第9話 カミングアウト

文字数 2,698文字


 ボクのユーチューブ動画の視聴回数や、チャンネルの登録数が急増したのはナオ目当てのフォロワーのおかげだったが、そんな視聴者の中にモデル時代のナオを知る人物がいた。
 ある朝、ナオからメッセージが届いた。
『おはようございます。昨日の夜遅く、純さんのユーチューブのコメント欄に「このモデル瀬戸奈緒じゃないの?」って書き込みがあったのご存じですか? あの当時のモデルとしてデビューできなかったわたしの芸名を知っているのは、事務所の人か出版関係の人しかいないはずなので、ちょっと怖いんです。しばらくモデルの出演をお休みしても良いですか?』

 その翌日のことだった。ボクが対策を考えているときにナオから電話があった。
「純さん、こんばんは」
「ナオちゃん、お疲れさま。あの後、いろいろ考えてたんだけど……」
「わたしも考えました。それで覚悟したんです」と言うナオのトーンは明るい。「わたし、カミングアウトします。それで来年からは自分で発信することにしました。だから、モデルの出演も今まで通りで大丈夫です」
「それは、ずいぶん急展開だねー」
「逃げたらアカンと思って」とナオは笑った。「こんな時こそ前に進まなくちゃ」
「良かった。ファンも安心するよ」
「それで、純さんにお願いがあるんです」
「ナオのメディア発信なら喜んで手伝うよ」
「純さんのチャンネルで告知させてもらっても良いですか?」
「もちろん! 今は半分ナオ・チャンネルみたいになってるしね」と言ってから、『半分』は少なく見積もりすぎた——と思った。少なくてもボクのフォロワーの七割以上はナオのおかげだから。

 日曜の朝、ナオはボクが少しだけ手直しした原稿をすっかり記憶していた。さらに滑らかに話せるよう、ボクのアパートで繰り返し練習したが、それでも慎重なナオは念のためにと「台詞」を書いた画用紙を三脚の手前に置いた。
 準備は整った。ナオは定位置の椅子に腰掛け、スタンドから吊したショットガンマイクが口元を狙い、三灯のLED照明がその表情を照らしている。
 カメラテストを終えたナオはレンズの前ですっと背筋を伸ばし、ボクは三脚に固定したカメラのリモートシャッターを押して録画をスタートした。
『こんにちは。
この秋から「ジュンのシネマトグラフィー」でモデルをさせていただいているナオです。
年明けからわたし自身の動画発信をさせていただくことになりました。
どうかよろしくおねがいします』
 ナオはカメラの前で頭を下げ、再び視線を戻した。その眼差しに強い意志が感じられる。
『でも、今日はその前に皆さんにお話しさせていただくことがあります。
わたしの夢は……女優になること。
でも、その言葉に、わたしを子供の頃から知っている人は違和感を持つかもしれません。
わたしの本名はナオトと言います。
ビックリする方もいるでしょうし、ああやっぱりって思う方もいると思います……。
名前の通り、わたしは男の子として生まれ、今も戸籍は男子です。
性別違和とか性同一性障害とか、色々な呼び名があるようですが、わたしにもその理由はわかりません。
わたしは物心ついてからずっと、自分を女の子と思って育ちました。少し大きくなって、男の子にならなくちゃって頑張ったときもあります。でも、わたしにとってその経験は辛く苦しいだけでした。
でも、中学生の時に自分と同じような悩みを持つ人に出会え、ありのままの自分を受け容れることが出来てからはすごく楽になりました。
そんなわたしは皆さんからどう見えるでしょう?
このカミングアウトにショックを受ける方もいらっしゃるかもしれません。
でも、もしこんなわたしをありのまま受け止めていただけたら……わたしはとても嬉しいです。
こんなわたしですけど、どうかこれからもよろしくお願いします』
 ナオはカメラに、いや画面の向こうで動画を眺める多くの視聴者に向かって深々と頭を下げた。
 カメラを止めた途端、ナオは「あー、やっちゃった」と頭を抱えた。「純さん、わたし『でも』って何度も言ってませんでした? 原稿には『でも』なんてなかったのに」
 ナオのクエストに応じてその後何テイクか撮り直したが、どれも最初のテイクは超えられなかった。ボクはナオが気になる箇所を編集でカットする約束をしたが、いざその箇所をカットしようとすると不自然になる。「ボクは気にならないよ」とナオを慰め、どこもカットせずに動画を投稿することにした。

 想像を遥かに超える反響だった。もちろんネガティブな発言も全く無かったわけじゃないが、コメント欄にはその何十倍も好意的な書き込みが並んでいた。
 ——それでも僕はナオちゃんが好きです
 ——勇気あるカミングアウトに感動しました
 ——改めて惚れ直しました
 ——もはや性別なんて無意味やね
 そうした純のフォロワー達に加えて、日頃見かけないメンバーからの応援メッセージも目についた。
 ——ファンになりました
 ——応援してます
 ——ナオちゃんかわいい
 ——女の私よりずっと綺麗
 ——私が男なら一目惚れする
 殆どが女性たちからのコメントだったが、どうやら複数のSNSで話題になっているようだった。

 高校卒業後のスタートを見据えて、新年から少しずつ発信する計画だったが、ボクのチャンネルの反響があまりに大きかったため、ナオは前倒しでクリスマスから配信をスタートすることになった。
 最初、ナオは写真中心の発信を考えていたが、これからはブログも動画の時代と考えていたボクは、ナオに動画編集のABCを教え、自分の機材から動画撮影に適した扱いやすいコンパクトなカメラを選び、小さなショットガンマイクを装着してナオに預けた。もちろんその後のフォローも抜かりはない。
 そうしてナオの動画配信は、予定より一週間早くスタートした。
『メリークリスマス! 皆さんはじめまして、ナオです』

 ナオのビデオブログのチャンネル登録は、たった三日でボクのユーチューブ・チャンネルの登録数を超えた。
 ネットでバズることは必ずしも良いことばかりじゃない。炎上だってその一種と言えるし、話題になる以上はある程度の批判や心ない誹謗中傷にも覚悟が必要だ。けれども、ナオはネガティブな意見にも丁寧にレスポンスし、その一方で行き過ぎたバッシングは完全にスルーした。その(すべ)は、けっしてボクが教えたわけじゃなく、幼少の頃から自然に身に付けたナオの処世術なのだろう。
 ジェンダーの壁を破ったナオはボクには無敵に見えた。柔らかくほわっーとした優しさの中には強い芯があり、女優になりたいというナオの念いにも、ボクが映像作家を目指すよりもずっと明確な覚悟が見えた。

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