第12話 不気味な隣人

文字数 3,819文字

「純さんにもうひとつ見てほしいものがあるんです」
 そう言うと、ナオは席を立って自分のiMacのスリープを解除する。紅茶を急いで口に運ぶと、ボクはナオに続いた。
「このノイズ、純さんの技術で目立たなくすることって出来ますか?」と言うと、ナオは画面に表示した音声トラックの波形を拡大した。続いて再生ボタンをクリックすると、収録されたナオの声の背後で人の話し声が聞こえる。ナオのアパートはボクのアパートに比べて壁が薄く、隣近所の音や声が時々聞こえるのが以前から気になっていた。
「このくらいならギリギリ抑えられるかな」
「雑音が入ってしまって撮り直すことばかりだから……」
「ノイズ処理用のプラグインをインストールしてあげるよ」と、ボクは床に置いたリュックからMacBookを取り出した。
「嬉しい! 使い方も教えてくれるんですよね?」と言うナオに、ボクは「もちろん」と応えた。ポケットから取り出したUSBメモリーにプラグインのインストーラーをコピーして、ナオのiMacにセットする。インストールは五分もかからずに完了した。早速ナオが開いたファイルをもう一度開いて、いくつかのパラメーターを操作すると、ナオが気にしていた話し声は全く聞こえなくなった。
「すごい! 魔法みたい」とナオは感心していたが、きれいに消せるノイズもあれば、どうにもならないものもある。
「ナオちゃん、最近のテイクでノイズがひどくてボツにしたのって、他にも何か残ってる?」
 ナオはボクの横からマウスに手を伸ばした。そのときパラッと下がった長い髪をナオは左手で掻き上げ、爽やかなシャンプーの香りがボクの鼻を刺激した。一瞬ボーッとしたボクが画面を注視していないことにナオは気づいた。
「純さん?」とボクを促す。「これなんかそうです」
「あ、ごめん」と我に返って、開かれた動画の音声トラックに視線を移す。スペースキーを叩いて再生を開始すると、甲高い女性の声とガラスのような硬い物がぶつかる音が聞こえたので、「これは?」とボクは振り返った。
「上の住人のケンカなんです」とナオは苦笑している。「夫婦じゃなくて同棲してるみたいなんですけど、ケンカも激しいし、夜も……」
「夜って……もしかしてベッドの軋む音が聞こえるとか? 尾崎豊の『I LOVE YOU』みたいに」とボクがツッコミを入れると、ナオは耳たぶを真っ赤にして、「声も……」と言って恥ずかしそうに俯いた。
「それはプラグインで消せるノイズじゃないな」と返したが、その場面を想像するとボクはナオを抱きしめたい衝動に駆られ、早々に退散することにした。「何か方法を考えておくよ。またメールするね」

 その夜興味本位でナオの裸を見てしまう奇妙な夢を見たボクは、そのイメージを振り払うように翌日ナオにメールした。
『ナオちゃん、昨日はごちそうさま。いろいろ考えたけど、あの環境じゃノイズ問題は解決できそうもないと思う。もし可能なら引っ越した方がいいんじゃないかな?』
 ナオは、少しお金を貯めてから出来れば防音設備のあるもう少し環境の整った部屋に越したい——と言う。結局、アパートでの収録が難しいことを理解したナオは、それ以来カラオケボックスを利用するようになった。


 バレンタイン・デーから二週間が過ぎた週末、深夜にナオからメールが届いた。ボクは眠い目を擦りながらメールを開く。
『純さん、こんな時間にごめんなさい。なんだか怖いんです。最近隣の部屋から変な物音や気配がして。今度時間のあるときに部屋に来てもらえますか?』
 そんなメールを読んだらボクも落ち着かなくなってしまい、空が明るくなりはじめた頃に電話した。
「おはよう。朝早くにごめんね」
「おはようございます。わたしの方こそ変な時間にメールしちゃってすみません」
「心配だから、もう少ししたらそっちに行くよ」と告げると、ボクは工具やテスター、それにハンディタイプのデジタル探知機——壁裏の鉄骨や配線を探知する装置——を機材用のバッグに詰め込んだ。
 朝食はシリアルで簡単に済ませ、空が明るくなった頃に家を出て七時頃にナオのアパートに着いた。階段を上がると、ちょうど隣の住人がドアを施錠して部屋を後にするところだった。ボクは「おはようございます」と挨拶したが、ニューヨーク・ヤンキースの帽子を目深に被った細身の男は、軽く会釈しただけで目を合わせようともせず、まるで逃げるように階段を降りて行った。その後ろ姿になんだか嫌な予感がする。
 ナオの部屋の前でインターフォンを鳴らそうとすると、ドアがゆっくり開いた。
「おはようございます。朝早くからすみません」とナオは笑顔を向けてくれたが、いつになく心細そうだ。「どうぞ上がってください」
「ボクが来たこと、どうしてわかったの?」と靴を脱ぎながらナオに訊ねた。
「外で挨拶してた声が純さんに似てたから……」
「そんなに大きな声だった?」と口にしながら、外の音が筒抜けなら隣の音もかなり聞こえるだろう——と思い、つい今しがた気になったことを伝えた。「そんなことより隣の人。今出て行くところだったけど、なんだか慌ててたみたいだったよ」
「あの人、今年になって引っ越してきたんですけど、ちょっと気味が悪いんです。廊下で会っても目も合わせずに隠れるように部屋に入ってしまうし」
「今もそんな感じだった。挨拶しても返事しなかったし。隣の部屋ってあの人の部屋のことだよね?」と聞くとナオは神妙な顔で頷いた。
「夜中によくガサゴソガサゴソいう音が聞こえるの。それに……わたしが着替えてる時にじーっと観られてるような変な気配を感じることがあるし、夜中に灯りを消すとピッて機械の音が聞こえる……」と言いかけたナオは今にも泣き出しそうだ。「わたしの気のせいなのかな? それならいいんだけど」
「わかった」と言って立ち上がったボクは、正直ナオの気のせいであることを願っていた。「先ず壁の辺りから調べてみよう」
 早速、ボクは隣の部屋に面した壁面をデジタル探知機で探っていく。一箇所だけ金属の何かが上下に伸びている箇所があったが、それは壁のコンセントに繋がっていたから配管用のパイプなのだろう。念のためにテレビアンテナや電話線のコンセント・パネルを開いてみたが、盗聴器など不審な物は見つからなかった。
「壁には何もないみたいだね」と言ってもナオはまだ浮かない顔をしている。
 更に天上も探ってみることにしたボクは、ナオに案内してもらって部屋の外にある共有の納戸から脚立を借りて来てビニールシートを敷いた上に立てた。しかし、天上にはパネルを固定する格子と通常の配線以外には何もなく、最後に照明のペンダントも外してみたが、怪しい物は何もみつからなかった。
 ところが、「何もなかったよ」とナオに声を掛けながら脚立から降りるとき、ボクはそれを見つけた。手にしていた懐中電灯の光がベランダに面したサッシの上の換気口に当たったときに、その奥にある何かが一瞬光を反射した。もういちど脚立に上がって光を当ててみると、換気口の奥に小さなガラスのような物が見える。ボクはすぐに脚立を真下に移動して換気口の蓋を弛めた。するとそこには小さなカメラが仕込まれていた。
「カメラだ」とボクが言うと、ナオは驚きのあまり瞬き一つせずに立ち尽くしている。ボクはそのまま脚立を降りてベランダに出た。ちょうど換気扇の外側の部分から目新しい配線モールが隣の部屋まで繋がっている。
 突然、ボクはバレンタイン・デーの夢を思い出した。夢の中でボクはナオが泊まっているホテルを訪ねるが、なぜかドアの鍵が開いていて、バスルームからシャワーの音が聞こえている。ボクはそれが悪いことと知りながら、興味本位でナオのシャワールームを覗いてしまう。そして夢から醒めた。
「ナオちゃん、トイレとか風呂場で何か異変を感じたことはある?」と訊ねると、紫色に変色した唇を震わせながらナオはゆっくり頷いた。
 ユニットバスに脚立を移動して天上の換気口を開くと予感は的中し、そこにも同型の小型カメラが仕掛けられていた。三十分ほどでカメラを全て取り外し、まさかとは思いながら、隣室とは反対側に位置する電灯線のコンセントを開いてみたら、小さな盗聴用のマイクが仕込まれていた。
「純さん……どうしよう」
 ボクはゆっくりとナオの背中をさすり、呼吸が落ち着くのを見計らって語りかけた。
「冷静になって聞いてね。ベランダのところの換気扇は外からでも仕込める。でも、室内のコンセントに仕込まれたマイクやユニットバスのカメラは部屋に入らないとセットできないんだ」とボクは説明し、気になったことをナオに訊ねた。「隣の人は今年越してきたって言ってたよね? その前はどんな人がいたの?」
「去年の夏までは一人暮らしのお婆さんが住んでました」とナオはゆっくり答える。「でも施設に入ることになって、それからは誰も……」
「ずっと空室だったの?」
「ずっと表札はそのままになってて。確か暮れにご家族が片付けに来ました」
「その後は誰もいなかったんだね? ナオちゃんが小豆島に帰ってた正月も」と訊ねるとナオは深く頷く。「誰の仕業かは、それが隣の人かどうかも、ボクたちが調べるよりプロに任せたほうが良いと思う。盗撮も盗聴も立派な犯罪だから、これから警察を呼ぶけど。いいかな?」
 少し間を置いて、ナオは「お願いします」と声を震わせながら応えた。

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