第3話 ダブルシェブロン

文字数 4,587文字


 二回目のデートは二週間後の日曜日。
 撮影機材が多いときはベスパのスクーターじゃとても運べない。そんなときボクはカーシェアリングを利用した。でも、いつも予約のタイミングが合うとは限らないし、そろそろ自家用車が必要だと感じ始めていた。幸いアパートの隣の駐車場が一つ空き、大家さんは安く貸してくれるという。またとないチャンスだし、モデル撮影のときに今のベスパのようにちょっと洒落たクルマがあったらいい画が撮れそうだ。
 手持ちの現金には限りがあるが、仕事が不安定なボクは低金利のローンを組むことも難しい。ギリギリ八十万までならなんとかなるけれど、少しでも節約したい。もし予算内で国産車を求めたらパッとしない大衆車かかなり古いモデルになってしまう。そこでボクは日本で手に入る小粋な輸入車の中から、二人乗りのマイクロカー、スマートに的を絞って、インターネットの中古車サイトで手頃な物件を見つけた。あとは現車をこの目で確かめて試乗し、契約する運びになっていた。
 ナオはボクの大きな買い物に付き合ってくれることになった。よくあるショッピングからは程遠いが、ベスパの後ろにナオを乗せて走るタンデム・ツーリングは、ボクにとってはデート以外の何ものでもない。だからその日をボクは二回目のデートと数えることにした。

 ボクたちは朝九時に出発した。けれど、途中休憩したうえに少し道に迷って、漸く埼玉県三郷市の中古車販売店に辿り着いたのは、時計の針が殆ど真上を指す頃だった。
 商談を予約していたのは十年程前のフォーツークーペという車種。車両価格がちょうど五十万で、乗り出し六十万円という見積をボクはメールで受け取っていた。実車は想像していたよりも綺麗だったが、トランクはとても小さい。承知のうえで選んだ筈だったが、二人乗車して機材を載せると荷物はほとんど積めそうにない。少し不安になったし、隣に並んでいた同じ価格帯のフィアットも気になった。でも、着いて早々に他の車種を見せて欲しいと言い出すのは気が引けた。店の人はすでに試乗の準備をしていたので迷っている余裕はない。ボクは簡単な事務手続きのためにショールームを兼ねた社屋に戻るが、ナオは展示されている他のクルマを見ていたいと屋外展示場に残った。

 試乗のための書類の必要事項にだけ書き込み、営業担当の人と試乗車の場所に戻るとナオがいない。
「あれ? どこ行っちゃったんだろう」と辺りを見回していると、少し離れたところから声が聞こえた。
「純さん! ちょっとこっち来てくれますか?」
 ナオのいる方に歩いていくと、オレンジ色の見慣れないクルマがまるでボクを待っていたようにじっと佇んでいた。
「このクルマすごく可愛いでしょ?」とナオは嬉しそうに言う。
 ボクは咄嗟にスマホのレンズを向け、オレンジ色のクーペボディをバックにナオの笑顔を撮った。
 『シトロエンC3 プルリエール』と記された車名の下には、「登録H19、走行6万8千キロ、車両価格50万円」と書かれた札が掲げられている。
 試乗の準備をしていた営業マンが近づいてきた。
「これはなかなか楽しいクルマですよ。ワンオーナーで禁煙車ですし、前のオーナーが丁寧に乗っていたから、シートも七万キロ近く走行していると思えないほど綺麗なんです」と、スマートのことはそっちのけで嬉しそうに説明し始めた。
「どこの国のクルマですか?」とナオが訊ねた。ボクは知っていたが、営業マンに花を持たせることにした。自動車に関しては間違いなくボクより詳しいはずだから。
「フランスのシトロエンと言います」
「名前は聞いたことあります」とナオは応えた。
「来年百周年を迎える歴史のあるメーカーです。今はプジョーと同じ系列ですが、フランス大統領の公用車は殆どこのシトロエンですし、大衆車から高級車まですごく個性的な車を作るブランドです」
 ボディの先端に輝くエンブレムを眺めるナオに気づいて、彼はこう付け加えた。
「このエンブレムはダブルシェブロンと言って、歯車をシンボル化したものなんです。二つの歯車がピッタリ噛み合うイメージですね。ちょうどお二人みたいに」と言って彼は営業スマイルを見せた。文字通り歯が浮くような台詞——と思ったボクは笑いを堪えるのに必死だった。
「わたしたち友だちなんです」とナオが照れながらボクたちの関係を説明してくれた。「まだ知り合ったばかりだし、そんなこと言われると恥ずかしいです」
「これは失礼しました」と彼は真顔になる。「あんまり仲が良さそうだから、恋人同士かお兄さんと妹さんかと思いました」
 ちょっと口の軽い営業マンは、ナオにも名刺を渡しながら深々と頭を下げた。
「今回お世話させていただく山下と申します」
 山下さんは、取り外し可能なキャンバス地のルーフや、脱着するとオープンカーやトラックのように変身させることができるというパーツ類を一つ一つ丁寧に説明する。ボクよりもナオが真剣に耳を傾けるので、嬉しくなった彼は、部品の脱着を実演し始めた。重そうなパーツはボクたちも手を貸したが、山下さんは汗だくになってクルマと格闘していた。

 ナオが見つけてくれたオレンジ色のシトロエンにボクもすっかり魅せられていた。
 晴れた日はフルオープンにして、助手席にナオを乗せて空からドローンで追いかけたら、まるで映画のワンシーンのような映像が撮れそうだし、真っ白い雪の中なら鮮やかなオレンジのボディカラーが映えるに違いない。

 車検切れでナンバープレートがないため、ショップの敷地内をぐるっと試乗させてもらうことになった。営業マンの山下さんが助手席に座り、ナオを後席に乗せて、ボクはやがて相棒となるその車のハンドルを握る。
 最初の印象は、口が軽いお調子者という感じだった山下さんは、話を聴くと意外に誠実そうな人だった。
 そのシトロエンC3プルリエルは、新車で購入された後、ずっとガレージ内で保管されていたという。ボディの痛みも少なく、一番人気のオレンジエーリアルにしては市場の相場より安いが、それには理由があった。もしも先に中古車サイトを見ていたら『修復歴あり』と明記されていたことにボクも気づいたはずだった。分かり易く言えば事故車だ。それを知らずに実車のハンドルを握って購入を考え始めたボクに、一度追突されてトランクフロアを修復していることを山下さんはちゃんと説明してくれた。
「プロの目で見なければ判らないくらいの軽微な修復です。他の販売店なら修復歴無しにするところもあると思いますよ。正直な話、修復歴ありって掲示するとなかなか売れないので」
「そうですね。ボクもネットで検索するときは『修復歴なし』にチェックを入れます」
「お客さんのようにクルマに詳しい方は、皆さんそうされると思います。実はこのクルマ、すごく綺麗なボディだったので、初めはショールーム内に展示していたんです。でも、いざ商談となると、皆さんその点を気にされるんですね」
「判ります」とボクが言うと、彼は少しガッカリしたようだった。きっと、ボクも迷っていると想像したのだろう。
「結局、車検の時期まで買い手が付かなくて、屋外展示場に移したときに今の価格まで下げたんです。このクルマは滅多に市場にも出回らないですし、本当は私自身が欲しかったんですけど、クルマは家に二台あったから嫁さんに贅沢だって言われちゃいまして、泣く泣く諦めました」
「自動車のお仕事でも、三台めは贅沢ですか?」とボクは訊ねた。
「そうですね。一台はフォルクスワーゲンのミニバンで、もう一台は嫁さん専用の軽だから、三台めが二人しか乗れないスポーツカーとか、逆にもっと古いクラシックカーだったら、クルマ好きとして割り切れたのかもしれませんが」
「それでも一度は山下さんが欲しいと思ったくらい珍しいクルマなんですね。あまり街で見たことないですけど」とナオが後席から問いかけた。
「シトロエン自体、絶対数が少ないんですよ。ドイツのメーカーや同じフランスでもプジョーなんかに比べたらずっと。でも自動車評論家や芸能人には愛好家が多いですよ」
 私有地を何周か回るだけだったが、ハンドルを握るボクの気持ちは殆ど決まっていた。
「『修復歴なし』って表示されていても、実際には事故車もかなりあるって話を聞いたことがあります」
「そうなんですよ!」と言って、山下さんは膝を叩いた。「先ほども説明させて頂いたように本当に軽微な修復ですから、走行に影響を与えるようなフレームの歪みは一切ありません。正規ディーラーのサービス工場やどこかの板金屋さんで確認して頂いても大丈夫です。もし問題があったら全額返金します。ウチはちゃんとお客さんに納得して貰えるように正直に掲示していますし、買って頂くからには修復歴のあるなしに関わらず、新しいオーナーさんにご満足頂ける車両を提供するのがモットーですから」
 中古車サイトの口コミには、彼の言葉を証明するようなコメントがいくつも並んでいた。販売店の評価が高かったのも、商談にこの店を選んだ理由の一つだった。
「焦らなくても良いですよ。ゆっくり考えて頂ければ」と、山下さんはクルマを降りるときに言ってくれたが、ぼくの心は決まっていた。あとは予算だけ。
「車両価格はスマートと同じみたいですけど、総額でどのくらいになりますか?」
「車検整備はウチでやらせて貰うとして、乗り出しで七十八万でどうでしょうか? 登録から十一年経っているので車検前に交換する部品がかなりありますし、エンジンもタイミングベルトの交換が必要ですから」
「ちょっと予算が……」とボクは言った。足りないわけじゃないが、クルマを買うとなるといろいろと必要な経費もある。
「それじゃ七十五万円では、いかがですか?」
「その場合、いつ受け取れますか?」
「部品の取り寄せに時間がかかりますから、十日くらい見ていただければ」
 それでは来週末の撮影に間に合わない。ボクは聞きかじった知識で反論を試みた。
「タイミングベルトって十万キロで交換じゃないんですか?」
「確かに国産車はそのくらいなんですが、輸入車は少し早めが原則なんです。湿度が高い日本では経年劣化も本国とは違いますから、登録から十年以上になる車種は交換を強くお薦めしています」
「実は来週末にはどうしても乗りたいんです」
「なるほど……」と言って少し考えた後、彼は相好を崩した。「わかりました。タイベル交換なしなら総額七十万で今週中にお渡しできると思います。でも、もしタイミングベルトが切れたらエンジンがダメになりますから出来るだけ早く、遅くても一年後の定期点検の時には交換してください」

 ボクが売買契約の書類に書き込んでいたら、ナオはすまなそうな顔でボクの顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい。わたしが可愛いって言ったから、純さん無理したんじゃないですか?」
「ボクも気に入ったんだ。スマートじゃあまり荷物積めないしね」

 購入に必要な手続きを全て済ませ、店を後にしたボクたちはファミレスで少し遅めの昼食をとった。
「今日のクルマ、なんていう名前でしたっけ?」
「シトロエン」
「その下の名前」
「C3プルリエル。プルリエールかな?」
「わたし……プルリって呼んでも良いですか?」
 ボクは笑いながら答えた。
「いいよ。それじゃボクもプルリって呼ぶよ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み