1 渡河
文字数 4,021文字
ぬかるんでいるところもあったが、陽が当たっている所はわりと乾いていた。
それでも思っていたよりも進めなかった。
しかし、メロスは走った。
まだ日はあまり低くなっていなかった。
メロスは早歩きで間に合うくらいの時間には家を出ていた。
荷物も妹が持たせてくれた弁当と、ディオニスからもらった大事な短剣だけ。
村に帰る時に比べたら、はるかに軽くて走り易かった。
そして、けっこう来たところで川が見えてきた。
先に見えた川が、前に見た時と印象が違っていた。
来たときよりも幅が広くなり、水かさもましているように感じた。
そして、あるはずの橋もなくなっているように見える。
ディオニスはメロスが川に落ちないように、立ちはだかっていた。
道の先には橋の残骸のような物しかなく、川面は恐ろしい勢いでうねっている。
船着き場もあったが、水はその上を流れていて、船は見当たらず、
メロスはじっと道の先を見た。
あるべきはずの橋はなく、川は見たこともないようなうねりを見せ、聞いたこともないような
ディオニスは無機質な目をしていた。
「メロスを助けたい」
そのために憎き恋敵を亡き者にできるなら、願ったり叶ったりである。
ビクっとして顔を上げ、メロスはディオニスを見つめる。
ディオニスは、その頬に触れた。
夢見心地で呆然としているメロスに、ディオニスはキスをした。
何かを言うわけでもなく、ただ、黙ってメロスを見つめていた友の。
ディオニスは地面にしりもちをつき、信じられないという顔をした。
今までメロスはなんだかんだ言ってはいたが、ディオニスの要求を本当の意味で拒んだことはなかった。
一緒に育ってきたセリヌンティウスを思い出す。
小さい頃からずっと一緒で、辛いことも楽しいことも共に分かち合った。セリヌンティウスがシラクスに来て石工になり、一時期疎遠にはなったが、妹のおかげでまた一緒に過ごせるようになった。
そして、気づくと近くにいてくれたし、メロスもそれを頼っていた。
そう言って、静かに微笑む友。
そのセリヌンティウスが、自分の元から永遠にいなくなる。
そんなこと、考えられなかった。
川に向かって。
ディオニスは驚いて、流されるメロスの行方を追った。
死のうとしたわけではなく、泳いで向こう岸に渡ろうとしているように見えなくもなかった。
ただ、流される方が多い。というか、まったく泳げていない。
泳ぐことは苦手のようだ。
どんどん、流されていく。
そして、川の半ばを過ぎたあたりで上がってこなくなった。
考えるよりも飛び込んでいた。
必死の形相で泳ぎ、力技でぐんぐん進み、川底で流されているメロスを見つけ、それを助け上げた。
奇跡以外の何物でもなかった。
ただの純粋な執念。
メロスを抱いたまま、ディオニスはガシガシ泳いだ。
流れがやや対岸に向かっていたので、そちらに向かった。
一刻も早く恋人を陸へ上げなければ。
それしか考えていなかった。
川の流れは激しく、ディオニスの荷物は流され、しかし、メロスだけはしっかりとつかみ、懸命に泳いだ。濁流にも負けぬ愛と偉大な力で、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波を相手に格闘した。
満身の力を腕に込め、片手で恋人を抱き、片手で押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかきわけかきわけ、
息も絶え絶えにディオニスは思った。
生きていることが信じられなかった。
珍しく大神ゼウスに感謝した。腕に抱えた恋人は意識がなかった。
横になったまま、ポツリとメロスは言った。
流れの向こうに神々しい雲とお花畑が見えた気がした。
ディオニスはメロスの質問に答えずに怒鳴った。
しかたがなく、メロスは起き上がって周囲を見回した。
まだ頭がクラクラしている。
そして、対岸に渡ったことがわかった。