第31話 テストステロン

文字数 3,924文字


 ナオとボクの関係を深めてくれたキューピッド、愛車のプルリが納車されてちょうど一年を迎えた。
 購入時に営業の山下さんに念を押されたタイミングベルトは、定期点検の時に交換するつもりだったが、点検を依頼した地元の整備工場の人は、「タイベルは綺麗なので次の車検まで大丈夫」と言う。もし次回の車検までそのままで良いのなら、準備した予算を機材の購入に回せる。次の車検時にも一〇万キロには届かない筈なので、ボクはその整備士の言葉を信じることにした。
「本当に大丈夫なの?」とナオは珍しく心配顔を見せたが、ボクはこう応えて安心させた。
「プロがそう言うんだから大丈夫だよ。山下さんは営業マンだけど、今回見てくれた人はベテランの整備士だからね」
 ボクたちは点検を終えたプルリの前で記念写真を撮り、オレンジケーキを囲んでプルリの一周年を祝った。

 そのオレンジ色の愛車が行く先々で人の目を惹くように、ナオもまた、どこへ行っても注目の的だった。ナオは日増しに美しくなっていった。恋する女性は綺麗になると言われるが、きっとナオも同じだったのだろう。その相手が自分であることがボクは誇らしかった。

 整った顔立ちに、多くの女性も羨むキメの細かな白い肌。おっとりとした柔らかい物腰に、相手を思いやる優しい心遣い。そんなナオがもうすぐ二十歳の誕生日を迎えるというときに、成人式用の振り袖CMの依頼が突然飛び込んできた。
 翌年の成人式をターゲットにテレビCMに登場していた五人の振り袖娘の一人が、二回りも年上で子供もいる男優との不倫問題で急遽メンバーから降ろされることになった。各地の催し物会場に貼られていた大判のポスターは回収され、CMも五人が揃って登場するバージョンはオンエアが打ち切られた。そして五人目の代役としてナオに白羽の矢が立った。件のタレントとナオは対照的だったが、派手な西洋風の美女よりも少し郷愁を感じさせるナオの顔立ちの方が振り袖には似合いそうだった。
 それにしても、同世代のタレントやモデルなら沢山いるはずなのに、なぜナオに白羽の矢が立ったのかボクは不思議に思っていたが、きっとLGBTの振り袖姿は時代の要望にマッチしたのだろう。石川さんは、それも「ナオの持つ実力」だと言う。
 
 ボクは急遽予定が組まれた撮影に立ち会わせて貰うことになった。事務所は人手不足だったから、その日だけスタッフとして働いて欲しいと言う。その代わり、日頃所属タレントの恋愛にあまり口を挟まない石川さんから釘を刺された。
「純君には当日マネージャー役をやって貰うから、二人の関係を代理店やスポンサーには気づかれないように頼むね。黒島奈緒はまだ未成年だから」
 ナオは撮影現場に直行するというが、その日まで泊まりがけでドラマのロケ撮影に出かけていたから、顔を合わせるのは一週間ぶりだった。
 撮影現場ではときどきアイコンタクトを取るくらいで会話を控えていたが、互いを思う気持ちは長雨が続いた後の貯水池のように溢れ出しそうだった。ボクたちはその感情を抑えることが出来ず、帰り道ではプルリを駐めて熱い口づけを交わし、自宅に着いた途端に荷物も玄関に放り出したままダムを放水した直後の激流のように互いを求め合った。
 
 次の日現場に向かう道すがら、プルリのラジオからキリンジの『エイリアンズ』が流れはじめた。いつの間に歌詞を覚えたのか、ナオは助手席でずっと口ずさんでいた。

 部外者立ち入り禁止の振り袖撮影の時、ボクは『黒島奈緒のマネージャー』としてスタッフやスポンサーに自己紹介した。そのために急いで名刺を準備したが、瓢箪から駒のようにいつしかボクは実際にナオのマネージャーとして働くようになり、自分自身の配信ビジネスはしばらく休業することになった。

 振り袖撮影の翌月にナオは二十歳の誕生日を迎えた。
 事務所が催してくれた誕生会のあと、自宅でもう一度ナオを祝った。少し奮発していつもの十倍以上値が張るボルドーの赤ワインを用意したが、ナオは初めてとは思えないほどの飲みっぷりで、ボトルは一気に空になった。酔いが回ったナオは人が変わったように激しく燃え上がり、さすがにその夜はボクの方が音を上げるた。
 そのときは、まさかそれが思いもよらぬ方向に二人を導くことになるとは、想像もしていなかった。


 誕生日を境にナオの身体に変化が現れはじめた。毎日近くで眺めていたボクはその異変に少しずつ気づきはじめていた。
 バスルームで臑毛を剃っている姿を偶然目にしてしまったとき、ナオは眼に涙を溜めながら告白した。
「昨日、メイクの人に言われたの。『最近どうしたの? 急に髭が濃くなってきたけど』って」
 その声さえも、少し低くなったように感じる。
「病院に行ってみたらどうかな?」
 とりあえず言ってみたボクの言葉は、あまりに無神経だった。
「どこの病院?」と返されてボクは言葉に詰まった。
「婦人科にはかかれないし、一般内科で『最近髭や体毛が濃くなってしまったんです』なんて言えないよね。『あなたは男性でしょ? それが普通です』って言われるだけだし」
 悲しそうに項垂れるナオに、ボクは慰めの言葉さえ満足に掛けてあげることが出来なかった。

 翌朝、ボクが用意したフレンチトーストを食べながら、隣でナオはこんなことを話し始めた。
「ネットで相談できる専門家に聞いてみたの」
「ナオの身体のこと?」
「そう。ジュンはテストステロンって知ってる?」
 ボクは軽く頷いた。それが男性ホルモンの一種であることをボクは誰よりもよく知っていたが、嫌な予感がして言葉に出来なかった。
「分泌されると体格や顔つきが男らしくなる男性ホルモンの一種なんでしょ? 恋をするとそういうホルモンが沢山分泌されるんだって。わたしがジュンのことを好きって思えば思うほど、わたしの身体の中のそのテストステロンって怪物がわたしの身体を蝕んでいく……」
 ボクはそんなナオにそっと寄り添い、恐る恐る肩を抱いた。するとナオはボクの肩に顔を埋めながら耳元で呟く。
「ねぇ、どうして? 神様の意志に逆らった罰なの?」

 皮肉なことにナオが怪物と呼んだテストステロンが不足しているボクは、それを定期的に投与する必要があった。
 トランスジェンダーや性同一性障害と呼ばれたことはないが、ボクはいわゆる半陰陽として生を受けた。一側性真性半陰陽と言って、ボクの片側の精巣は卵巣と精巣が混じり合った卵精巣と呼ばれ、身体の中には作りかけの子宮の跡が残っていた。母や兄はそんなボクを忌み嫌うように遠ざけ、生まれたときからボクに無関心だった父親は、結局ボクだけでなく母と兄も捨てて家を出て行った。そんな家族の中で唯一ボクを理解し、寄り添ってくれたのは兄嫁の美澪(みれい)さんだけだった。
 片方の睾丸は十代の中頃から肥大化して痛みも耐え難くなっていたが、家族にはとても相談できなかった。そんなとき、子宮癌で入院中だった美澪さんが主治医にボクのことを相談してくれた。同じ病院で診察を受け、大学合格が決まった十九歳の春に外科手術で卵精巣を切除した。その入院中に体内から作りかけの子宮も取り去ったから、そのとき初めてボクの身体は男になったのかもしれない。
 病室で、笑いながら「私も子宮を取ったばかりなの」と辛さに絶えながら逆にボクを励ましてくれた美澪さん。感謝の気持ちや思慕の念も十分に伝えられないまま、彼女は三十三歳の若さでボクの目の前から消えてしまった。
 どうして優しい人ほど早く天に召されてしまうんだろう? 
 それはいつかナオに伝えようと思っていたことだったが、今ここで話すのはあまりに残酷すぎると思ったボクは、真実を打ち明けるタイミングを逸した。

 ナオは永久脱毛の施術を受け、女性ホルモンの投与を開始したが、その副作用で鬱状態になり、仕事を終えたあとは一人で部屋に閉じこもることが多くなった。
 もし、隣に座って寄り添うだけでナオを慰めることができたなら、どんなに幸せだろう。誰よりも痛みを共有出来る経験を持っているというのに、今のボクはナオにとっては両刃の剣だ。ボクが声を掛けるほど、慰めるほど、そして寄り添って、その肩に、髪に、肌に触れるほど、それはナオを追い込み、傷つけていく。
 ボクは石川さんにお願いしてマネージャーを降ろさせて貰った。

 ちょうどその頃から、SNS上で女優・黒島奈緒へのネガティブな書き込みが目につき始めた。
 現代社会に残る男女間の差別を世間に問いかけ、『女優』や『女声』という性別を表す表現の撤廃を求める一部のトランスジェンダーから見ると、同じ立場にありながら自ら『女優』という「差別的な職業」を目標とするナオの姿は、許し難い存在に映るのだろう。
 インターネット上で誰かが叩きはじめると、「女性よりも女性的」と言われたナオが「実は男である証拠」として少し前の映像を持ち出して、「髭の痕が目立つ」とか「声が低い」などと一斉にバッシングが始まった。
 それは傷口に塩を塗り込むようにナオの心にダメージを与えていった。
 ナオが心療内科に通ってカウンセリングを受けはじめたことを石川さんから聞いたが、それと同時にそんなナオに対して少し距離を置くようボクは提案された。


 正月番組の録画収録が終わる年末からナオはしばらく実家に里帰りすることになった。二週間ほど小豆島で家族とともに過ごして、成人式前に東京に戻るという。きっとナオにとってはなによりの休養になるだろう。

 ナオが旅立った後、ボクはコンビニで買った年賀ハガキに小豆島で撮った画像を印刷してナオの実家宛に送った。宛名の両親と弟の名前の間に、平仮名で「なお」と加えて。

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