスだったんじゃないか? もうボクのことは思い出したくないのでは? とネガティブな念いが次々と浮かんでくる。そんな迷いを絶ち切るように、誕生日前日を日付指定して事務所宛てに宅配便で発送した。

 誕生日から二日ほど経ってナオから届いたメールには「素敵なプレゼントをありがとうございます。大切にします」とそれだけ書かれていた。そのまま返信しようとしたら、送信元が事務所のオフィシャルメールだったことに気づいた。
「時計の針は戻せない」とバレンタインデーの夜にナオが呟いた言葉をボクは心の中で繰り返し、自分を慰めた。送り返されなかっただけまだ良かったじゃないか——と。


 時は過ぎ、ナオの姿は映画のスクリーンに度々登場するようになっていた。
 あるとき新作映画の予告編に「黒澤奈緒」と書かれたテロップを見つけ、ボクはナオが改名したことを知った。それ以来ナオが出演した映画はどんな端役でもすべて観ることにした。

 映画への思いは捨て難く、動画配信の現場は正規雇用した三人に任せ、REDという映画専用カメラのオペレーションや、グレーディングと呼ばれる撮影後の色処理の技術を学び、ボクは映画制作の現場に自分の身を置くことに成功した。
 映画関係者には昔からLGBTQの人が多いが、ナオと別れてからのボクは、黒澤菜緒が演じるような「普通の女性」や「普通の女の子」への興味を失っていた。

 映像業界、特に映画の世界はとても狭い。やがて当然のように再会の日はやってきた。

「おはようございます」と、他人行儀に挨拶を交わしたあと、ボクは振り袖撮影の時と同じようにじっとナオを見つめていた。違うのはそれがボクからの一方通行で、ナオからのアイコンタクトが期待できなかったこと。
 撮影機材のオペレーターとして現場に存在する自分と、カメラの被写体としてスクリーンに映し出される女優の間には、目には見えなくても水族館の水槽の分厚いガラスほど隔たりがある。
 あの日、ナオが優雅に泳ぐクラゲをじっと眺めていように、ボクは演技に集中するナオの姿をじっと眺めていた。

「もしジュンが賛成してくれるなら、いつかここにクラゲの水槽を置きたいな」
 今は事務所として機能しているリビングで、ナオがそんなことを語っていたことをボクは思い出していた。
「クラゲを飼うのって結構大変じゃないの? 水の交換とか。前にそんな話聞いたことがある」
「初心者向けの小さいセットもあるけど……。普通の大きさのミズクラゲはかなり大きな水槽じゃないと可哀想」
「それじゃ、ナオが女優になって、ボクが映画監督になってからだね。そのときはもっと広いところに引っ越して、大きな水槽でクラゲが元気に泳ぎ回れるようにしよう」
「そうね」と言ったまま、ナオは目を細めて何もない空間を見つめていた。
 女優としてのキャリアを重ねたナオは、もう大きな水槽でクラゲを飼うようになったのだろうか?

 ナオは、演技力や存在感を賞賛されればされるほど、過去に発言した『女優』という言葉を根拠にバッシングされた。しかし、かつて石川社長が自慢げに語ったように、ナオはそんなことで潰されてしまうほど小さくはなかった。
 黒澤奈緒はトランスジェンダーとしてではなく、一人の女優としていくつもののドラマに出演し、朝の連続テレビ小説で主人公の親友役を演じたことで、LGBTQに興味を示さない高齢者たちのハートをも掴んでいだ。

 かつて夢に描いたままに、ナオは「普通の女性」を演じる女優になり、主演した映画作品は海外で賞を取って話題になっていた。

 周囲の予想通り、黒澤奈緒は国内でも優秀主演女優賞の一人に選ばれた。
 LGBTQという言葉が特別なものではなくなる一方で、男女の区別を差別と捉える人たちの声は日増しに強くなり、アクトレスとしての賞が撤廃された映画の本場アメリカに習って、日本の映画界も男女の区別を撤廃して『主演俳優賞』や『助演俳優賞』に一本化されることが決まった。ナオがノミネートされたのはその前年、最後の女優賞だった。

 ボクは授賞式の様子をオンラインで観ていた。

 ノミネートされた女優達が、作品名と共に順に紹介される。
「それでは発表いたします。本年度の最優秀主演女優賞は……」プレゼンターの俳優が一人の名前を読み上げる。「黒澤奈緒」
 主演、助演と幾度もノミネートや受賞を繰り返してきたベテラン女優に囲まれ、きっと自分の受賞を予想していなかったのだろう。ナオは驚きの表情を隠せず、慌てて立ち上がった。ドレスの裾を直しながら顔を上げたその時、長い髪に隠れていた耳元に見覚えのあるシルバーのピアスが揺れていた。

 トロフィーを受け取り、壇上で映画に関わったスタッフやキャストと歓びを共有した最後の主演女優、黒澤奈緒は、それまでに関わったスタッフやキャストへの感謝を述べた後にこう語った。
「最後にこの場をお借りして、未熟な私を育ててくださった二人の方に感謝の気持ちを伝えさせてください。一人は、私に女優としての道を用意して下さったグッド・セーブの石川裕弥社長。もう一人はデビュー当時のマネージャー、能島純さん。能島さんは、動画サイトやブログ、SNSを通して私に進むべき道を示してくれました……」

 予期せぬ発言に驚いたボクは黒澤奈緒と同じように慌てて立ち上がった。
 左手を胸に当て、右の指先でお揃いになったゴールドのピアスを摘まみながら息を整える。そして画面の向こうに語りかけた。
「ボクたち、もう一度友だちとしてやり直せるかな?」

 耳元にナオのウィスパーボイスが聞こえてきた。
 スマホのリストから『エイリアンズ』を選び、プレイボタンにタッチする。哀愁を帯びたギターのイントロに続いて、ボクはナオと一緒にその歌詞を口ずさみはじめた。


                ——了 ——

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