第11話 マイ・ファニー・バレンタイン

文字数 2,793文字


 ナオのビデオブログは順調にフォロワーを伸ばし、一方でボクのチャンネルはナオをモデルにしたときだけ視聴数が一桁伸びるシーソーゲームを繰り返す。それはもはや逃れられない現実になっていた。撮影機材の紹介をメインにするボクのコンテンツの平均七万アクセスは、その分野に限って言えば決して悪くはない数字だけれど、たった一回の配信で百万を超えそうなナオのチャンネルを見ているとため息が出る。アフィリエイトの僅かな広告収入だけではとても食べていけないボクは、動画配信のコンサルタントなどで日銭を稼いでいるが、ナオがこのまま順調にファンを増やしていけば、いとも簡単に本業に出来る数に達してしまうだろう。もうコンビニでアルバイトする必要もなくなるのではないか? とそんなふうに思っていたら、さっそくナオから電話があった。
「純さん、わたしコンビニを辞めることになりました」その声は明るく張りがあった。「アフィリエイト収入に加えて、美容液のメーカーが個別にスポンサー契約したいって言ってくれて、石川さんと相談してお受けすることにしたんです」
 少し間を置いて、「それはよかったね」と言葉を絞り出したが、余所余所しい響きにナオが気づかないはずはない。
「純さんのおかげですよ。ほんとに感謝してます」という言葉にはナオの気遣いが読み取れた。「純さん、十四日のお昼って予定ありますか?」
「バレンタインデー? ボクは彼女もいないし、暇してるけど……」と返した言葉は、なんだか嫌みたっぷりで自分でも嫌になる。ナオはボクの気持ちに気づいている筈だけれど、そんなときは決まってボクの感情を上手く交わしてくれる。そんなナオにボクは甘えていたのかもしれない。
「ちょっと見てほしいものがあるんです。お昼過ぎに家に来て貰えますか?」

 半分は予想通りだったが、テーブルの上には可愛らしいチョコレートケーキが載っていた。
「見てほしいって、このこと?」と振り向くとナオは微笑んでいる。「これ、ナオちゃんが作ったの?」
「わたしからの感謝の気持ち」と上品にデコレーションされたテーブルの前に促される。「よかったら……嫌じゃなかったら座ってください」
「嫌なんてとんでもない」と言いながらボクは席に着いた。正直嬉しかったが、同時に少し複雑な気持ちを抱いた。ナオはいったいどういう気持ちでこのケーキを作ってくれたんだろう?
「バレンタインデーって、愛の告白をする日だよ?」
「友だちにチョコレートケーキってやっぱり変ですか?」とナオは少し自信なさげな表情を見せた。ボクは何も言わず、スマホから曲を選び出して再生ボタンにタッチする。すぐに小さなスピーカーからチェット・ベイカーの歌声が流れはじめた。
「ステキな歌……。でも、なんだか少し寂しい曲ですね」
「この曲は『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』っていうんだ」
「私のおかしなバレンタイン?」
「ヴァレンタインという名前の男性、女性かな? そういう名前の相手に対して歌ってるんだけど、歌詞は意外と明るいよ。最後は『ずっとあなたはそのままでいて。そうしてくれたら毎日がバレンタインデーみたいになるから』って」
「へぇ? すてきな歌詞」とナオは表情を和らげた。
「フランク・シナトラが有名だけどね」
「フランク……?」
「そうか、ナオの世代の子はわからないね」
「純さんだってあんまり変わらないのに」とナオは笑う。
「こんな立派なチョコレートケーキ。ありがとう、って素直に喜んでいいのかな?」
「立派はほど遠いです。誰もあげる相手がいないから一緒に毒味して欲しかっただけで、あまり深い意味はないんです」
「わかった。毒をくらわば皿までか」とボクは笑った。「ところで、石川さんには?」
「もう一つ作ったので、宅配便で送りました」
(石川さんが食べる前の毒味?)と喉元まで出かかった言葉をボクは飲み込んだ。これ以上言ったら忍耐強いナオもボクを嫌いになるに違いない。判っていながら、ボクの心の中の拗くれた部分が角を出した。
「聖バレンタイン・デーの悲劇って知ってる?」
「バレンタイン・デーの悲劇?」
「二月十四日は、キリスト教が広まる前から家族や結婚を司る女神ユーノーの祝日だったんだ。ところが、ローマ帝国の時代に皇帝クラウディウス二世が兵士の結婚を禁止した」
「どうして?」
「故郷に家族がいると士気が下がるからって」
「かわいそう……」
「そんな兵士たちに同情した司祭のバレンタイン——ラテン語ではヴァレンティヌス——は、内緒でこっそり何組もの結婚式を挙げたんだ。それが皇帝の耳に入り、厳しく咎められた。それでもバレンタイン司祭は従わずに式を挙げ続けた。それで、この二月十四日に処刑されたって、そんな話」
「バレンタイン・デーってそんな悲しい日なんですか!?」
「いろんな説があるし、本当のところはわからないけれど、今の時代みたいに自由に愛を語り合える時代じゃなかったことは確かだよ」
「そんな日って知らずに、みんな浮かれてるなんて」とナオは一瞬顔をしかめた「でも、純さんって何でも知ってるんですね」
「実は姉さん、亡くなった義理の姉から教えてもらったんだ。この曲も、ジャズシンガーだった彼女から……」と言った途端に曲が終わった。ボクは同じチェット・ベイカーの他のアルバムに切り替え、少しアップテンポな『枯葉』を再生した。「この人、チェット・ベイカーっていうんだけど、ほんとはトランペッターなんだ」
「これ、なんだか聴いたことあるメロディーですけど、なんていう曲ですか?」
「オータム・リーブス、『枯葉』だよ。この演奏はあんまり枯葉っぽくないけど」
「お姉さんってステキな人だったんでしょうね」と訊ねられ、言葉が出なくなったボクは、ナオに涙を覚られないようにゆっくり頷いた。
 続けて流れるボーカル曲『She Was Too Good To Me』の歌声を聴きながらナオはうっとりしている。
「男女の愛は祝福されるようになったけど……」とナオが小さく漏らす。その後に「私たちはどうなんだろう?」と聞こえたような気がした。
「ん?」とボクは疑問を声にした。
「なんでもない」とナオは振り払う。「純さん早く食べましょう」

 一目見たときにはとても食べきれないと思ったが、甘さが抑えられていたせいか、ボクたちはあっという間に完食した。
 きっと石川さんはニヤニヤと目尻を下げながら、一人でペロリと食べきってしまうに違いない——そんなことを考えながら、ボクは食器を片付けるのを手伝った。紅茶を入れるタイミングで、ナオはちょっと洗面所に立ち寄ってリップを塗り直していた。
 再び向かいの席に着いたナオの口元を冬の曇り空の柔らかい光が照らす。最近リップクリームを変えたらしく、唇の透明感はいっそう増していた。外はまだ明るいのに、ナオの唇を再び奪いたくなる気持ちを抑えるのにボクは必死だった。

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