1 渡河

文字数 4,021文字

ぬかるんでいるところもあったが、陽が当たっている所はわりと乾いていた。

それでも思っていたよりも進めなかった。


しかし、メロスは走った。

まだ日はあまり低くなっていなかった。

(これなら楽勝で着けるかも)

メロスは早歩きで間に合うくらいの時間には家を出ていた。


荷物も妹が持たせてくれた弁当と、ディオニスからもらった大事な短剣だけ。

村に帰る時に比べたら、はるかに軽くて走り易かった。


持ちまえの呑気さを発揮し、明るい気持ちでメロスは走っていた。
(川……、川……、川はまだか……)
メロスはディオニスを探していた。
絶対にディオさんと一緒にシラクスに行くんだよ!
と妹に言われていたので、それに従うつもりでいた。
(見つからなくても、シラクスには行かなきゃな)

帰ってこなくてもいいぞ。

俺の命がお前の命に代わるのなら、俺は喜んでこの命を捨てよう。

メロスは友の言葉を思い出す。
(絶対にせっちゃんにそんなことにはさせない)
メロスは走った。

そして、けっこう来たところで川が見えてきた。

(なんか、大きくなってないか?)

先に見えた川が、前に見た時と印象が違っていた。


来たときよりも幅が広くなり、水かさもましているように感じた。

そして、あるはずの橋もなくなっているように見える。

(気のせいかな?)
そう思いつつ、橋があったと思われる場所に、よく知った人影を見て、メロスは足を速めた。
(ディオだ)
恋人を見つけ、喜々として走って行く。
……
ディオニスは腕を組み、眉間にシワを寄せて川を見ていた。
ディオ!
ディオニスはメロスの声に振り返る。
もう来たのか?
よかった。会えて。
恋人を見て驚いて、さらに自分に向かって突っ込んできたので驚きつつも抱き止める。
川に落ちるつもりか、バカ者め。
え?
見ると、橋は跡形もなくなっていた。

ディオニスはメロスが川に落ちないように、立ちはだかっていた。

これ、どうなっちゃったの?

道の先には橋の残骸のような物しかなく、川面は恐ろしい勢いでうねっている。

船着き場もあったが、水はその上を流れていて、船は見当たらず、渡守(わたしもり)もいなかった。

昨日の豪雨で山の水源地が氾濫(はんらん)し、下流に大量の水が一気に流れてきて、この辺りの橋はすべて流されたようだ。

じゃあ、渡れないの?
渡れると思うか?
……

メロスはじっと道の先を見た。


あるべきはずの橋はなく、川は見たこともないようなうねりを見せ、聞いたこともないような轟音(ごうおん)を響かせていた。

近くの村の者に修理を要請したが、川がこの状態ではどうしようもない。この他にも被害が出ているから、シラクスに戻り応援を呼びたいが、ここで足止めだ。
淡々とディオニスは言った。
足止め?
向こう側には渡れない。

だからおまえを迎えに行こうか迷っていたところだ。

ディオ?

行き違いにならなくてよかった。この先の村に宿を取ってある。今宵はそこに泊まるつもりだ。しばらくその村に逗留することになるやもしれん。

ディオニスはまじめに働く王の顔になっていた。
でも、日没までに、シラクスに着かなかったら、せっちゃんは?
心細そうにディオニスを見上げる。
……
ディオニスは黙ってメロスを見つめた。
なんとかしてくれるんだよね?
こうなってしまっては無理だ。
天災ならメロスも諦めると思い、ディオニスは言つた。
無理って、どういうこと……?
日没までにお前がシラクスに着かなければ、セリヌンティウスを殺すように言ってある。
どうして?!
メロスにも信じたくないという気持ちと、やっぱりという気持ちがあった。

反逆の罪を赦してはならんのだ。

誰かを罰せねば、この件は収まらぬ。

何を言っても聞き入れそうにない顔をしていた。
反逆って……
ボクは……

ディオを殺そうなんて思ったことないよ……

……
一度だってないよ……
メロスはディオニスに抱きついて泣いた。
私だってそうだ!
ディオニスはメロスを抱きしめる。
大好きな人、

殺そうとするはずないよ……

世間はそうは見ぬ。

お前は武器を持って王城に入り込んだのだ。

ディオがくれた護身用の短剣だよ……
それを証明することはできぬのだ!
二人きりでいるときに、ディオニスはメロスに短剣を渡した。
ディオが会ってくれなかったから、会いたいだけだったんだ……
……
ディオに会いたいだけだったんだよ……
そんな自分のわがままのために、セリヌンティウスが犠牲になることは、メロスには耐えがたいことだった。
すまぬ……
ディオニスはメロスを強く抱きしめる。
おまえを失うなど、考えたくもなかったのだ。
だからって、

せっちゃんを殺すなんて……

泣きじゃくりながらメロスは言う。
あいつは自分で言ったのだ。
俺の命でメロスを救えるのなら、こんなに喜ばしいことはない。

自分で望んでいるのだ。

それを叶えてやって、何がいけない?

ディオニスは無機質な目をしていた。


「メロスを助けたい」

そのために憎き恋敵を亡き者にできるなら、願ったり叶ったりである。

ボクは……!
メロスは叫んだが、辛そうにうつむいた。
ボクは、せっちゃんを犠牲にして、生きていたいなんて、思わない……
私の願いでもか?
え?

ビクっとして顔を上げ、メロスはディオニスを見つめる。

ディオニスは、その頬に触れた。

おまえが死んだら、私はどうしたらいいのだ? 最愛の者に死なれ、目ざわりな男が生き残るなど……。そんなことになったら、この先どうすればいいのだ?
(最愛の者……?)
嘘を言っているようには見えなかった。

夢見心地で呆然としているメロスに、ディオニスはキスをした。

私をひとりにしないでくれ……
ディオ……
ディオニスは人目につかない木陰にメロスを連れて行こうとした。
(ボクは……)
メロスはそれに従っていた。
……
メロスの脳裏に、いつも困ったように眉をしかめて微笑んでいた友の顔が浮かんだ。

何かを言うわけでもなく、ただ、黙ってメロスを見つめていた友の。

……んっ!
メロスはありったけの力でディオニスを道の真ん中に突き飛ばした。
?!

ディオニスは地面にしりもちをつき、信じられないという顔をした。

今までメロスはなんだかんだ言ってはいたが、ディオニスの要求を本当の意味で拒んだことはなかった。

ボクは……、ボクはやっぱりせっちゃんが死ぬなんて嫌だ!
メロスは戸惑いがちに叫んだ。
せっちゃんは……、せっちゃんは……

一緒に育ってきたセリヌンティウスを思い出す。


小さい頃からずっと一緒で、辛いことも楽しいことも共に分かち合った。セリヌンティウスがシラクスに来て石工になり、一時期疎遠にはなったが、妹のおかげでまた一緒に過ごせるようになった。


そして、気づくと近くにいてくれたし、メロスもそれを頼っていた。

帰ってこなくてもいいぞ。

そう言って、静かに微笑む友。

そのセリヌンティウスが、自分の元から永遠にいなくなる。


そんなこと、考えられなかった。

ごめん、ディオ……
メロスは泣きながらポツンと呟いた。
何を謝っているのだ?
声は荒げていないが、ジワジワと怒りが伝わってくる。
ボクは、せっちゃんに「絶対に戻る」って言ったんだ。
ディオニスを見ながら、少しずつ後ずさる。

川に向かって。

ボクは嘘をつきたくない!
メロスは叫び、濁流に身を投じた。
メロス?!

ディオニスは驚いて、流されるメロスの行方を追った。


死のうとしたわけではなく、泳いで向こう岸に渡ろうとしているように見えなくもなかった。

ただ、流される方が多い。というか、まったく泳げていない。


泳ぐことは苦手のようだ。

どんどん、流されていく。 


そして、川の半ばを過ぎたあたりで上がってこなくなった。

メロス!!!

考えるよりも飛び込んでいた。


必死の形相で泳ぎ、力技でぐんぐん進み、川底で流されているメロスを見つけ、それを助け上げた。

奇跡以外の何物でもなかった。


ただの純粋な執念。

冥府(めいふ)の王ハデスが気圧(けお)される勢いだ。


メロスを抱いたまま、ディオニスはガシガシ泳いだ。

流れがやや対岸に向かっていたので、そちらに向かった。


一刻も早く恋人を陸へ上げなければ。

それしか考えていなかった。


川の流れは激しく、ディオニスの荷物は流され、しかし、メロスだけはしっかりとつかみ、懸命に泳いだ。濁流にも負けぬ愛と偉大な力で、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波を相手に格闘した。


満身の力を腕に込め、片手で恋人を抱き、片手で押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかきわけかきわけ、戦場(いくさば)猛者(もさ)は人ならざる力をもって対岸の樹木の幹にたどり着いた。

はぁああああ!
ディオニスは声を上げ、馬のように大きな胴震いをひとつした。
(……よく渡れたものだ)

息も絶え絶えにディオニスは思った。


生きていることが信じられなかった。

珍しく大神ゼウスに感謝した。
……
しかし、それでもまだ安心はできない。

腕に抱えた恋人は意識がなかった。

メロス! 死ぬな!
対岸に上がると、意識がなくなっていたメロスの甦生を行った。
げほっ!
何回かの心臓マッサージと人工呼吸の後、水を吐き出し、メロスは息を吹き返した。
お前というヤツはぁあああ!!!
ホッとしたこともあったが、先ほどのこともあり、ディオニスの怒りは最高潮だった。
死ぬかと思った。

横になったまま、ポツリとメロスは言った。

流れの向こうに神々しい雲とお花畑が見えた気がした。

当たり前だ!

このような川に飛び込むなど、正気の沙汰とは思えん!

ディオニスは顔を真っ赤にして怒鳴った。
バカか? バカなのか? バカとしか思えん!!
怒りまくっているディオニスをメロスはポケッとした顔で見つめた。
川、渡れた?
ぽーっとした顔でメロスが聞いてきた。
私がいなかったら、どうなっていたと思うのだ!

ディオニスはメロスの質問に答えずに怒鳴った。

……

しかたがなく、メロスは起き上がって周囲を見回した。

まだ頭がクラクラしている。


そして、対岸に渡ったことがわかった。

これで

シラクスに行けるね。

ニコニコとメロスは言った。
………………………………
ディオニスは言葉を失った。
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登場人物紹介

メロス

村から王都シラクスまで走ります。

ディオニス

暴君。

メロスの今カレ。

セリヌンティウス
メロスの幼なじみ&同居人

フレイア

メロスの妹。

アレクサンドロス

妹の婚約者。

メロスの元カレ。

村長

村でいちばん偉い人

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