第10話 嫉妬心

文字数 2,739文字


 年が明けて少し経った頃、ナオから相談を受けた。
「元マネージャーの石川さんが、モデルエージェンシーから独立して最近芸能事務所を設立したんですけど、その石川さんから『ナオちゃん、心機一転、もう一度ゼロからスタートするつもりでマネージメントさせてくれないか?』ってメールを頂いたんです」
「その人——前にボクのユーチューブ・チャンネルにナオの芸名を書き込んだ人じゃないの?」とボクが訊ねると、ナオは大きく頭を振った。
「石川さんはそんな人じゃない。私のこと……ジェンダーのことも知ってて、それでもいいからってスカウトしてくれた、すごく誠実な人なんです。『あの時は僕の力不足で申し訳なかった。でも、今なら社会や人々が君を求めてる』って言ってくれてるんです」
 石川というマネージャーは、ナオの秘密を知りながら、それでも強引にスカウトして東京に連れてきた。それなのに無責任に放り出しておいて、三年も経ってからネットで話題になった途端にマネージメントしたいなんて、ずいぶん虫のいいヤツだ——とボクは内心腹を立てていた。
「彼が会いたいって言ってるんですけど、純さん一緒に来てくれませんか?」
 あまり気乗りはしなかったが、ナオを一人で行かせるよりはずっとましだと考え、ボクは承諾した。

 日比谷線の六本木駅で地下鉄を降りると、この街が苦手なボクとは対照的にナオの表情は急に明るくなった。
「ずいぶん慣れてるみたいだね」と呟いたボクの姿は、ナオの目にはずいぶん頼りなく映っただろう。
「すごく懐かしい。事務所がここにあったんです」と言って意気揚々と歩を進めるナオの笑顔がボクには眩しい。
 煌びやかなファッションモデルのような女性。洒落たスーツの上にバーバリーのコートを着こなした男性。ジーンズにダウンジャケット姿の自分は、この街に不釣り合いで場違いに思えた。でもよく見渡してみると、自分と同じようなスタイルの人も少なくないことに気づく。六本木にはテレビ局やプロダクションのスタッフも大勢いるはずだ。
 待ち合わせの場所は、交差点に面した明るい喫茶店。店内に入ると、奥の方で大柄で恰幅の良い男性がナオに向かって小さく手を振っていた。
「石川さん……」と呟きながら近づくナオの後に僕は続いた。
「ナオちゃん、今日はありがとう」と笑顔を見せるその男性は、アルマーニのスーツではなくタートルネックのセーターにジーンズ姿で、優しそうな容貌は大きなぬいぐるみの熊のようだ。
「おはようございます」とナオは嬉しそうに挨拶する。「手を挙げてもらわなかったら、わたし気づきませんでしたよ」
「あれから二〇キロも太っちゃったからね」と照れくさそうに頭を掻くナオの元マネージャー。その印象は僕の想像とはかけ離れていて、なんだか肩透かしを食らったような感じだった。
「こちらは純さん、わたしの師匠です」と、ナオは立ったまま僕を紹介する。
「師匠は大袈裟ですけど」と呟いたボクの言葉は、周囲の喧噪にかき消された。
「まぁ、座って座って」と促され、ボクたちは並んで彼の前に腰掛けた。
「はじめまして。グッド・セーブの石川です」と渡された名刺には、英語で"GOOD SAVE "と印刷されている。
「面白い名前……」とボクは小声で漏らした。ちょっと野暮ったいと感じたこちらの心を読まれたのか、彼はそれには何も応えなかったが、ボクの心の中の怒りや憤りはすっかり消え去っていた。
「お家もこの近くになんですか?」とナオが訊ねる。
「住所は名刺に印刷してある。子供の頃に住んでた実家の場所だよ。この界隈で最後に残っていた昭和の文化遺産のぼろ屋を取り壊して、その土地に三階建てのビルを建てたんだ。一階が事務所だから土地は狭小だけど、いつでも結婚できるように上二階は二世帯住宅にしたんだよ。残念ながら嫁はまだ来ないけどね」と石川さんは照れくさそうに目を細める。「三十代で自分の会社と家を持てたのに、四十の今もまだ親と同じ屋根の下で独身生活」
「地元の方なんですね」と言いながらボクは頷いた。
「ここから歩いて十分ちょっと。中学はすぐそこだったんだ。もうなくなっちゃったけどね」と笑う丸顔を眺めていたら、銀座生まれの大学の同期生が「都会で生まれ育った人が見るからに都会的とは限らないよ」と話していた言葉を思い出した。
「それにしても、ナオちゃんは、またずいぶん綺麗になったね。僕はこの通りだけど」と石川さんはナオを眩しそうに眺める。「モデルエージェンシーにいると僕みたいなデブは肩身が狭いけど、今は誰にも気遣う必要ないから、ちょっと気を抜いたらこの通り」
「石川さん、昔はもっとスマートだったんですよ」とナオはフォローする。
「それでも、ナオちゃんに会った頃は学生時代に比べたら十キロ以上太ってたけどね」
「食べ過ぎは身体に毒ですよ。誰も注意しないとすぐポテトチップスに手を出すんだから」と言うナオと彼の間には距離がない。「健康には気をつけてくださいね」
 この人は、ボクが知り合うよりずっと前に、ナオとその家族を口説き落としてこの東京まで連れてきた人——そう考えたら二人の間に距離がないのは当然のことだったが、ボクは自分の心の中に沸き起こるさざ波を鎮めるのに必死だった。
 ボクが説明するまでもなく、石川さんはインターネット上でのナオの活動を全て把握していた。ナオはコンビニでアルバイトしながら定時制高校に通う今の生活と今後の目標を語り、彼はずっと真剣に耳を傾けていた。
「女優を目指すならちゃんと演技の勉強をした方が良いけど、大手の俳優養成所はもう締め切ってるでしょ?」
「そうなんです。全部一次で落ちてしまって……。やっぱり昔からある養成所は私みたいな人には厳しいですね」
「今でも正攻法は難しいのか……」と石川さんは少し考え込んだ。「でも三月まであと少しだね。とりあえず高校を卒業したら、今のネットの活動を続けながら、いろいろオーディションを受けてみてはどうだろう? 映画もドラマも、ナオちゃんのような個性を活かせる役が今は少なくないと思うし、もしウチが得意なCMの仕事が取れたら、そっちの方向からドラマや映画の出演も交渉できるかもしれないしね」
「映画の制作委員会に名前を連らねるようなスポンサー企業ですか?」とボクは話に割って入ったが、ちょっと場違いな発言だったと後悔した。
「そうそう」と言って石川さんはボクの名刺に視線を落とす。「スポンサーの推しはあってもオーディションは受けることになると思うけど、ナオちゃんならきっと大丈夫だと思うよ」
 話をどんどん進めていく二人と、隣に座るボクの間には目に見えない壁があり、ボクは石川さんに嫉妬心を抱いている自分に気づいた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み