第29話 三つめのお願い

文字数 2,549文字


 東京ガールズコレクションの翌朝、ナオと久しぶりにゆっくり話す時間が出来た。
「昨日はお疲れさま。あの広い会場でもナオはひときわ輝いてたね」
 疲れているのか、ナオは浮かない顔だ。
「ありがとう。でもわたしなんかまだまだ……」
 ナオはうつむき加減に何か考え込んでいる。そんな様子を見て、なぜかホッとする自分がいた。昨日は沢渡玲奈も一緒だったはずだ。
「コーヒーでも煎れようか?」と言ったが、返事がない。
「純さん」と言いながら、ナオは視線をボクに向けた。「あまりいい話じゃないけど、純さんにはちゃんと伝えておいたほうが良いと思って……」
「どうしたの? 昨日何かあった?」
 ナオは頷いた。
「出演してたモデルの人から言われたの。『あなたも大変だったね。盗撮映像をネットに晒されて』って」
 ボクは息を呑んだ。
「その人が言うの。『そういうこと私たちにはよくあることだから、外出先のトイレとかも気をつけたほうが良いよ。でもまさかバスルームにまでカメラがあるなんて思わないもんね』って。いつ見たのか聞いたら、何ヶ月か前だって。『今はもう見れなくなったから、事務所が消してくれたのね』って言ってたけど、石川さんは何も知らないって。純さん、ずっと探してたでしょ? だからちゃんと話しておいてほうが良いと思って」
「ずっとチェックしてるけど、もう映像ファイルはどこにもないと思う。ネットで絶対大丈夫は言えないけど、犯人達も実刑判決は免れないって」
 賢いナオはすぐに気づいた。
「純さん、知ってたの? その動画」
 ボクはナオに何も言わなかったことを後悔しはじめた。
「なぜ教えてくれなかったの?」
「ショックを与えたくなかったんだ。演技の勉強に集中してるときだったし」
「いつ? いつ見つけたの?」
「四国から帰ってすぐに」
「もしかしてレイの動画も?」
 ボクはゆっくり頷いた。
「すぐに検察に連絡して、重要な証拠として提出した。その後、法的な措置を講じてサーバーからもデータを削除して貰ったんだ」
 しばらくの間ナオは言葉を失っていたが、突然首を左右に強く振った。
「信じられない!」ナオは唇を震わせていた。「どうしてわたしに黙って証拠のビデオを送ったの?」
「だから、ナオにショックを……」とそこまで言いかけた言葉をナオは遮った。
「いったいなんのために一緒に行動してくれたの? わたしたち何のために一緒に四国まで行ったの? わたしがレイと自分、二人分の命を燃やして演技に掛けていることをどう思って見ていたの?」
 これほど昂ぶったナオの姿を見るのは初めてだった。
「ずっと信じてたのに……」そう言い残すと、ナオは勢いよく立ち上がって真っ直ぐに自分の部屋に消えた。
 ノックしても返事はなく、ナオはドアを内側からロックした。


 翌朝、ナオはボクが用意したフレンチトーストには目もくれず、一度も視線を合わせることのないまま出かけていった。いつもなら「うわぁ、フレンチトースト!」とか「わたしの分も作ってくれたの?」と喜んでくれる、そんなナオの姿をボクはもう二度と見ることができないのだろうか?

 その日は新しい編集機材の検証動画をアップする予定だったが、午前中は全く手につかなかった。昼過ぎに冷めたフレンチトーストを二人分食べた後も、ボクはじっとソファに蹲ったまま暗くなるまで鬱々と時を過ごした。
 時計が十時を過ぎてもナオは帰宅しなかった。
 真っ暗なリビングから自室に移動すると、ボクはベッドに突っ伏した。スマホのメールを確認する気力さえなく、ただじっと考え込んでいた。いったいどこでボタンを掛け違ってしまったのだろう。ボクの人生はこんなことの繰り返しだ。

 いつの間にか眠ってしまったことに、ノックの音で気づいた。
「純さん」とドアの向こうからナオの声が聞こえる。
 慌てて跳び起きた拍子にサイドテーブルの脚に躓いて、ボクは頭からドアにダイブした。ドゥンと鈍い音がして、「痛っ!」と声を上げた。
「大丈夫?」と心配するナオの前にボクは間抜けな顔を晒した。
 ナオは笑っていた。ボクはぶつけた頭よりも足首に痛みを感じていた。
「いててて」と言いながら足首に手を伸ばす。「足、挫いたみたいだ」
「驚かせてごめんなさい。ちょっと入っても良い? 湿布あるでしょ」とナオは肩を貸してくれた。
 ナオに湿布して貰ったあと、ボクたちはベッドに並んで腰掛けた。
「今朝はごめんなさい。純さんを責めてしまって」
 なにか気の利いたことを言おうと必死に考えたが、ドアにぶつけたショックくらいじゃ寝ぼけた頭は回転しない。
「検事の木村さんに電話したの。純さんが検事さんに頼んだお願いを聞かせて貰って、わたしのことを心配してくれてた純さんの気持ちがやっとわかった」
「ボクの独りよがりだったんじゃないかって、ずっと反省してた」
「もう反省しないで」と言ってボクの手を取ると、ナオの目は真っ直ぐにボクを見つめる。「ありがとう、気を遣ってくれて。でもわたしは怖くないから、これからはどんなことでも正直に話して」
「わかった」
「良かった」とナオはため息をついた。「ごめんね、今朝は挨拶もしないで出かけちゃって。それにフレンチトーストも……」
「一人で全部食べたよ」
「なーんだ。残ってたらチンして食べようかと思ってたのに」
 いつものナオの笑顔にボクもほっとした。
「また作るよ」
「ありがとう」と言いながらナオは立ち上がった。
「今ね。お風呂溜めてるの。いつもシャワーばかりで滅多に湯船に浸からないでしょ?」
「そうだね」
「純さんが嫌じゃなかったら、背中流してあげようか?」
 あまりに唐突な提案に驚いたボクが、「……裸で?」と恐る恐る尋ねると、「服着たまま背中流せる?」と言ってナオは笑った。

 ナオが呼びに来るのを部屋で待ちながら、あの日電話で木村検事に追加で頼んだ三つめのお願いを思い出していた。
『二つって言ったんですけど、もう一ついいですか? ナオの裸を……黒島さんの盗撮動画をもうこれ以上人に見られたくないんです。だからお願いします。木村さんも絶対に正視しないでください』
 あの時の会話を木村検事はナオにどんなふうに説明したんだろう? そんなことを考えていたら、開けっぱなしのドアからナオが顔を覗かせた。
「純さん、どうぞ」

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