第32話 フレンチハイボール

文字数 1,977文字


 ナオは実家のある小豆島でも立川でもなく、住民票を移したばかりの港区で成人式に立ち会う予定だった。その日は取材を受けることも決まっていたが、事前の準備はすべて事務所で進め、本人は二日前に東京に戻ることになっていた。ボクは詳しい事情を知らなかったが、予定していた土曜日にナオは帰れなくなり、一日遅れて成人式前夜の便で羽田に到着した。
 石川さんからは迎えに行く必要はないと言われていたが、日曜の夜は雨になった。南国小豆島から戻るナオは真冬の東京の雨を寒いと感じるに違いない。最終便で帰ると教えてくれたナオに、ちょうど立川に着く時間を見計らってショートメールを送った。

 リムジンバスが到着するホテルの前にプルリを駐めてボクはナオを出迎えた。
 バスから降りる乗客の中にナオの姿を見つけた。窓からオレンジ色のプルリを見ていたのだろう。荷物を受け取る列に並んだままナオはこちらに向かって他人行儀に会釈した。ボクは近づいていって「お帰りナオ」と声を掛けた。
「ただいま」と応えたナオは以前の輝きを取り戻していた。
 髪が濡れないよう左手で傘を差し出しながら、ボクは右手でリアゲートを開けて荷物をしまう。そのときボクの耳元に届いたのは、あの聞き慣れたナオの声だった。
「純さん、今日はありがとう。でも気、使いすぎ。少しくらい濡れたって大丈夫なのに……」
 振り向くとナオは少し困った顔で笑っている。ボクはコンビニの駐車場で初めて会話したときのことを思い出した。安心すると同時に、ナオはもう二度とジュンとは呼んでくれないことをボクは覚った。

 成人式当日、ボクはテレビの画面でナオの姿を眺めていた。華やかな振り袖姿のナオは、もはや自分とは違う世界の人にしか見えなかった。

 言葉にしなくても、マンションをシェアし始めた時の「互いの空間には極力踏み込まないルール」は復活していた。しかしそれもあと一月あまり。
 ナオが小豆島に帰る直前のクリスマスイブのことだった。
「麻布十番に事務所が所有しているシェアハウスがあって、しばらくそこで暮らすことになったの。マネージャーの莉子さんも一緒だから安心だし、住民票も明日そっちに移す予定」
 突然話し始めたとき、ナオはボクと目を合わせなかった。
「このマンション、純さん一人だと大変でしょ? ここのわたしのシェア分はしばらく事務所の方で払ってくれるはず。その間に誰か見つかれば良いけど、もし純さんも引っ越しになったらその費用も社長に相談して」
 ナオはいつ出て行くの?——と大人げない聞き方をしたくなった自分をボクは心の中で切り捨てた。
「引っ越しの時は手伝うけど。もしかして、小豆島から帰ってすぐ?」
 ナオは首を横に振った。
「今いる子が引っ越して部屋が空いてからだから、たぶん二月の中旬くらいになると思う」
「それじゃ、バレンタインデーの頃かな?」
 質問には答えず、ナオは黙って下を向いた。その場に漂う微妙な空気に、ボクは場違いなリクエストを送ってしまったリスナーのようなばつの悪さを感じていた。

 マネージャーでも恋人でもなくなったボクは、ナオがどんな仕事をしているのかも知らず、同じ屋根の下に暮らしながら二人の距離はどんどん離れていく。

 引っ越しは二月の第三日曜に決まった。それはバレンタインデーの翌々日。
 何も期待していなかった十四日の夜、ナオはゴディバのチョコレートとレミー・マルタンのブランデーをボクに贈ってくれた。そこには「初恋の人へ 感謝を込めて」と書かれたカードが添えられていた。
 ナオはコニャックを炭酸で割る。
「純さん知ってる? これフレンチハイボールって言うの。莉子さんが教えてくれた」
 誕生日で懲りたのか、ナオはゆっくりグラスを傾けていた。
 スマホを操作してキリンジのあの曲で部屋を満たすと、ナオはウィスパーボイスで口ずさんだ。2コーラスめを歌い始める前にボクは訊ねた。
「初恋の人はレイじゃなかったの?」
 ナオは歌うのをやめて答えてくれた。
「レイは同志。わたしの初恋の人は純さんだけ」
 ボクはそっとナオの肩に手を回す。ナオは一瞬ビクッと反応したが、嫌がる様子は見せなかった。でも唇を重ねようとすると、ナオはボクの口元を手で押さえて、頬に軽くキスをした。
「純さん、ごめんね。気持ちに応えられなくて」
「ボクも……」と言いかけた言葉をナオが遮る。ナオに会話を遮られたのはこれが二度目だった。
「それ以上言わないで。時計の針は戻せないから」
 ほんとうは別れたくない——そんな言葉や反応を期待していた自分の往生際の悪さをボクは恥じた。

 キリンジはまだ歌っていたが、ボクはプレイリストからチェット・ベイカーの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を選んで切り替えた。
「ありがとう」と言うと、ナオは反対の頬にキスをしてくれた。「純さんのことは一生忘れない」

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