第1話 サドル

文字数 2,166文字

 近所のコンビニでボクが初めてナオを見かけたのは、ヒグラシが賑やかに鳴く夏の終わり頃。それまでよく利用していたコンビニが閉店した直後のことだった。
 接客の時に見せる優しい気遣い。何気ない日常の動作に覗かせる女らしい仕草。ウィスパーボイスのように優しく語りかけるハスキーな声。恥ずかしそうに俯きながら、それでも最後は勇気を振り絞ってニッコリと笑う笑顔。ボクはそんなナオの虜になった。
 ネームプレートには『黒島(くろしま)ナオ』と印刷されていた。顧客にとっての利益にはなるかもしれないが、従業員——特に若い女性にとって、本名を明かすことはリスクが高いように思う。でもそんなプレートのおかげでボクはナオの名前を知った。
 急ぎの買い物がある訳でもないのに、ボクは毎日のように店の前にベスパのスクーターを駐め、百円や二百円の小物やスイーツを買うようになった。

 秋の日の夕暮れ、ナオにとってはとんだ災難だったが、ボクにとって大きなチャンスが巡ってきた。
 店に着く時間が少し遅れたせいで、ナオの姿はすでにレジから消えていた。ボクはガッカリしながら水道料金の支払いを終え、店の駐車場で愛車ベスパに跨がってヘルメットを被ろうとした、ちょうどそのとき、私服姿のナオが足早に店から出て来た。ボクの視線は建物の裏手にある自転車置き場に向かうナオを追いかけた。しかし、ナオは一台の自転車の前でしばらく立ち止まったままじっと動かない。異変に気づいたボクはベスパを降りてナオに近づいた。
「サドル盗まれちゃったの?」と後ろから話しかけたボクの言葉にビクッと反応したナオは、店内でよく見かける顔に安心したのか、「はい」と答えた。
 心ない誰かの仕業で、少し錆びた銀色のパイプが中の空洞をむき出しにしたまま虚しく空に向かって突っ立ている。
 ナオは白く細い腕に捲かれた腕時計に目を落とした。
「どうしよう。学校に間に合わない」
「学校はどこ?」とボクは訊ねた。
立高(たちこう)なんです」
「定時制?」とボクが訊くとナオはこっくり頷いた。
「送っていくよ。二人乗りできるようにヘルメットもあるから」
「でも……」
 戸惑うナオをその場に残してボクはベスパを目の前に転がしてきた。
「それで学校が終わる頃に迎えに行くのはどう?」
 ナオは応えなかったが、ヘルメットを差し出しながらボクは促した。
「さ、急ごう。早く乗って」
「ごめんなさい」と言いながら、ナオはすまなそうにヘルメットを受け取った。
「顎のベルトはきっちり締めてね」
「はい」
「危ないからしっかり捕まって!」と大きな声で呼びかけると、ボクは大地を蹴ってアクセルを開いた。
 スピードが上がるとナオはボクの身体にしがみつく。密着した背中に期待した胸の膨らみは感じ取れなかったが、この状況はまるで『ローマの休日』だと、ナオの不幸に乗じてボクは小さな幸せを感じていた。

 校門の前で、脱いだヘルメットを渡しながらナオは丁寧に会釈した。
「ありがとうございました。余裕で間に合いました」
「よかった」とボクも笑顔を向けた。「それで、何時に終わるの?」
 帰りは大丈夫と遠慮するナオに、ボクは少し強引に「自転車をなんとかしないと明日困るでしょ?」と言った。

 ナオと別れたボクは途中で見かけた自転車店にとって返し、サドルと盗難防止用のワイヤーを買ってコンビニに戻った。
 ちょっとやりすぎかな……と思いながら、ボクはナオの自転車にサドルを取りつけ、自転車店の店主に勧められたワイヤーで固定する。人に見られていないか気になって辺りを見回しながら、ボクは急に可笑しくなった。盗んでるんじゃなくて与えてるのに、自分の姿は他人の目にはどう映るのだろう? こそこそとピンクの自転車のサドルを弄っている怪しい男は、瓜畑で解けた靴紐を結んでいたために瓜泥棒に間違えられた間抜けな男とほとんど変わらない。

 ベスパに跨がったままボクが校門の前で待っていると、ナオは照れくさそうに頭を下げた。何も言わずにヘルメットを被ったナオはボクの後ろに跨がり、ボクたちは自転車が待つコンビニに向かった。

 真新しいサドルを着けた自転車を目の前に、「こんなことしてもらったら、わたし困ります」と言ってナオは顔を顰めた。
「もう自転車店は閉まってるし、サドルがないともっと困ると思って」
「でも、遅くまでやってる量販店もあるし……」
「どっちにしても買わなきゃならないし、黒島さんが授業を受けている間に用事のないボクが買っておくというのは効率的だったでしょ?」
「わたしの名前……」と言いかけてナオは気づいた。「お店のプレートで覚えてくれたんですね」
 サドルを見ながら観念したのか「本当にすみません。ありがとうございます」と言うと、ナオはリュックからサイフを取り出す。
「盗難防止用のワイヤーは事情を話したら店の人がオマケしてくれたんだ」とボクは嘘をついた。「女の子のサドルを専門に盗む変態がいるみたいだからね」
「助かります。盗まれたのはこれで二度目なんです」
 買おうか迷って二度会計したから幸いレシートは別になっていた。ナオはボクを疑わずにレシートと引き換えにサドルの代金を払った。
 高さを確認するためにサドルに跨がり、「ピッタリ」と言って嬉しそうに自転車を降りたナオは、「ほんとうにありがとうございました」と深々と頭を下げた。
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