第30話 禁断の実

文字数 1,907文字


 ナオに言われるまま先に浴槽に浸かりながら、ボクは小豆島のナオの実家の広い湯船を思い出していた。
「純さん」とドアの向こうから声が聞こえる。「入っても良い?」
 ボクは震える声で「どうぞ」と応えたが、心臓が浴槽の外に飛び出してしまうのではいかと思うほどその鼓動は激しく高鳴っていた。
 中一の時に苛めに遭って以来、自分の裸を見られるのが怖くて、ボクは同級生や友だちと一緒に風呂に入ったことがない。そんなボクのすぐ側に座り、ナオはシャワーで身体を洗い始めた。盗撮動画は正視できなかったけれど、初めてこの目で見るナオの身体は神様が性別を間違えたとしか思えないほど美しく、それは自分が知る男性のものとはかけ離れていた。
「わたしの身体って変でしょ」
「そんなことない。すごく綺麗だよ」
「ありがとう。そう言ってもらえるとすごく嬉しい」
 涙を流していたのだろうか? ナオはシャワーで顔を洗い流していた。
「そろそろ交代しようか」とボクは挫いた足を庇いながら立ち上がり、前を隠したまま浴槽を出る。
「その前に背中……」とナオはボクを椅子に座らせた。「流す約束でしょ」
 大きめのスポンジにソープを泡立て、ナオはボクの背中を丁寧に洗いはじめた。
「純さんが嫌じゃなかったら、脚も洗うから立って」
 ボクはゆっくり立ち上がった。湯気の向こうの鏡には、ずっと人に隠し続けてきた自分の裸身が映っている。
「前も洗おうか?」
 ナオの言葉を素直に受け容れたかったが、ボクは股間を両手で隠したままぐるっと向きを変えた。ナオは首の下から順に、丁寧に優しくスポンジで磨き上げるように洗いはじめた。
「思ってたより逞しいね」
「外で運動する機会が少ない分、筋トレは欠かさないから……」
 とうとうナオはそこに辿り着いた。
「自分で洗う?」
「ちょっと困ったことになってるから」とボクは言い訳した。
「恥ずかしいよね」と言うナオは二歩後ろに下がった。「でも、わたしだって同じ」
 ボクは徐ろに両手を離した。もう二人の間に隔てる物は何もない。堪えきれなくなったボクはナオを抱き寄せた。ナオは目を瞑ったまま唇を求め、ボクはそれに応え、そのまましばらく抱き合った。互いの唇が離れるとナオはクスッと笑った。
「まだ途中でしょ? 純さん泡だらけだし」
 洗い進めるうちに、ナオはボクの手術跡に気づいた。
「手術したの?」と泡を洗い流したばかりの傷口に優しく触れながら尋ねる。
「そう……十九のときに片方取ったんだ」
「痛かった?」
「いや。手術前の方が痛かった」
「事故かなにか?」
「まぁ、そんなようなものかな」と言葉を濁しながら、ナオにまだ本当のことを言い出せない自分をボクは呪った。
「昨日、自分の親くらいの年のメークアップ・アーティストから言われたの。『ナオちゃんも取っちゃえば?』って。あのくらいの世代のゲイの人ってそういうこと簡単に言うよね。でも、わたしはまだ身体にメスを入れたことがなくて……。笑うかもしれないけど、ピアスの穴も怖くて開けられないから」
「もし、将来ナオが手術を選択するならボクは応援するけど、今のままでも全然構わない。男とか女とかそんなことはもうどうでもいい。ボクは誰よりもナオが好きだから」
「ありがとう。わたしも」とナオは軽くキスする。「純さんが好き」
「頼みがあるんだ。純さんじゃなくてジュンって呼んでくれる?」
「わかった。ジュン」
「ありがとう、ナオ」
「なんかバカップルみたい」とナオは声を上げて笑った。
 ナオがボクの身体を洗い終わるまでずいぶん時間がかかってしまった。お返しにボクもナオの身体を洗おうとしたが、くすぐったがりのナオはキャッキャと猫のように身体をくねらせて逃げ回った。

 濡れた身体をバスタオルで拭き取ったあと、二人で裸のままボクの部屋に移動した。
 ナオはまた新しい湿布を足首に貼ってくれた。部屋を音で満たしたくなったボクは、ジュークボックス代わりの古いアイフォンの再生ボタンを押した。目に見えない誰かが、ボクたちのために用意したのだろうか? シャッフルモードに設定してあったアイチューンはキリンジの『エイリアンズ』を再生し、ブルーレイ・スピーカーからもの悲しいギターの音色が流れはじめた。
「純さんが選んだの?」
 ボクは首を横に振った。
「シャッフルモードだからあの時と同じだよ。小豆島に向かっていたときと」
 しばらく耳を傾けていたナオは、サビに差し掛かると軽く口ずさみはじめた。
「まるで、わたしたちのこと歌ってるみたいね」とナオは悲しそうに笑う。
「そうだね」とボクもつられて笑った。

 ボクたちはそのままベッドに潜り込み、まるで禁断の実を頬張るように朝まで愛し合った。

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