第5話 ヴァージン・ドライブ

文字数 2,447文字

 ボクにとって二輪以外の初めての愛車、ナオがプルリと名付けたC3プルリエルは金曜日にやってきた。
 国立にある東京多摩地区の車検登録事務所からボクのアパートまでは車で十分ほどの距離だったから、山下さんは登録を終えたプルリを駐車場まで届けてくれた。一通りのレクチャーを受け、キーを受け取ったあと、ボクは彼にもう一度念を押された。
「くれぐれもタイミングベルトの交換を忘れないでください。次の車検じゃ遅すぎますから、十二か月点検の時には交換してくださいね。ウチで引き受けてもいいですけれど、部品の取り寄せに時間がかかりますから、この辺りのシトロエンディーラーでやってもらった方が早いと思います」
 セールストークではなく本当に彼が車のことを心配していることはよくわかった。
 ボクは早速プルリのハンドルを握って、帰りのバスルートを教えて欲しいと言う山下さんを国分寺駅まで送り届けた。かなり恐縮しながら、彼は別れ際に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。ナオさんにもよろしくお伝えください」

 その足でボクはナオのコンビニに向かった。でも着いた時間が遅すぎたせいで店内にナオの姿ほ見当たらない。諦めてのど飴を一袋だけ買って店を出ると、駐車場でリュックを背負ったナオがプルリの室内を覗き込んでいた。
「さっき、山下さんが届けてくれたんだ」と後ろから話しかけると、例によって一瞬ビクッと肩をふるわせてからナオが振り向いた。
「純さん! 見せに来てくれたんですね」
「山下さんがナオによろしくって」
「でも、もう学校に行かなくちゃいけない時間……」とナオは残念そうな顔をする。
「学校まで送って行こうか? 終わる頃にまた迎えに行くから」
「ほんと!?」とナオは素直に喜んだ。初めてスクーターで送迎したときとは全く違い、リュックを膝に抱えて助手席に座ったナオは本当に嬉しそうだった。
「そうそう、山下さんはナオの名前をちゃんと覚えてたよ。ナオさんによろしくって」
 ナオはそのことには触れなかった。
「日曜日はどこに行くんですか?」
「湘南。前に利用した葉山のペンションのオーナーが、外した屋根や骨組みを一時預かってくれるって」
「ペンションって……泊まるわけじゃないですよね?」
「まさか」とボクは笑った。「屋根を外したらドローンで上から追いかけて撮影。その後はカメラ三台のテストを兼ねたロケ撮影だよ」
「純さんはお仕事で大変でしょうけど、この間の水族館みたいに楽しいといいな」
「撮影は午前中に終わらせて、あとは海辺でゆっくりしよう」


 約束の日曜日、朝七時にナオを迎えに行った。撮影中お腹が空いたときのためにと、ナオは小さなおにぎりを作ってくれていた。形はすこし(いびつ)だったけれど、ナオの気持ちがボクは嬉しかった。
 長期予報では晴天のはずだったが、現地は雨が降り出しそうな曇り空。結局、屋根を外してのドローン撮影は諦め、朝食代わりにおにぎりを頂いてから予定していたカメラのテスト撮影を一通り終えて、海辺のレストランで昼食を取った。
 行儀良くパスタを口に運ぶナオの顔を、先に食べ終えたボクはじっと眺めていた。肌の色艶に感心した一週間前と違って目の下には隈が見える。
「まさか徹夜でおにぎり作ったわけじゃないよね?」
「ずっと眠れなかったんです。ユーチューブ見てたら眠れるかと思ったら終わらなくなっちゃって……」とナオは目を細めた。
「お薦め動画が次々出てくるからね」
「明るくなってきて、予習のつもりで純さんの動画見ていたら、朝早いときは何も食べない——って言ってたの思い出したんです。それで、出掛ける直前に作ったんですよ。だからすごく雑になっちゃって」
「見かけはともかく……」と言いながら、ナオに微笑みかけた。「美味しかったよ。すごく」
「ありがとう。純さんはやさしい」
 急に思い出したボクは、借りていた『ボーイズ・ドント・クライ』のDVDをバッグから取り出してナオに手渡した。
「忘れないうちに返しておくね。どうもありがとう」
「どうでした?」とナオに感想を求められ、一瞬躊躇(ためら)ったが、ボクは正直な感想を告げることにした。ただなんとなく予感がして、ブライアンという主人公に対する批判だけは避けた。
「後半どんどん引き込まれたけど、想像してたよりずっと過激だったからビックリした。確か中学生の時に観たって言ってたよね?」
 ナオは目を伏せ、二人の間に長い沈黙が流れた。
「気の利いた感想を言えなくて、ごめんね」とボクが言うと、ナオはゆっくりと首を横に振り、やがて遠くの海に視線を移しながら徐ろに口を開いた。
「中学時代の親友と一緒に観たんです。その子もブランドンと同じだったから」
「性同一性障害?」とボクが訊ねると、ナオは「性別違和……」と呟いた。
「ごめん。障害って、確かにあまり良い響きじゃないよね」
 ナオはちょっと唇を噛んでから、話し始めた。
「その子が言ってたの。この人がアカデミー賞獲れるならボクも獲れるかな? って」
「その子も役者を目指してるの?」
 ナオは悲しそうに頭を振った。
「亡くなったんです。わたしが東京に来た直後に」
 予想外の返答にボクは返す言葉を失った。
「だから、わたしは親友の分も頑張ろうって」
「大切な思い出って、そういう意味だったのか」
 ナオの笑顔を見る度に胸が締め付けられるほど切なくなる理由が、ボクにも少しわかった気がした

 レストランを出て海に向かおうとプルリに乗った途端、真っ黒な雲から大粒の雨が落ちてきた。午後の予定は全てご破算になってしまい、ナオも疲れていたようだったからその日は早めに帰ることにした。
 帰り道は少し渋滞になり、会話が少なくなるにつれてナオは助手席で眠ってしまった。

 ナオを送り届けたあと、駐車場にプルリを駐めたままユーチューブに公開した水族館の動画を開くと、土曜日からアクセスが急増していた。コメント欄を見ると、新しい書き込みの殆どはスマホ用ジンバルのことではなく、モデルのナオのことについて書かれたものだった。

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