第4話 ジェリーフィッシュ

文字数 2,134文字


 ランチを終えたボクたちはベスパの鼻先を池袋に向けた。行き先はサンシャイン水族館。目的のひとつは午前中大きなショッピングにつきあってくれたナオへのご褒美。クラゲの展示を楽しみにしていたナオは、何時間眺めていても飽きないという。
 そしてもうひとつの目的は、二台のスマートフォン用ジンバルの比較撮影だった。ジンバルはギンバルとも言うが、安定した映像を撮影するためのスタビライザー。その手の比較動画を他のユーチューバーがあまりやらないのは、スマホが一台しかないとジンバルを付け替える度にソフトを再起動して接続し直さなければならず、時間と手間がかかるから。たいていのユーチューバーはスマホを複数台持っているが、全く同じ機種を二台持っている人はあまりいない。幸いボクとナオはメモリの容量こそ違うが、全く同じ型のアイフォンを持っていたし、ナオはボクのために自分のスマホをよろこんで提供してくれた。そんなわけで、ボクは二刀流剣士のように両手にジンバルを持ち、撮影の度に利き手に持ち替えながらナオの姿を追った。
「こんなに美しくて優雅な生き物がこの世に存在してるって信じられますか?」
 ナオははじめ少し興奮気味だったが、だんだん癒やされてきたのか口数が少なくなり、長い時間立ち止まってクラゲの姿を眺めはじめた。クラゲトンネルの中でじっとミズクラゲの動きを見つめるナオの横顔は、蒼白い光に照らされてこの世のものとは思えないほど美しい。ボクは、こんなに美しくて儚い人間がこの世に存在してるって信じられる? とナオに返してあげたくなった。
「わたし、中学の時は海月姫ってあだ名だったの」とナオは嬉しそうに笑う。クラゲトンネルを出たところでナオは天井を指さす。「ここの展示はクラゲチームの人たちが愛情込めて作ったの。上に丸い水槽があるでしょ? あの中にいるアマクサクラゲは他のクラゲを食べちゃうから、彼らだけがあの中に閉じ込められてるのね」
 ボクにとってこれは仕事であってデートじゃない。でも、スマホの画面越しとは言え、ナオの姿をずっと眺め続ける時間は歓びそのものだった。瞼を大きく見開いてパシフィックシーネットルという大きなクラゲを見つめるナオの表情をスマホで捉えながら、もし許されるのならいつまでもずっとこうしていたいとボクは願った。

 楽しい時間はいつまでも続かない。ずっと撮影を続けていたアイフォンのバッテリー残量は残り僅かだった。気づけばボクも歩き続けで脚が痛い。持参した大きめのモバイルバッテリーから充電するために、ボクたちは館内のカフェで休憩することにした。
「今度は純さんの話を聞かせてください」
「ほんとはまだ大学生なんだ」
「大学……院生?」
「じゃなくて三年」
「二十五歳って言ってませんでした?」
「一年浪人して入って、留年して休学して、また留年して、今も休学中。学生証は身分証明になるし、ハードやソフトは学割で安く買えるしね。それに休学中は学費がかからないんだ」
「そうなんですか?」
「私立は違うところもあるみたいだけど」
「純さんの大学って国立?」
「東京農工大学って知ってる?」
「ごめんなさい」
「府中にあるんだけど、地味な学校だからね。もし東大だったらこんなに休学せずにちゃんと通ったかなって思うこともあるけどね」
「どんなことを勉強するんですか?」と言った後、ナオは言い直した。「大学って、専攻は何ですか? とか学部は? って聞くんですよね」
「そうだね。ボクは工学部だよ。知能情報システム工学科って、なんだか難しそうでしょ? 休学してる間にコースが変わっちゃったし、たぶんもうついて行けないと思う」
「ずっと休学するんですか?」
「まさか。いずれ復学か退学か選ばなきゃならない。ボクは優柔不断なのかな。戻れる安全な場所を失いたくなくてグズグズしてるだけ。今のままならきっと退学を選ぶと思う」
「なんだか勿体ない」
「ところで、ナオはスカウトされたのにどうして契約解除されちゃったの?」と言ってしまってから、ボクの質問が不躾過ぎたことに気づいた。「いや、こんなこと聞いたら失礼かもしれないけど」
「わたしが契約したのはモデルエージェンシーだったんです。事務所は雑誌のモデルに推薦してくれたけど、わたしが条件に合わなくて。マネージャーさんは頑張って別の仕事を探してくれてたんですけど、こんな田舎の子のために彼が人に頭を下げてる姿を見てたらなんだか申し訳なくなっちゃって」
「それじゃ、契約解除は自分から?」
「はい。わたしをクビにしてくださいって」
「ナオは優しいね」
「わたしも優柔不断なだけ」とナオは笑う。そして、ボクはまた胸の奥が締め付けられるほど切なくなるのを感じていた。

 休憩した後、ボクたちは館内をぐるっと眺めて周り、最後は空飛ぶペンギンの下を歩くナオをフォローしながら何カットか撮影してその日の仕事を終えた。
 ナオがショップで買い物を楽しんでる間に、ボクは自分のPCにナオのアイフォンを繋いで動画ファイルを吸い上げる。帰宅したら動画を整理して編集し、比較映像を製作しなければならない。ユーチューバーになりたいという最近の子供たちは、この仕事がどれだけ面倒で大変なものなのか知っているのだろうか?

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