ディオニスは怒りを押し殺して言う。
川はゴーゴーと轟音を立てて流れていた。
メロスは川を渡るために自ら飛び込み、どうにもならずに溺れ、ディオニスに助けられた。
それくらいヤバい。
メロスはそれが大変なことだとは思わなかった。
しかし、大雨の後で水かさが増えた川などに近づくのは危険だ。ましてや橋が落ちたのに泳いで渡ろうとするメロスの感覚はおかしいとしか言えない。
大丈夫なものか。
おまえは溺れていただけではないか。
がんばったのはディオニスである。
ディオニスはもしもメロスを助けられなかったらと、考えるだけで身の毛がよだった。下手をしたらディオニス自身も危なかった。
この川にかかっていた橋が流されたのだぞ。この川沿いに住む者たちは、不自由な生活を強いられるのだ。おまえはそれを放っておけと言うのか?
ディオニスは責任感の強い男だった。
民が苦しむのを黙って見ていられないことはメロスも知っていた。
でも、ディオなら、もう大体のことは終わってるよね? ここにいてやることがあるかもしれないけど、ホントはシラクスに戻って、応援を呼んできた方が効率いいんじゃないの?
メロスの言う通りだった。
ディオニスは朝からこの辺りにいたので、できることはだいたい終わらせてしまっていた。
川を渡れなかったので待つしかなかったが、こちら側に来れたのならシラクスに向かった方がいい。
しかし、そう簡単に捕まるはずがない。
メロスは逃げた。
ディオの悪いところが見つからないから、バカって言うしかないんだもん。
せっちゃん、助けてくれるんなら、捕まってもいいけど……
そんな感じで川から離れ、峠の山道を走り、上りきった。
絶対にディオさんと一緒にシラクスに行かなきゃダメだからね。
(って、フレイアが言ってたから……。でも、けっこうディオ、遅いんだよね)
メロスは妹の言いつけを守り、ディオニスと一緒にシラクスに行くつもりでいた。
皆の想像よりはずっと若いが、若作りのおじさんは疲れていた。
走るわけ……、ぜぇ……
ないだろうが。ぜぇ……ぜぇ……
ディオニスはメロスをシラクスに行かせたくなかった。
メロスは空を見た。陽はすでに西に傾きはじめていた。
ディオニスはメロスにちょっかいを出しつつメロスの隣に座る。
じゃあ、ボク先に行くから、後から自分のペースで来て。
ディオニスは座ったままメロスを捕らえようとするが、メロスはひょいひょいと避ける。
メロスはディオニスに合わせてペースを落として走っていたが、ディオニスはメロスを追うために無理をした。
少しだけ休んだディオニスは元気をやや取り戻し、メロスを捕らえようとする。
メロスはディオニスを見て、後ろを見ながら走っていた。
シラクスの方から、集団がやってきていた。
みすぼらしい姿をしていたが、隊列を組んでやってくる。
メロスはディオニスにすがりつく。ディオニスもメロスを守るように立ちはだかった。
ふっ
山賊を装いたかったのであろうが、私相手に丸腰は不安だったのであろう。
これはおまえが持っておれ。
力は入れず、跳ね返すつもりで当てよ。
ディオニスの目が、鋭く光る。
予測不能なメロスに振り回されるよりは、こっちの方が得意分野だった。
最小の動きで周囲を見る。
ほんの僅かな時間だったが躊躇し、男は叫ぶ。
山賊のはずの男の方がぎこちなかった。
荷物はさきほど川で流されてな、山賊ごときが手にして喜ぶような物は……
(しまった。メロスがいた。こいつは私が何をもってしても守りたい至宝ぞ)
貴様らが悦ぶような者はいない!!(※意味 メロスは俺んだ触んな)
(やっぱディオはすごいな。どこにこんな気力が残ってたんだ?)
いや、キサマの命が欲しいんだが……。
(※意味 メロスは別にいらない)
ディオニスは太刀筋を見て、身体をわずかに動かして避ける。
貴様らは言われた通りに動いているだけであろう。悪く思うでないぞ。私の前に立ちはだかったことを篤と後悔するがよい。
(そんなこと言ってるヒマがあったら倒せばいいのに)
背中を守るメロスはそう思いながら、短剣で軽く山賊の剣をはじく。
山賊たちは声を上げてから切りかかってきていた。
メロスは声がしてから反応して防いでいた。
その男の手元まで踏み込み、剣を奪うと突き飛ばした。
持っていた武器がなくなり、男は驚いていた。
その剣はディオニスが持っている。
これできさまらが生き残れる可能性が減ったぞ。おまえは失態を犯した。
ディオニスに向かい、剣を振り下ろしてくる男がいた。
ディオニスはとっさにそれを避け、反射的に切り付けてしまった。
メロスは短剣でディオニスの剣を受けた。
目の前で自分の剣を受けている恋人を見て、ディオニスは血の気が引いた。
この人、自分の味方を助けようとしてたんだよ。殺しちゃダメだよ。
こいつらは私を殺そうとしているのだ。情けをかける必要はない。
情けとかわかんないし!
すぐ殺そうとするの、ダメっ!
こいつらはどさくさに紛れて私を暗殺しに来たやつらだ!
山賊というのは、金品を奪い、人の命を奪うのだろう?
なぜ私に聞くのだ。通常の山賊は金品を奪うのが目的で、人命を奪うのは目的ではない。金品を守ろうとするから、命を落とす者がいるのだ。
そもそもおまえらは山賊に見えん。剣で武装しているし、シラクスから隊列を組んでやって来ておる。そんな山賊などいるものか。
我らはただ、街道を通っている者がいたら殺せと言われただけです。この者どもは、あなたが誰かを知りません。
おまえは見覚えがあるぞ。こんなところで何をしておるのだ。
大したことではない。それに、おまえを忘れろという方が難しい。
いちおう、義理とか人情とかってあるんで、そこはご勘弁を。
そんなものは知らん。
大罪を逃すわけにはいかぬ。言わねば貴様が死ぬことになるぞ。
淡々と言い、ディオニスは剣を動かしてチャっと音をさせる。
あのね、こんなこと言ってるけど、ディオってホントはすっごいお……
この先、貴様らが悪事を働くことを止めるのならば、見逃してやらぬこともない。もう山賊などやめ、兵士にでもなるがよい。
これは名のるほどでもない旅人のアドバイスだが、この先を行けば川がある。
昨日の大雨で氾濫して橋が落ちた。周辺の者が困っているので、助ければいいのではないか?
その代わり、ここにいる者どもで心して働け。それだけのことをしたのだからな。
私と一緒にいた、この世のものとは思えぬ愛くるしい生き物を知らぬか?
その者ならば、シラクスに向かって走って行きました。
もっともらしいことを言い、ディオニスは彼らにこと細かく指示を出した。
このようなことになり、貴様らも運がなかったが、心して励め。
いえ、そのようなことは。おう……、旅人様から直々にご指示いただき、恐悦至極にございます。
昔はそのようなことを言うキャラではなかったであろう。
作業を終えるまで、シラクスに戻ることは赦さんからな。
そう言ってディオニスはメロスを追ってシラクスに向かった。
メロスはシラクスに向かってしまっている。
友のセリヌンティウスを助けるために。
ちょっとでも悪事を働いたヤツは何があっても許さないヤツだぞ。
噂なんて、そんなもんだ。
ほら、言われたことしないと、今度こそ磔刑だぞ。
(ただ、あのちょこまかすばしっこいのは何だったんだ?)
(俺でもよけきれないディオニス王の会心の一撃を短剣で防いでたぞ)